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江戸時代に印刷された叡福寺の聖徳太子墓の宣伝チラシ:伊藤純「聖徳太子墓の新史料」

2024年07月25日 | 聖徳太子信仰の歴史

 聖徳太子の墓とされる磯長の叡福寺北古墳については、このブログでもたびたび取り上げてきました(こちらや、こちらほか。疑う立場は、こちらなど)。その是非はどうであれ、江戸時代には内部の様子を細かく描いた図が印刷されて配られていました。それを紹介したのが、こちらです。

伊藤純『歴史探訪のおもしろさ―近世の人々の歴史観―』「2 聖徳太子墓の新史料」
(和泉署員、2017年)

 伊藤氏については、以前も太子の肖像画その他に関する論文を何度か紹介したことがあります(たとえば、こちら)。

 今回の論文では、伊藤氏は、近年になって大阪歴史博物館の所蔵となった「河内国上ノ太子磯長山御廟開扉正面絵図・同窟中三廟秘図」(以下、「御廟図」と呼びます)について紹介しています。

 この図は1枚ものの刷り物であって、右半分に霊屋の正面が描かれていますが、現在あるような扉はなく、石敷の通路の左右に形の異なる二対の灯籠が置かれています。伊藤氏は、形から見て手前の大きな灯籠は石製、奧のものは金属製と推測します。

 通路には薦が敷かれており、突き当たりは石積みの塀で閉じられているようであって、塀の中央に四角い穴のようなのがあるのは、石室の内部を見るためののぞき穴らしく、その手前には机が置かれ、上に焼香用の香炉が二つ乗っています。ここまで入れて中をのぞくことができたんでしょうね。

 そして、石室への入り口は石積みになっていて中に入れないようでありながら、「御廟図」の左半分には、石室内部の様子がかなり詳細に描かれています。つまり、石室の手前右に大きな「皇太子御棺」、その左に「皇妃御棺」の左に〇の中に「井」と記されており、さらに左には井戸の印があります。

 奧には大きな御母后棺があって、その上に一対の黄金獅子が向き合うように置かれており、その左には「鏡」、さらにその左には小さな文字が書かれた石碑のようなものが描かれています。

 図の下には文字の説明があり、それぞれの棺の大きさが「長七尺二寸、横巾三尺」などと記されていますが、伊藤氏は、描かれているのは棺ではなく、それを載せる棺台であると述べ、どの棺台にも奧に四角い切り穴があるのは、水抜きの穴と推定します。

 鏡については説明には「御鏡一尺余」とあり、井戸については、「井水底敷白石澄如鏡 水味甘」などと書かれています。井戸の底には白い石が敷き詰めてあり、澄んでいて鏡のように反射するというのは、石室を明るくしないと分からないことのはずです。水の味が甘いというのは、実際に飲んでみたのか……。

 左端の石碑のようなものについては、「立石 弘法大師記文」とあって、「人皇六十一代 一條天皇御宇正暦五年……」に。聖徳太子に馬でお仕えしたとされる調子麿の末孫である法隆寺の康仁大徳が窟の中に入って拝見し、天皇に報告した、と説明されています。

 これによれば、「御廟図」は九九四年に康仁が観察した記録によって石室内部の情報を記したことになります。実際、叡福寺所蔵の『慶長五年旧記』と記載内容が重なる部分があります。

 しかし、1600年の『慶長五年旧記』では、康仁大徳が廟に入って拝見した際は、御母公の御棺には炭灰と御骨があったものの、御妃の棺には灰だけがあって骨が無かったのは、「化生ノ人」であるためだと記されており、こうした記述は「御廟図」にはないため、『慶長五年旧記』に基づいて略出したことが推測されるとします。

 確かに、正面の図では石室の入り口は石積の塀のようになっていて入れないわけですので、のぞき穴から見たとしても、強力なサーチライトなどがないと中は分からないはずだし、外からのぞいただけでは、棺台の大きさなどは記録できないはずです。中に入って記録したものが元でしょう。

 実は、石室内部を描いた絵図は、正徳6年(1716)の「法隆寺年会目次記」に引かれている「聖徳太子御廟窟絵記」があります。絵は似ていますが、こちらでは、井戸は手前ではなく、鏡と「大慈大悲……」と記された石の間に描かれているなどの違いがあります。宝暦5年(1755)に叡福寺東福院の僧の玄俊が書写した「太子御廟図」でも、井戸はその位置に描かれています。

 これによって、伊藤氏は、元の図から次々に転写されていったことが分かるとし、今回の「御廟図」は別系統のものと説きます。

 今回の絵図については、奧のくずれた結界石と手前の整然とした結界石の描き方から見て、新たに結界石が設置された享保19年(1734)以後に作成されたことが分かるとします。

 この前後の時期には、霊屋の整備が進み、叡福寺の金堂も享保17年(1732)に再建され、太子の霊場としての宣伝も盛んになっていっています。そこで伊藤氏は、金堂再建と墓域整備に合わせる形で太子墓を宣伝する「御廟図」が印刷されて配布されたものと見ます。

 この時期には、叡福寺だけでなく、法隆寺でもしばしば開帳がなされ、その内容を記した文章なども広まっていたようです。庶民の信仰の太子の寺、浄土往生の聖地として長らく人気を集めていた四天王寺に比べてあまり有名でなかった叡福寺や法隆寺は、そうした催しをすることによって知名度をあげていったのでしょう。 

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