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薬師像銘は日本語表記草創期の作: 小谷博泰「文章史から見た法隆寺幡銘と薬師像光背銘」

2011年08月26日 | 論文・研究書紹介
 少し前の記事で、古代日本における訓読とその基礎となった朝鮮諸国における漢文読解法についてちょっとだけ触れましたので、関連する論文を紹介しておきましょう。木簡と宣命の研究で知られる小谷博康氏の論文、

小谷博康『木簡・金石文と記紀の研究』「第一部 3 文章史から見た法隆寺幡銘と薬師像光背銘」
(研究叢書352、和泉書院、2006年)

です。

 資料が少ない時代について、「何々は無かった」と言うのは難しいものです。小谷氏は、「ある言葉が『日本書紀』に出て来る、だからその言葉を使っている金石文は『日本書紀』以後の成立だ」といった論法には賛成できないとします。『日本書紀』以前にその言葉が使われてなかったという証拠はないからです。小谷氏のこの論文は、そうした「だから『日本書紀』以後の成立だ」といった論法に反対する立場から法隆寺金堂の薬師像光背銘をとりあげ、検討し直したものです。

 小谷氏は、まず法隆寺に残る数々の幡の銘について紹介し、その多くは七世紀のものと見てよいとします。こうした幡は、誰かの臨終時に身内が延命ないし浄土往生を誓願し、後に作成して寺に寄進するものです。山部氏などの氏名が記され、しかも女性の寄進によるものが多いところから見て、法隆寺がこうした在地の男女の有力者たちの信仰の場となっていたことが知られます。これまで指摘されていませんが、こうした幡の背景の一つとなったのは、おそらく中国で五世紀に作成された偽経の『灌頂経』でしょう。『灌頂経』なら巻12は『薬師経』の古訳を抄出・改変したものであって薬師仏も登場しますし、流行して単行でも流布していたようなので、薬師像銘とも関わる可能性があります(この問題は近いうちに取り上げます)。

 国語学者である小谷氏は、むろん、そうした仏教面の背景ではなく、用語と構文に注意して論じています。つまり、こうした幡銘は「造像銘の文章に類似し、あるいはそれと一連のものと考えることもできる」(40頁)と述べ、元興寺露盤銘やその他の金石文にも「文章史的にはつながるもの」という観点で説いていくのです。

 そして、推古朝遺文の中で最も強く疑われている金堂薬師像光背銘の考察に移ります。氏は、この銘に「大御身」や「大宮」といった敬語接頭辞が見えるのは、純粋な漢文ではなく、「口頭で読まれるべく書かれたと考えられる和化漢文」(42頁)だからだとします。

 津田左右吉の研究法を活用した博学な建築史家、福山敏男が伝承説を批判的に検討し、この薬師像銘を含む種々の金石文や文献を後世の作と断じたのは、当時にあっては先進的ですぐれた研究でした。しかし、小谷氏は、その論証にはあやうい面が多いことに注意をうながします。福山の論文では、「恐らく……らしく……であろう」などと推定を重ねておりながら、結果としては断定に至っていることが多いからです。

 小谷氏は、薬師像銘は「和化漢文として書かれながら、どうも文脈の整っていない部分があり、表記も漢文的な部分と和文的な部分がまだらにまじっていて、はなはだ読み取りにくい個所がある」(45頁)ことに注意します。そもそも、文章がうまく続いていない個所が目立ち、用明天皇の詔にしても、造りたいという自分の意志なのか、造って仕えよという命令なのかも、はっきりしません。

 氏は、これは試行錯誤している時期であることを示すものだとし、「しっかりと表現できるだけの口頭語の発達がない段階で、あえてそれを表現しようとするための、ゆれのようなもの」と見ます。七世紀半ばの木簡には、荷物を盗まれたことに関する上申書があり、入り組んだ内容が書かれていることを考えると、そうした木簡の筆者より学力・文章力があったはずの薬師像銘の筆者が、このような拙い文章しか書けないというのは、日本語表記の草創期なればこそだとするのです。

 確かに、薬師像銘は、法隆寺の中心となる仏像に彫り込まれたものであり、しかも非常に整った書体で書かれているのですから、中世の寺社の数多い僞作文書のように、あまり学力の無い僧侶が怪しい由来文書や土地関連文書を品の無い書体で捏造するのと同一に見ることはできません。

 小谷氏は、以上のことから、この銘文は「推古十五年に直ちに書かれたわけでなくても、推古朝のものであった可能性は高いと言える」と述べ、これらの文章は「六世紀の朝鮮半島における文章表記の流れを受けついだものかと思われる」として(47-8頁)、そうした資料の発掘に期待しています。

 ということで、推古朝説なのですが、困りましたね。実は私は「薬師像銘は後代の作」と論文で書いたことがあるので……。

 銘文を幡銘とを比べながらじっくり読み直し、もう一度考えてみることにしましょう。氏が言われるように、未発達な日本語表記であることは確かですし、「大王天皇」といった表記を初めとして、律令以前の状況を伝える古い要素を含むことは間違いないものの、銘文に推古天皇が登場するのは不自然に思われるなど、問題はやはり多いと思うのですが。

 なお、このブログで以前紹介した北康宏氏の論文では、舒明天皇の宣命に基づいて天武朝以前に彫り込まれた、という説でしたね。

 
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