聖徳太子研究の最前線

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斬新な説とトンデモ説の境目:松尾光「聖徳太子は山背大兄王の虚像か」

2021年04月09日 | 論文・研究書紹介
 定説は新しい説によって批判されて変わっていくものですが、新しければ正しいという保証はありません。また、間違った説であっても、刺激を与えて学問を発展させる場合もあります。

 その間違いの程度、含まれる問題の程度は様ざまであり、そもそも前提がまったく誤っているもの、きわめて着実な考察でありながらほんの一部が正しくないため不自然な結論に至っているもの、おおよそは正しいと思われるものの、証拠不十分であってそこまでは言えないだろうと思われるものなど、いろいろです。

 そうした中で、トンデモ説に近いのは、そのような問題点があることを自覚せず、「ついに真実を発見した!」と思い込んで断定を重ねるような場合ですね。聖徳太子研究には、そうした例が多いのですが、かなり推定に頼っていながらトンデモ説にはなっていない例をご紹介しましょう。
 
松尾光「聖徳太子は山背大兄王の虚像か」(松尾『古代の王朝と人物』、笠間書院、1997年)

です。

 松尾氏は、聖徳太子伝説が伝えるような偉大な人物が実際にいたことを疑います。氏は、三経義疏は中国成立などとは言わず、和習があることを認めたうえで、「朝鮮半島からの舶載書と考えれば、そうしたことはありうる。これがいまいちばん説得力のある理解だ、と私は思う」(99頁)と述べます。

 「これがいまいちばん説得力のある理解だ」いう言い方は、「現在残されている資料、現在の研究状況から判断する限り」という限定をつけていることを示しており、私の三経義疏論文が出る前である1997年頃としては、妥当な見方です。

 松尾氏はさらに、厩戸皇子は「太子」と呼ばれていたかもしれないが、長子を意味する「太子」と「皇太子」は違うとし、また『日本書紀』では冠位十二階は太子の制定と書いていないなど、太子の事績とされるものを次々に疑った後、では超人的な聖徳太子像を作ったのは誰かという問題に移ります。

 そこで松尾氏があげるのは、太子の息子である山背大兄王であって、「山背大兄王が自画像を一世代前に投影して作り上げたのが聖徳太子像ではないか」(106頁)と述べます。天智天皇(中大兄皇子)にも動機はあるとし、天武天皇や持統天皇なども捏造に関わった可能性があるとするものの、最も可能性があるのは山背大兄王の捏造だと考えるとするのです。

 ただ、「それはまだ粗い試案である」(111頁)と述べ、「私の試案の当否はともあれ、聖徳太子聖者伝説をそのまま信じることから一度身をひきはなして、どうしてこういう伝説が作られたのか、それを虚心に検討する必要性を認識してもらいたいものである」(同)と述べてしめくくっています。

 以上のように、論証のない推測にすぎませんが、重要なのは、書いている当人もそのことを自覚していることです。「邪馬台国は、どこどこにあった! 私はついに発見した!」などとなると、トンデモ説となるのですが、松尾氏はあくまでも仮説として述べているところが違います。

 また、聖徳太子を神格化した人物の1人が山背大兄であった可能性があるという点は、考慮すべき事柄です。太子に代わって斑鳩寺と四天王寺を管理するようになった山背大兄が、天皇になろうとしてしきりに運動していた時期に、自分の父親がいかに聖人のような存在であったかを強調し、また斑鳩寺や四天王寺の僧がおこなう太子礼賛を支援し、伝記をふくらませた程度であれば、充分考えられるからです。この場合、「自画像」というのは、そうありたい自分の姿ということになりますね。

 なお、三経義疏は朝鮮成立というのは妥当な判断のようでありながら、実際には朝鮮半島と日本の仏教交流の盛んさを考えていない推測です。7世紀には多くの百済や高句麗の僧侶が来日しており、また日本からの留学僧も多かったのですから、朝鮮の仏教文献であるなら噂がすぐ広まったはずです。

 古代にあっては紙は貴重であり、平安時代になって日本でも良い紙が作られるようになると、遣唐使たちは20枚ほどの紙を中国の役人へお土産として渡したりしているほどです。まして、『法華義疏』は隋の良い紙に書かれています。語法や学風がそっくりな『勝鬘経義疏』の写本も、後に印刷された木版本を見ると、『法華義疏』そっくりの書体で書かれていたことが推測されます。

 6世紀初め前後に百済や高句麗でそうした紙を使い、複数の経典に対して何巻もの注釈を書くような僧であれば、ある程度は名を知られているでしょう。そうした僧侶の注釈が聖徳太子の作とされたのなら、話題にならないはずがありません。実際、龍樹菩薩造とされる『釈摩訶衍論』は、奈良時代に日本に将来された際、偽作だとして批判されており、後になると、来日した新羅僧によって、これは新羅の月忠という僧が作ったとする話が伝えられています。