聖徳太子研究の最前線

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丸山真男の「十七条憲法」論:『丸山真男講義録第四冊(日本政治思想史 1964)』

2021年04月27日 | 論文・研究書紹介
 先の記事で、大山誠一氏が津田左右吉は「憲法十七条」を奈良朝成立と説いたと述べているのは事実に反すると書きましたので(こちら)、学界一般ではどう見ているか紹介しようとしていたら、古いながら面白い議論を思い出しました。

丸山真男「一 十七条憲法における統治の倫理」
(『丸山真男講義録第四冊(日本政治思想史 1964)』「第四章 王法と仏法」、
東京大学出版会、1998年)

です。

 丸山が昭和39(1964)年度に東京大学法学部でおこなった「東洋政治思想史」の講義のためのノートをテキスト化したものです。丸山は、前年度には「第三章 普遍者の自覚」において「第一節 聖徳太子の十七条憲法」として講義しており、この時期には日本政治思想史に聖徳太子をどう位置づけようか模索していたことが知られます。

 そもそも、この「東洋政治思想史」という科目は、国家主義が高まっていた昭和14(1939)年、文部省が国体教育のための講座を置くよう諸大学に命じたとことろ、リベラル派であった東大法学部長の南原繁が、国家主義の根底となる古代神話を後代の作とし、聖徳太子の事績についても大胆に疑っていた早稲田大学の津田左右吉をあえて招請し、「東洋政治思想史」として開講したものでした。

 しかも、その時、法学部の助手として津田の世話をしたのが、丸山でした。津田のこの時期の講義が終わると、このブログでもコーナーを作って取り上げている聖徳太子崇拝の超国家主義者たちに指導されていた学生が、津田を詰難する質問を始めたため、丸山が「南原学部長が紹介されたように、他校に出講されたことがない津田先生にわざわざ来ていただいて講義していただいているのに無礼ではないか」と発言して質疑を打ち切り、津田を控え室に案内すると、学生たちが乗り込んできます。

 丸山は制止しますが、津田は「講義に関する質問なら受ける」と言い、午後四時ころから過激な論難に答えていきましたが、夜の九時半あたりまで続いたため、丸山がこんな連中を相手にしても仕方ないと津田を外に連れ出したのです(こちら)。津田は、こんな風潮が強まるようだと日本は滅びると憂慮していました。

 このように、丸山は津田を学者として尊敬していたのですが、自分自身が戦後になって「東洋政治思想史」を担当した際は、「憲法十七条」を「聖徳太子という卓越した思想家の手になる……独立した作品」(148頁)と評価して講義したのです。

 この講義では、「憲法十七条」について大化の改新以後の作という説に触れた後、「今日では圧倒的多数の専門家は、たとえ部分的に後世の加筆があったにせよ、その基底に流れる觀念は聖徳太子の他の著作とも照応しているので、これを完全に偽作とする説は、今日の専門家の間には存しない」(同)と断言しています。

 そして、諸説として、

1) 漢文のスタイルから後世の作とする狩谷掖斎の説
2) だいたい推古朝の作としつつも、太子作という点を疑う久米邦武などの説
3) 「主として用語や内容の検討からして、大化改新以後、ほぼ天武朝の頃の作と推定する説(津田左右吉)」(149頁)

をあげ、津田説について詳説していますが、大山氏のように「奈良朝の作」などとは言っておらず、「ほぼ天武朝の頃の作と推定」と述べています。これが通常の理解です。大山氏は津田をきちんと読まず、自説に都合良く歪めて利用し続けているのです。

 さて、丸山は講義では、十七条憲法は、世界宗教である仏教を「統治倫理の側面において明確に提示した最初の傑作であった」(154頁)と評価します。

 そして、十七条全体が「さまざまな執着の形は、凡夫の煩悩という共通の根からの発現形態だ」という仏教的な立ち場で貫かれ、党派の争いもその立ち場から説かれているとして、『維摩経義疏』の対応する部分を引いています。そしのうえで、十七条憲法は君主の絶対性を説くものの、地上の権威を普遍的な真理の下に置こうとしていると述べ、こうした十七条憲法の思想は「当時の政治的現実からは遊離した理念であった」(163頁)と評します。

 聖徳太子は、「内政面においては必ずしも強力な位置にはなく、冠位十二階の制定、隋帝国との外交に成果をあげてはいたが、日増しに強大になる蘇我馬子の勢力の前に手をこまねいていた」(同)とし、晩年には政治から離れていったと見るのです。

 丸山は最後に、『聖徳太子伝暦』などが太子を「超人間的な聖者」としようとしたことは、仏教を普遍的な真理と見て「世間は虚仮」と認識した「太子の思想史的意義をかえって低めるもの」(164頁)であり、江戸時代の儒者や国学者の激烈な太子批判の方に、意外にも太子の「正しい位置づけが見いだされる」としめくくっています。

 つまり、普遍なるものを自覚し、新しい方向を打ち出したものの、馬子に圧迫されて表舞台から退いていった人間と見るのです。これは、「皇室 vs. 横暴な豪族馬子」という戦前の図式を戦後風に改めた「普遍的・人間的で挫折した聖徳太子 vs. 民族的・呪術的な権力者馬子」という左派の仏教史学者の図式に似てますね。

 なお、明治人らしい皇室好きのナショナリストであった津田左右吉が、なぜ神話や聖徳太子の事績を疑ったかについては、いずれ書きましょう。