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倭国は隋に音楽を貢納し鼓吹を下賜されていた?:渡辺信一郎「隋の楽制改革と倭国」

2021年04月05日 | 論文・研究書紹介
 遣隋使・遣唐使というと、文化・文物の導入という面が大きいものの、日本が中国に伝えたものも多少存在します。その一例が、音楽です。この点をとりあげたのが、

渡辺信一郎『中国古代の楽制と国家-日本雅楽の源流-』「第三部第一章 隋の楽制改革と倭国」(文理閣、2013年)

です。

 まず、南北を統一した隋は、音楽・芸能を、(1)雅楽、(2)燕楽、(3)鼓吹楽、(4)散楽、という四つの部門に編成し直して改革を試みました。このうち、雅楽は、皇帝が行う国家儀礼に用いるもので、日本には入ってきていません。今日、日本で雅楽と呼んでいるのは、宮廷での宴会の音楽である燕楽と楽しくて芸能面が強い散楽を日本風に改変したものです。

 『隋書』巻15の音楽志下では、開皇年間(581-600)の初めに燕楽に「七部楽」を定めたと述べ、(1)国伎、(2)清商伎、(3)高麗伎、(4)天竺伎、(5)安国伎、(6)亀茲伎、(7)文康伎の7部に分け、燕楽に相当する雑楽として疏勒伎・扶南伎・康国伎・百済伎・突厥伎・新羅伎・倭国伎等があったとしています。

 純粋な中国の音楽は清商伎だけであって、多くはシルクロード系、あとは周辺国のものやそれが中国の音楽と融合したものですね。

 ところで、『隋書』東夷伝の倭国条では、「その王は朝会には儀仗を供え、国楽を演奏させた」と述べていますので、隋の時代の倭国の朝廷では自国の音楽が演奏されていたことが分かります。

 問題は、『隋書』の倭国伝では、大業3年(607)に王が隋に朝貢使をつかわしたため、翌年、隋が斐世清を遣使すると、倭王は小徳の「阿輩台をつかわし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓・角を演奏して迎えた」とあることです。

 『日本書紀』の推古16年(608)8月3日条では、「飾り騎七十五匹を遣り、唐の客を海石榴市の術(ちまた)に迎」え、額田部連比羅夫が応対したとなっており、音楽には触れていませんが、二つの記事は良く対応しており、隋風な角笛を用いた鼓吹楽による迎賓儀礼がなされていたことが推測されます。

 しかし、鼓吹楽はいつ倭国に入ったのか。鼓吹楽は、王侯・臣下に対して、身分に応じて数の異なる楽人たちが下賜されるものですし、異民族の王などにも与えられるものです。その鼓吹楽が倭国に存在するということは、開皇年間に倭国が隋の文帝に派遣した際、倭国伎と称される音楽(楽人)を貢納して鼓吹楽を下賜されたものと見るほかないと渡辺氏は説くのです。

 相手国がどのような外交関係を望もうと、隋の側は朝貢とみなして扱うのが原則です。『日本書紀』に最初の遣隋使に関する記事がないのは、『日本書紀』編纂時の日本の立場と異なっていてまずい状況だったためである可能性に触れ、論文をしめくくっています。

 こうしたちょっとした記述から、外交のあり方が見えてくるというのは、面白いですね。渡辺説については、いろいろな意見があるでしょうが、新しい視点を提供したことは事実です。