聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

『日本書紀』の仏教関連記事の筆録者は道慈でない: 直林不退「『日本書紀』と戒律」

2011年04月02日 | 論文・研究書紹介
 このブログでは「聖徳太子研究の最前線」という名が示すように、この数年のうちに刊行された論文や著書を中心にして紹介してきました。ただ、年度も変わったので、今後は、かなり前の刊行であっても、「これまであまり知られていない重要な研究」や「聖徳太子虚構説論者たちが触れていない重要論文」などであれば取り上げていくことにします。

 その第一弾は、『日本書紀』への道慈の関与を否定した11年前の論文、

直林不退「『日本書紀』と戒律」
(山田明爾編『山田明爾教授還暦記念論文集 世界文化と仏教』、同朋社、2000年)

です。

 大山誠一氏と吉田一彦氏の聖徳太子虚構説にあっては、道慈の『日本書紀』関与という仮説が議論の大前提となっています。確かに、『書紀』の仏教伝来記事については、井上薫氏の道慈筆録説が史学界ではかなり有力でした。井上氏は、仏教伝来記事は、『書紀』の完成(720年)の直前である703年に義浄が長安の西明寺で漢訳した『金光明最勝王経』の表現を用いているため、その長安の西明寺で学んで718年に帰国した道慈が『金光明最勝王経』をもたらしてそれで潤色したのであり、道慈は仏教を儒教の上に置いたうえで国家のための仏教整備に努めた人物であって、『書紀』の仏教関連記事にも関係したと説いていました。

 それを拡張し、道慈は仏教伝来記事だけでなく、大幅に関与しており、不比等と長屋王の意向を受けて聖徳太子という理想的人物の捏造も行ったとするのが、大山・吉田説です(大山氏は、最近は、以前と違って道慈が書いたという点を強調せず、道慈は指示する役割だったといった言い方をすることもありますが)。

 しかし、決定的な証拠はありません。また、『最勝王経』は道慈以前にもたらされた可能性があると説く研究者も複数いますし、井上氏の説く道慈像に反対する論文を発表した研究者もこれまで何人もいます。今回の直林氏の場合は、戒律関連の記事から見て、『書紀』の仏教関連記事を書いた人物は、道慈とは考えられないとするものです。

 まず、氏は、善信尼は11歳で還俗僧ただ一人を師主として得度しているうえ、彼女たちの百済での修学期間が短すぎるなど、戒律に合致しない点が多いことを指摘し、これに対して後代の『元興寺縁起』や凝然の『律宗綱要』では、律に合致した形に近づけようとして伝承を改変した形跡があると述べます。また、『続日本紀』の場合は、『書紀』より戒律に関する理解が正確であるとします。つまり、『書紀』の仏教関連記事の筆録者は、律の観点から見た不備には注意しないまま仏教受容の過程を描いているというのです。

 この他にも、『書紀』の戒律関連の記述には問題が多いため、氏は次の三点を指摘します。

一、現行の戒律制度に対する批判的視点が欠けており、戒律が順調に受容されていったように描く。
二、戒律理解の水準が低い
三、道宣の『四分律行事鈔』や義浄の根本有部律との関わりがない

 ところが、道慈は、世俗の権力に対して出家の立場を強く主張して戒律厳守運動を展開した道宣(596-667)と義浄(635-713)が住した西明寺で学んでいます。しかも、帰国後に書かれた道慈の『愚志』は、その抄文によれば、中国仏教とは異なる日本の出家や在家信者の法に外れたあり方を強い調子で批判したものでした。

 そうした人物、しかも、長屋王邸での詩宴に招待された際、出家と在家の違いを強調して固辞した人物が、『書紀』のような記述をするか疑わしい、と氏は説きます。氏はさらに、道慈が最新の義浄訳『金光明最勝王経』を持ち帰って『書紀』で盛んに用いて潤色したというなら、『最勝王経』と同じ時期に同じ義浄によって訳された律典、『根本説一切有部毘奈耶』を『書紀』が全く使っていない理由を説明する必要があるだろうとも述べています。

 氏の主張には、やや理念的すぎる面も見られますが、提示された疑問の多くは妥当なものであり、これらの点が解明されないまま、道慈を『書紀』の仏教関連記事の筆録者とすることはできません。まして、道慈が厩戸皇子をモデルとして聖徳太子という架空人物を捏造したとするには、確実な証拠と論証が必要であり、大山氏や吉田氏たちのこれまでの議論では不十分です。