宗教裁判で地動説を捨てるよう命じられた後、ガリレオが「それでも地球は回っている」とつぶやいたという話は有名です。現在では、この話は後になってからの弟子の創作らしいとされていますが、ガリレオの主張は科学的観察に基づく正しい説であったため、この話は長く共感を呼んできました。
一方、科学的成果を認めず、何と言われようと誤った信念を保持し続けた人たちもいます。たとえば、江戸から明治初期にかけては、西洋の近代天文学を受け入れず、仏教的な世界観に基づいて独自の観察をし、我々が住むこの世界の回りを大陽や月が回っているのだと主張し続けた僧たちがいました。
それによく似ているのが、「厩戸王」は戦後になって仮に想定された名であって古代の文献には見えないこと、都の飛鳥と斑鳩を斜め一直線で結ぶ太子道は幅20メートルもある広壮なものであった事実が発掘でわかったこと、現在の法隆寺の前身である斑鳩寺は彩色壁画で飾られた最先端の大寺であったこと、その他の新しい研究成果を認めず、「いや、実在したのはぱっとしない厩戸王であって、聖徳太子はいなかった」と主張し続けているのが、
大山誠一「聖徳太子は実在しなかった」
(『現代の理論』2021年冬号、2021年1月)
です。
この論述によれば、「『書紀』編纂の目的は、神話により皇室を永久不変の神の子孫とすること、さらに、不都合となった蘇我王権の存在を邪悪な蘇我氏に作りかえ、これを不比等の父中臣鎌足が討ち果たすというストーリーを作り、以後の藤原氏の権力を正当化しようとしたことであった」そうです。
そのため、斑鳩に宮と寺を立てた程度で国政に関わるような立場になかった厩戸王をモデルにし、藤原不比等が理想的な聖徳太子を造型させたということらしいですが、では、その聖徳太子が自ら作成したとされる「憲法十七条」が、「天皇」という言葉を用いず、仏教尊重を説くばかりで「神」にまったく触れないのはなぜなんでしょう?
私が不比等なら、「憲法十七条」では、天皇は天照大神の子孫であって日本統治を命じられている絶対的存在であり、忠誠を尽くすべきことを冒頭で強調させますね。また、「蘇我王権の存在を邪悪な蘇我氏に作りかえ」とありますが、『日本書紀』では太子の義父である蘇我馬子は賞賛されていますよ。そんな事実は隠し、「太子は若かったにもかかわらず、豪族馬子の横暴をおしとどめ」などとすれば良かったんじゃないですか?
それに、不比等が儒教、長屋王が道教、道慈が仏教面を担当し、実際の執筆は唐で長らく学んだ道慈が任され、三教に通じた聖人としての厩戸皇子の記述を書いたという説は、どこに行ったんでしょう? 『日本書紀』の太子関連の記述は和習だらけなので唐に16年いた道慈が書くはずがないと批判され、道教好きでなく熱烈な仏教信者であったと指摘された長屋王は、今回の文章ではまったく特筆されないんですが、二人は『日本書紀』の最終改作メンバーから外されたんでしょうか。
「天寿国繍帳」は、文武朝(697年即位)で使われた儀鳳暦を用いていることが「最近……証明された」ので偽作だそうです。しかし、その論文は20年も前に発表された金沢英之氏のものであって、証明されたとは言えないとする反論が出ていますし、私も少し前にそれを補強しました(こちら)。大山氏のまわりでは、聖徳太子虚構説を発表した当時のまま時間がとまっているのか、以後の新しい研究、とりわけ自説に都合が悪い研究は見事に無視されてますね。
大山氏は、百済弥勒寺から出土した639年の「金製舎利奉安記」の文章と『維摩経義疏』の類似が注目されるようになった結果、三経義疏は「百済製あるいは白村江以後の亡命百済人の関与を指摘する見方が有力となっている」と説くのですが、そうした見方の論文が次々に発表されて定説になりつつあるといった事実は全くありません。そのような見方が有力なのは、大山氏の周辺の数人だけではないでしょうか。あるいは、論文を書かないそうした仲間内の人たちのことを「学界」と呼ぶのか。
白村江以後なら、645年に帰朝した玄奘の新訳経典が大論争を引き起こし、新しい訳語が急激に広まりつつあった時期ですので、そのような唐代仏教が盛んな頃になって、150年以上前になる6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を種本とする古くさい注釈を書くのは、解釈面でも用語面でも困難です。上記のようなことが言えるのは、大山氏が虚構説発表当時も今も三経義疏を読んでいないためですね。
大山氏の師であった井上光貞先生は、日本史学者でありながら仏教学にかなり通じていて仏教学者からも評価されており、三経義疏については中国の注釈と比較しながら綿密に読んでいました。その井上先生は、三経義疏は高句麗や百済の僧など太子周辺の学団の作という説であって、白村江以後などという珍説は述べていません(学団の作にしては、三経義疏には「私の考えは少し違う」「私が思うに……」といった記述が多いことなどは、こちら)。
なお、津田左右吉が「憲法十七条」を疑ったことは事実ですが、大山氏は、津田は「奈良時代のものであると指摘した」などと述べており、相変わらず自説に都合が良いように事実と異なる紹介のし方をしていますね。津田は曖昧な表現をとっていますが、おおむね天武朝あたりを想定しており、奈良時代の成立などと書いたことはありません(こちら)。
