聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

次々に創作されてゆく太子関連の聖地: 小野一之「聖徳太子<生誕地>の誕生」

2011年04月10日 | 論文・研究書紹介
 先日、橘寺の横を通る機会があったので、関連論文を紹介しておきます。

小野一之「聖徳太子<生誕地>の誕生」
(中部大学国際人間学研究所編『アリーナ 2008』、2008年3月)

 大山誠一氏が中心となって組まれた【第2特集 天翔る皇子、聖徳太子】のうちの一篇です。

 前半は、小野氏が早くに論文を発表し、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)収録の同氏の論文、「<聖徳太子の墓>誕生」でも論じていた太子の墓の問題です。つまり、現在では太子供養の叡福寺に隣接する太子廟こそが太子の墓所とされているものの、治安四年(1024)頃は、太子と関わりの深い寺の僧でも太子の墓の場所が分からなくなっていたというのです。

 これは驚きの話ですね。太子の墓については、10世紀初め頃までは確実に国家が維持管理しており、聖徳太子信仰そのものは、四天王寺や法隆寺を中心にしてどんどん盛んになるのに、墓所に対しては関心が向けられていなかったのです。

 その僧が、たまたま発見した『延喜諸陵式』に太子の墓として「磯長墓」が記されており、11世紀半ばにはその地からいわゆる太子の「未来記」が発見されたことにより、13世紀初めまでにはこの地に太子を祀る伽藍が整備され、やがて叡福寺と呼ばれるようになったのであって、この動きには四天王寺が関わっていた可能性があると、小野氏は見ます。

 後には浄土教の僧侶たちが盛んに宣伝活動を行うようになり、四天王寺--太子廟--当麻寺という「浄土信仰と太子信仰の聖地を連ねるネットワーク」が誕生しますが、氏は、この磯長の墓については、「本来の厩戸王の墓であったか、考古学的にも問題が残る」と述べています。これは、小野氏の論文を読んで共感した今尾文昭氏が、太子墓に関する見解を提示した「聖徳太子墓への疑問」(『東アジアの古代文化』88、1996年)などを指します。

 さて、論文後半は、誕生の地も不確かであったという問題を扱います。上宮があった場所については、早くから坂田寺とする伝承と橘寺とする伝承があったものの、生誕地に関する関心は見られないことに、氏は注目します。ところが、鎌倉初期までには坂田寺の南の地こそが太子生誕の地とされるようになったため、鎌倉末期に橘寺の法空が対抗して、橘寺こそが誕生の地と主張するようになったと見るのです。

 そして、15世紀末に焼き討ちにあった橘寺では、「勝鬘経講説地」説に「生誕地」説を加えてアピールしつつ寺の復興をなしとげ、そうした中で「太子生衣」「育湯之井」などが整えられていったのだとするのが、小野氏の推測です。

 このように、聖者の生誕地や墓所が探され、宗教施設が建てられ、信者が参拝するようになっていく点は、キリスト教におけるベツレヘムの聖降誕教会とエルサレムの聖墳墓教会、法然の誕生寺と知恩院、日蓮の誕生寺と身延山久遠寺などと同様なのであり、橘寺や叡福寺の伝承については、史実というよりは「中世的な宗教活動の展開過程のなかで結実したもの」と見るべきだとしています。

 磯長の墓については反対意見もあるため、次回、紹介しましょう。