聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子を礼賛して中村元を籠絡する梅原猛

2021年04月22日 | その他
 直観に基づいて法隆寺は聖徳太子の怨霊封じの寺だと論じた梅原猛(1925-2019)の説のひどさは、このブログの「珍説奇説」コーナーで3回にわたって詳しく論じた通りです。

 ただ、梅原の直観はたまに当たっている場合もあり、専門家にはなかなか思い浮かばない優れた見方を提示していることもあることは、私もどこかの論文か講演で触れました。また、怨霊説に比べてあまり知られていませんが、梅原は聖徳太子自身については実在説であって、絶讃していました。それが良く出ているのが、中村元(1912-1999)との対談です。

中村元・梅原猛「<対談> 聖徳太子と日本仏教」
(『東洋学術研究』109号[24巻2号 ]、1985年。PDFは、こちら

 東大は明治期以来、国史学の黒板勝美・坂本太郎、宗教学の姉崎正治(こちら)、印度哲学の高楠順次郎・花山信勝、法学部の小野清一郎(こちら)、国文出身の三井甲之その他、聖徳太子礼賛者ばかりであって、高楠順次郎の孫弟子である中村元もその一人でした。そのため、中村は梅原の怨霊説を怒っていたのです。

 ところが、二人の対談では、「人たらし」と称されたほどまわりを梅原びいきにしてしまう梅原がまず先に話しだし、聖徳太子を絶讃し始めます。その結果、むしろ戦後の懐疑的な聖徳太子研究を考慮して慎重な態度をとっていた中村は喜んでしまい、次第に梅原の長広舌の太子礼賛にひきこまれ、最後には「大変いろいろ教えていただいて、楽しかったです」などと感謝して終わっています。

 梅原よりかなり年上であって、インド哲学や仏教の大学者とされる中村にしてこうですから、出版社の編集者たちをたぶらかして信奉者にしてしまい、次々に本を出させて世間にファンを増やすことなど簡単だったわけです。文章は品がないですが、大げさな語り口によって読者を引き込むのはお手のものなので。

 対談では梅原は、自分の怨霊本は、あくまでも「聖徳太子が死後百年後どのように祭られたかをかいたのでございます」という弁明で始めます。そして、太子自身について研究し始めたら、実に偉大であったと述べ、『日本書紀』の太子関連記述については、多少の潤色はあるものの、主立った部分は「そのまま太子の実績と認められるのではないか」と言います。

 これが虚構説の大山誠一氏との違いですが、もう一つ大きな違いは、大山氏は仏教をきちんと学んでおらず、三経義疏については読まずにあれこれ言い続けているのに対し、様々な分野の仏教書を読んでいた梅原は、三経義疏もむろん読んでおり、『勝鬘経義疏』については敦煌出土の良く似た注釈と比べてみる作業もしている点です。そのうえで、敦煌本とは違う面があるとし、著者は太子だとする花山説に賛成しているのです。

 むろん、専門の仏教学者ではないため、厳密には読めておらず、ところどころで誤ったことを述べたり、自分流の山川草木成仏説やアイヌ宗教論などにひきつけた強引な解釈を述べ立てていますが、ともかく仏教をある程度知っており、三経義疏を読んだうえで、「憲法十七条」との共通点に触れ、「憲法十七条」が真作なら三経義疏も太子作となると説いているのです。

 「憲法十七条」は中国思想の言葉を用いつつも、中国とは異なる意味で使う場合が多いですが、「民」については、哀れんでやる対象であって、「礼」を教えようとはしていません。

 梅原は、現代の天才が古代の天才を語るといった調子で太子礼賛を続け、対談の最後近くになると、「やっているうちに、もうだんだんと聖徳太子崇拝になってまいりましたね」と語り、お札から太子が消えるのは淋しいと言い出します。太子をほめてもらってすっかり上機嫌になった中村は、梅原に賛同し、「梅原古代学を大いに発展なさってください」と言い出す始末です。

 太子礼賛の立ち場は同じであっても、国史学の坂本太郎は謙虚であって、名著である吉川弘文館人物叢書の『聖徳太子』では、凡人の歴史家である自分が、はたして偉大な太子を正しく描けているかどうかと、反省し続けています。そして、梅原の『隠された十字架』が出た際は、おだやかな調子ながら、資料に基づいていないことをきっぱりと批判していました。

【付記:2021年5月6日】
「憲法十七条」と礼に関して述べた部分は、説明不十分だったので削除しました。別に新しい記事を書いて公開します。
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