ということで、聖徳太子虚構説は新しい仮説であった段階を過ぎ、どんな事実をつきつけられても変わらない宗教的な信念となった、というのが現状のようです。「それでも、実在したのは厩戸王だ!」か……。
一方、科学的成果を認めず、何と言われようと誤った信念を保持し続けた人たちもいます。たとえば、江戸から明治初期にかけては、西洋の近代天文学を受け入れず、仏教的な世界観に基づいて独自の観察をし、我々が住むこの世界の回りを大陽や月が回っているのだと主張し続けた僧たちがいました。
それによく似ているのが、「厩戸王」は戦後になって仮に想定された名であって古代の文献には見えないこと、都の飛鳥と斑鳩を斜め一直線で結ぶ太子道は幅20メートルもある広壮なものであった事実が発掘でわかったこと、現在の法隆寺の前身である斑鳩寺は彩色壁画で飾られた最先端の大寺であったこと、その他の新しい研究成果を認めず、「いや、実在したのはぱっとしない厩戸王であって、聖徳太子はいなかった」と主張し続けているのが、
大山誠一「聖徳太子は実在しなかった」
(『現代の理論』2021年冬号、2021年1月)
です。
この論述によれば、「『書紀』編纂の目的は、神話により皇室を永久不変の神の子孫とすること、さらに、不都合となった蘇我王権の存在を邪悪な蘇我氏に作りかえ、これを不比等の父中臣鎌足が討ち果たすというストーリーを作り、以後の藤原氏の権力を正当化しようとしたことであった」そうです。
そのため、斑鳩に宮と寺を立てた程度で国政に関わるような立場になかった厩戸王をモデルにし、藤原不比等が理想的な聖徳太子を造型させたということらしいですが、では、その聖徳太子が自ら作成したとされる「憲法十七条」が、「天皇」という言葉を用いず、仏教尊重を説くばかりで「神」にまったく触れないのはなぜなんでしょう?
私が不比等なら、「憲法十七条」では、天皇は天照大神の子孫であって日本統治を命じられている絶対的存在であり、忠誠を尽くすべきことを冒頭で強調させますね。また、「蘇我王権の存在を邪悪な蘇我氏に作りかえ」とありますが、『日本書紀』では太子の義父である蘇我馬子は賞賛されていますよ。そんな事実は隠し、「太子は若かったにもかかわらず、豪族馬子の横暴をおしとどめ」などとすれば良かったんじゃないですか?
それに、不比等が儒教、長屋王が道教、道慈が仏教面を担当し、実際の執筆は唐で長らく学んだ道慈が任され、三教に通じた聖人としての厩戸皇子の記述を書いたという説は、どこに行ったんでしょう? 『日本書紀』の太子関連の記述は和習だらけなので唐に16年いた道慈が書くはずがないと批判され、道教好きでなく熱烈な仏教信者であったと指摘された長屋王は、今回の文章ではまったく特筆されないんですが、二人は『日本書紀』の最終改作メンバーから外されたんでしょうか。
「天寿国繍帳」は、文武朝(697年即位)で使われた儀鳳暦を用いていることが「最近……証明された」ので偽作だそうです。しかし、その論文は20年も前に発表された金沢英之氏のものであって、証明されたとは言えないとする反論が出ていますし、私も少し前にそれを補強しました(こちら)。大山氏のまわりでは、聖徳太子虚構説を発表した当時のまま時間がとまっているのか、以後の新しい研究、とりわけ自説に都合が悪い研究は見事に無視されてますね。
大山氏は、百済弥勒寺から出土した639年の「金製舎利奉安記」の文章と『維摩経義疏』の類似が注目されるようになった結果、三経義疏は「百済製あるいは白村江以後の亡命百済人の関与を指摘する見方が有力となっている」と説くのですが、そうした見方の論文が次々に発表されて定説になりつつあるといった事実は全くありません。そのような見方が有力なのは、大山氏の周辺の数人だけではないでしょうか。あるいは、論文を書かないそうした仲間内の人たちのことを「学界」と呼ぶのか。
白村江以後なら、645年に帰朝した玄奘の新訳経典が大論争を引き起こし、新しい訳語が急激に広まりつつあった時期ですので、そのような唐代仏教が盛んな頃になって、150年以上前になる6世紀初め頃の梁の三大法師の注釈を種本とする古くさい注釈を書くのは、解釈面でも用語面でも困難です。上記のようなことが言えるのは、大山氏が虚構説発表当時も今も三経義疏を読んでいないためですね。
大山氏の師であった井上光貞先生は、日本史学者でありながら仏教学にかなり通じていて仏教学者からも評価されており、三経義疏については中国の注釈と比較しながら綿密に読んでいました。その井上先生は、三経義疏は高句麗や百済の僧など太子周辺の学団の作という説であって、白村江以後などという珍説は述べていません(学団の作にしては、三経義疏には「私の考えは少し違う」「私が思うに……」といった記述が多いことなどは、こちら)。
なお、津田左右吉が「憲法十七条」を疑ったことは事実ですが、大山氏は、津田は「奈良時代のものであると指摘した」などと述べており、相変わらず自説に都合が良いように事実と異なる紹介のし方をしていますね。津田は曖昧な表現をとっていますが、おおむね天武朝あたりを想定しており、奈良時代の成立などと書いたことはありません(こちら)。
ということで、聖徳太子虚構説は新しい仮説であった段階を過ぎ、どんな事実をつきつけられても変わらない宗教的な信念となった、というのが現状のようです。「それでも、実在したのは厩戸王だ!」か……。