長らく信仰されてきた聖徳太子が、江戸時代になって儒者や国学者によって厳しく非難されるようになったのは、蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺を黙認し、その馬子とともに政治をして異国の仏教を盛んにしたというのが理由でした。明治から大正期にかけて国家主義が強まると、この批判に応えるため、聖徳太子は皇室をないがしろにする横暴な蘇我氏を押さえようとしたのだ、という点が強調されるようになりました。
この図式は根強く、今日でもこの路線の人がかなりいますが、蘇我蝦夷が反対を押し切って田村皇子を推し、舒明天皇として即位させたからこそ、以後、『日本書紀』の編纂時、さらには現在に至るまで舒明天皇の系統の天皇が続いたことを忘れるべきではないですね。これに関連する事柄を検討したのが、妙な題名のつけ方をしている、
福沢健「天香具山の国見―『万葉集』1二」
(『流通科学研究』 第14巻第2号、2015年3月)
です。
福沢氏は、『万葉集』は伝説的な雄略天皇の歌で始まっており、次は舒明天皇の天香具山での国見の歌であり、以後、以後の天皇の歌が続いているのは、『万葉集』が現在に続く新しい時代の天皇とみなしていたためだとし、その舒明天皇は蘇我氏の血を引いておらず、即位はむつかしかったはずだ、という点から話を始めます。
大臣となった蘇我稻目が自分の娘たちを欽明天皇の妃として以来、敏達天皇を除くと、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇はすべて稻目の娘を母とする天皇でした。つまり、欽明天皇と稻目の血を引いた天皇たちです。
稻目の後は、馬子が大臣となって権勢を振るっていたのですから、推古天皇の次は、当然ながら欽明天皇と蘇我氏の両方の血を引く皇子が第一候補となります。推古の息子である竹田皇子がまさにそうです。
しかし、竹田皇子は早くに亡くなったようです。父方・母方とも欽明天皇と蘇我氏の血を引いていたのが聖徳太子ですが、これも推古天皇が長寿であったため、推古より先に亡くなってTしまいました。
この時点で天皇候補は、敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄の子である田村皇子と、聖徳太子の子である山背大兄となりました(福沢氏の論文では、「山城大兄」と2度誤記してます)。押坂彦人大兄の母は蘇我氏でなく、息長真手王の娘の広姫であるのに対し、山背大兄は父方母方とも蘇我氏の血を引く聖徳太子と馬子の娘である刀自古郎女の間に生まれた長子です。
田村皇子は天皇の子でなく孫であるうえ、山背大兄は天皇の孫かつ天皇に準ずる存在であった聖徳太子の子であり、蘇我氏の血という点でも山背大兄の方が圧倒的に上です。だからこそ、後継者問題が起きた時、山背大兄を支持する者たちが複数いたわけです。
福沢氏は、山背大兄のマイナス点として、蘇我氏は伝統的に百済寄りであったのに対し、聖徳太子以来、上宮王家は親新羅であったことをあげます。福沢氏は、聖徳太子が天皇になれなかったのは、それも一因だったと見ますが、推古天皇が即位した時は太子はまだ若かったうえ、以後についても、譲位制度がなかった時代のことですから、親新羅だから天皇になれなかったとする見方は無理でしょう。
福沢氏は触れていませんが、蘇我氏から見た山背大兄のマイナス点の一つは、私の論文で触れ、またこのブログでも書いたように、蘇我氏の女性を妃にしておらず、上宮王家内部の近親結婚で完結していたことです。
これに対して、田村皇子は敏達・推古の皇女や押坂彦人大兄皇子の娘である宝姫王などの他に、蘇我馬子の娘である法提郎女を夫人としていました。この点にもう少し注意すべきですね。
福沢氏の論文で重要なのは、舒明天皇は歴代天皇と違い、皇居を蘇我氏の本拠地である飛鳥の岡本宮に置いたことに注目し、「舒明天皇は、蝦夷の支配下に入ることによって、大王の位を手にしたのです」と説いていることです。ただ、これまでの天皇が飛鳥に宮を置かなかったのは、「蘇我氏の軍勢に攻められたときに、ふせぐことが出来ないからです」という説明は的はずれですね。
これは、山背大兄が入鹿の軍勢に攻められて滅亡したことを考えての言葉でしょうが、山背大兄は飛鳥を遠く離れた斑鳩にいました。また福沢氏は、入鹿の軍勢が襲った際、斑鳩宮・斑鳩寺が焼亡したと書いていますが、『日本書紀』はこの時に斑鳩寺が焼けたとか記していません。この論文は、そうしたミスが目立ちます。
舒明天皇は蘇我氏の協力を得てのこととはいえ、蘇我氏が建立した飛鳥寺をはるかに上回る巨大な百済寺を創建しますので、蘇我氏以上の天皇の権威を見せつけたと言ってよいでしょうが、これは蘇我氏にとっては悪いことではないはずです。蘇我氏系を含めた群臣の意見がいろいろであった場合、天皇を絶対化し、それを大臣が支えるなら、実質的には大臣の権勢が強まるからです。
福沢氏は、天香具山での国見の意義について説明した後、舒明天皇の和風諡号は、息長足日広額天皇であって、舒明が即位することによって押坂彦人大兄皇子を始祖とする新王朝が始まったと述べ、『万葉集』巻一は、その繁栄の歴史を描いていると結論づけています。
ですから、その系統の天智天皇や天武天皇や『日本書紀』編纂時の天皇たちは、本来なら、蘇我蝦夷を尊重して祀っても良いはずですが、『日本書紀』ではそうなっていないのは、事情があると考えるべきでしょう。
ただ、蝦夷が舒明を天皇にしようとしたことはきちんと記されているのですから、『日本書紀』には、史実通りの点と、『日本書紀』編纂当時の権力者たちにとって都合良く改めたことの両方があると考えるべきですね。