聖徳太子研究の最前線

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欧米への聖徳太子宣伝の最初は姉崎正治か:『法華義疏』の字を切り貼りして作った「憲法十七条」

2021年04月14日 | 聖徳太子信仰の歴史
 19世紀半ばにヨーロッパで近代的な仏教研究が始まると、当然ながら、仏教が現存しており、西欧列強の植民地研究の対象となっていた国、つまり、スリランカ(当時はセイロン)などに伝えられるパーリ語の仏教の研究が盛んとなりました。

 その結果、神々に頼らず、法を説いた釈尊のみを尊崇するパーリ仏教は、きわめて合理的な宗教であるとして高く評価され、一方、様々な仏や菩薩その他の尊格をあがめる中国・韓国・日本などの仏教は、その国の民間信仰や迷信と融合した偶像崇拝の堕落仏教とされました。

 そうした中で、1893年にシカゴで万国宗教会議が開催されると、日本は、宗派の公式代表ではなかったものの、諸宗からなる代表団を送り、日本の大乗仏教がいかに正統的ですぐれたものであるかを宣伝しました。その少し後で渡米した鈴木大拙なども、当初は禅の意義を説くことはしておらず、英文の書物によってもっぱら大乗仏教の擁護に努めていたのです。

 そのような状況を背景とし、早い時期にアメリカで聖徳太子の意義を強調したのが、日本における近代的な宗教学の確立者である姉崎正治(1873-1949)でした。古賀元章「姉崎正治の日蓮信仰と聖徳太子信仰」(『Comparatio』22、2018年)が、その件について紹介しています。

 姉崎は、1913-1915年にハーバード大学で「日本人の宗教的・道徳的発達(Religious and Moral Developement of the Japanese)」を講義しており、そのうちの項目の一つが、"The Prince-regent Shotoku, his Ideals and its Establishment"(聖徳太子、彼の理想と達成)でした。姉崎は後に英文で History of Japanese Religion: With Special Reference to the Social and Moral Life of the Nation (1930年)を著しますが、その一部となったものです。

 姉崎の太子崇拝は大変なものであって、昭和10年正月の宮中御講書始のご進講者に選ばれた際は、『法華義疏』の複写の字を切り貼りして「憲法十七条」を仕立てる作業に取り組んだほどです。ただ、「憲法十七条」は儒教や法家の語彙も多く、仏典の注釈である『法華義疏』にある字では足りないため、『法華義疏』の字を分解して組み合わせ、それらしい字にするといった苦労をしています。こんな感じです。

  

 実際には、それでも無理であって、すべての条文を『法華義疏』の字で構成するには至りませんでしたが、姉崎はさらに、古い写本が残っていない『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』の要文を抜き出し、上記の方式によって『法華義疏』の字体に置き換えています。

 そうしたテキストを作って姉崎がご進講したのは、「憲法十七条」と三経義疏の関係の概説、そして「憲法十七条」の外国語訳、すなわち、英訳・仏訳・独訳の紹介でした。これは後に「御筆集成の三経義疏抄と十七條憲法の條章及外国語訳文に就て」として発表され、戦時中に刊行された『聖徳太子全集』第一巻(龍吟社、1942年)に収録されています。