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飛鳥寺の刹柱を立てる儀礼で馬子や従者が百済服を着た背景:矢野建一「飛鳥寺の仏舎利埋納前段儀礼と方相氏」

2024年07月30日 | 論文・研究書紹介

 日本最初の本格寺院である飛鳥寺では、建立にあたって、まず五重塔の心柱となる太さ1.6メートルもの巨大な柱を立てる儀礼を盛大におこないました。その記録は後代の潤色・作文も多い『元興寺縁起』に見えないものの、別系統の『元興寺縁起』に記されており、その佚文が『太子伝玉林抄』と『上宮太子拾遺記』に収録されています。

 その佚文では、儀礼にあたって蘇我馬子と従者百余人が「弁髪」して百済服を着たと記されています。これについて、儀式で邪気ばらいをする方相氏の役割を検討する際に触れているのが、

矢野建一『日本古代の宗教と社会』「第二章 飛鳥寺の仏舎利埋納前段儀礼と方相氏」
(塙書房、2018年)

です。

 その佚文によれば、推古天皇元年正月十五日、柱に収める仏舎利を運ぶため、馬子の邸宅から飛鳥寺へと向かう送列は、四台の大きくて飾られた車を中心とし、音楽を奏しながら進んでいった由。

 第一の駱車は、三段の座を設け白象の像を載せていました。第二の駱車は、巨大な幡と太鼓と銅鐘、第三の駱車は大きな鳳の像と二面の翼鼓、第四の駱車は引導する「方相」を載せてありました。これ以外にも多くの幡が並び、「嶋大臣」と「二郎子」と「従者百余人」が続きました。

 「嶋大臣」は馬子、「二郎子」は寺司、つまり寺の事務責任者となった次男の善徳ですね。佚文では、「嶋大臣」と「二郎子」と「従者百余人」は「皆瓣髪着百済服、観者皆悦」とあります。皆な髪を「瓣」じて百済服を着ており、多くの集まった人たちは皆な喜んだとあります。

 喜んだというのは、百済服を喜んだというのではなく、その前の部分全体に対するものであって、巨大な山車が練り歩くねぶた祭の行列が人気となっているのと同じでしょう。

 矢野氏はまず白象を載せた駱車の検討から始めます。中国の法池寺址から出土した白大理石の舎利容器には、舎利の分与から埋納に至る四つの場面が描かれており、インド風ではないところから見て、矢野氏は、隋の文帝が各地に舍利塔を建立させた際の様子を下敷きにしたと推測します。

 その四つ図には、豪華な輿に舎利を載せるところと思われるものがあり、仏陀の遺体を輿に載せ、荼毘に付すために送り出す場面のようであり、別の図では舎利を送る行列の先頭に白象が描かれていました。ですから、飛鳥寺の行列で白象の像を載せた駱車が先導するのは、これになぞらえたものと見られます。

 しかも、その舎利容器に描かれた送列には、鳥の羽のようなものを冠をかぶった人物がが描かれており、こうした冠は高句麗の官人の冠であることが知られています。

 古代朝鮮諸国のうち、高句麗などは隋の舎利塔建立に参加していたのですね。百済も隋に朝貢していましたので、飛鳥寺の行列で白象を載せた車が先導したのは朝鮮諸国経由と矢野氏は見ます。また図から見て、舎利埋納の儀式は、中国の貴人を葬る葬礼に基づいておこなわれたと推測します。

 問題は、第四の車に乗せられていた方相氏です。方相氏は、中国で儺の儀式、つまり宮中などの邪鬼を払うために、熊の皮をかぶり、四つの黄金の目を描いた大きな仮面を付け、黒と朱の派手な衣装を着、盾を持って矛をとり、大声をあげて回る役です。

 『大唐開元礼』では、三品以上の貴人の葬礼には、霊車のあとに音楽隊があって「方相車」が続くとしており、朝鮮経由でこれを受け入れた日本では、『養老令』の注釈が「親王一品」の葬礼には「方相轜車」が出て熊皮で黄金四目の方相氏がつくとされています。

 ただ、「遊部」が従うとされており、これは中国にはないものですし、この当時の中国の儀礼では、人間が方相氏の姿となることはなくなっており、その像が用いられていたため、日本は百済などを通じて中国の古い儀式を受け継いでいたことが分かります。

 さて、問題は馬子らの「瓣髪」です。弁髪というと、北方の女真族である清朝が中国人に強制した長い鞭のような髪を思いがちですが、朝鮮でも日本でもそうした髪型の記録はありません。「瓣」とは「分ける」ことですので、髪を分けていたことを意味すると見るべきだと矢野氏は説きます。

 そして、百済服については、この段階では冠位十二階のような衣服制度が存在しないため、百済から方相氏も含めた舎利埋葬の儀礼を導入した際、百済服もその一環として導入したものと見ます。

 蘇我氏については、百済出身とする説がありますが、矢野氏はその件には触れません。とにかく、蘇我氏が百済系の渡来氏族を多数配下に置いていたことは事実であり、飛鳥寺の建立に当たって百済の技術を大量に導入したしたことは疑いありません。

 蘇我氏がこうした姿勢だとすると、百済と対立していた新羅との外交をどうするか、また高句麗に何度も侵攻する軍勢を送っていた隋とどう外交関係を結ぶかは、深刻な政治問題になって対立をもたらした可能性が大きいですね。

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