以前の記事で、「憲法十七条」が特に尊重されるようになったのは明治以後、そして第一条の「和」こそが太子の思想の中心であって日本文化の伝統であったことが強調されるようになったのは昭和になってから、と書きました。
その証拠として、近世における「憲法十七条」の注釈の作成と刊行の少なさをあげましたが、明治になると、「憲法十七条」は次々に刊行されます。ただし、その実態は、小倉豊文が次のように歎いている通りでした。
古板・古註の明治以後の覆刻は、残念ながら偽書五憲法が先であり、回数も多く、種類も多い。だから従つてその流布も相当に広く、影響も少なからぬものがあつたであらう。
(斑鳩迂人[=小倉豊文]「太子学入門(六): 現代の主要文献(六)」、『太子鑚仰』新七号、1944年11月、20頁)
つまり、明治になると「憲法十七条」が重視されるようになり、古い版の復刻が盛んになったものの、刊行の順序が先で種類も多かったのは、『日本書紀』に掲載されている通常の「憲法十七条」の「篤敬三宝」に代えて儒教・仏教・神道の「三法を篤く敬へ」と説いた「通蒙憲法」や、「神職憲法」などから成る江戸時代の偽書、「聖徳太子五憲法」だったのです。
最初に刊行されたのは、明治元年の序文を持つ神阿編『復神武帝 敕五憲法』です。勤王僧であった浄土宗の神阿が、天明8年(1788)の版を復刻し、「五箇条御誓文」その他を付して、仏教書を専門とする京都の店から刊行したものです。
明治6年に教部省が「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」という方針を「三条教則」として打ち出すと、神阿は上の版の表紙見返しに「三条教則」を印刷した形のものを刊行しており、以後も、少し変えた版を次々に刊行しています。
つまり、神道重視の時代、将軍でなく天皇が統治する時代となったため、「神職憲法」を含み、儒教・仏教・神道の融和を説く禁書の「五憲法」が尊重されるようになったのです。特に、廃仏毀釈で痛手を受けた仏教界は、「太子は神道を軽視していたのではない」と弁解する材料として歓迎したようです。
これに対し、通常の「憲法十七条」の注釈が刊行されるのは、小倉によれば、明治16年の小嶋郡松編『集註 憲法十七条』、明治22年の広瀬進一述『十七憲法和解』などからです。
また、当然のことながら、昭和十年代に天皇絶対主義、神道絶対主義が激化し、聖徳太子奉賛運動がよりいっそう盛んになると、「五憲法」を持ち上げる人たちが増えています。特に、イギリス政治学を専門とする京都帝大法学部教授の池田栄など、古典文献学の訓練を受けていない他分野の国家主義者たちは、「五憲法」は偽作ではないと主張して、これを弘めようとしました。
その「五憲法」を重視した人たちが思い描く太子のイメージは、神道の面が強く、『日本書紀』が記している太子像や、親鸞が強調した「和国の教主」などとは、かなり異なっていたのです。
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