聖徳太子研究の最前線

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厩戸皇子の様々な呼び方に関するお遊び研究ノート: 酒井龍一「聖徳太子の名号を追う」

2011年04月06日 | 論文・研究書紹介
 東野治之氏の研究に縁がある論文をもう一つ。氏から労作『日本古代金石文の研究』を呈されて法隆寺釈迦三尊像光背銘に関する「実証に感銘を受け」、「門外漢ながら」この機会に聖徳太子の名号について調べてみたという、奈良大学文化財学科における東野氏の同僚、酒井龍一氏による、

酒井龍一「聖徳太子の名号を追う--厩戸のいるのいないの百変化--」
(『文化財学報』25集, 2007年3月)

です。

 題名通り、太子に関する多様な呼称を精査したものですが、「厩戸のいるのいないの百変化」という川柳仕立ての副題が示すように、氏が最近書くものは、章や節の名がすべて川柳の形になっており、かなり遊んでます。

 そうした面では、学術論文とは言い難いものの、この「聖徳太子の名号を追う」は、家永三郎による聖徳太子の名号研究その他の先行研究を踏まえつつ、聖徳太子の様々な呼称が史料ごとにずらっと列挙され、整理されているため、きわめて便利です(それにしても、PDFで読める論文が増えましたね)。

 まず、『日本書紀』における呼称については、時期によって、「東宮聖徳」や「豊耳聡聖徳」「法主王」「厩戸皇子」その他を含むA(誕生~皇太子)、[皇太子」という呼称ばかりのB(皇太子~薨去)、「厩戸豊聡耳命」「上宮太子」「太子」その他を含むC(薨去直後)の「3区分」に分けられるとします。そして、「玉石を混ぜ官撰の『日本書紀』」という名の節では、6点を指摘しており、そのうち、1・5・6は次の通りです。

(1)多様な先行史料を参照した。
(5)AとCとでは名号は異なり、依拠史料の差を示す
(6)Bは、「皇太子」に統一し、一括・編集・脚色・執筆した。

 これだけ見ても、『日本書紀』の最終編纂段階、それも718年から720年までの短い期間に一気に理想的な聖徳太子像を捏造したとする聖徳太子虚構説には無理があることが分かりますね。『日本書紀』が厩戸時代にはありえない「皇太子」という点を強調して脚色していることは事実ですけど。

 酒井氏のこの論は、史料や時代による呼称の変化をわかりやすく示すのが第一であって、細かい論証は充分ではありません。ただ、いくつかの箇所では興味深い指摘がなされています。

 たとえば、「聖徳太子」という呼称が初めて登場する『懐風藻』をとりあげた節の名、「『聖徳の太子』なんだか軽すぎる」というのは、なかなか示唆するものがあります。「聖徳太子」というと非常に尊重した呼び方のようですが、既に何らかの伝説を背景としているように見える『古事記』の「上宮之厩戸豊聡耳命」や、奈良時代の法隆寺史料における「東宮上宮聖徳法王」などの長々しい尊称に比べると、確かにあっさりしたものですね。

 なお、聖徳太子虚構説は、『日本書紀』が「聖徳太子」なる理想的人物をでっちあげ、光明皇后や行信がさらに捏造を進めたのだという論調で始まったのですが、『日本書紀』でも光明皇后・行信関連資料でも「聖徳太子」という表現そのものは用いていないことは、前に書いた通りです。

 それにしても、「『法王』と呼んで尊ぶ法隆寺」とか、「名号を連結しては格を上げ」とかは史料に応じたものですが、「『聖徳』がでたか いよいよ御本命?」や「改造の噂 薬師の眼に涙」あたりは、何とも……。もっとも、私自身、昔から江戸の狂歌・川柳を愛好しており、現在も、言葉遊びや近世狂歌と仏教の関係に関する論文を準備中であるため、「アルケオロジー」ならぬ「歩けオロジー」を提唱する酒井氏と、駄洒落好きの点は似ているかもしれませんが……。