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後代の太子伝が描く『日本書紀』とは異なる太子のイメージ:光川康雄「幼少期における聖徳太子伝承と太子像」

2024年09月28日 | 聖徳太子信仰の歴史

 大山誠一氏の聖徳太子虚構説については、この10年以上、学界ではまったく問題にされておらず、わざわざ批判する論文もほとんどなくなっている、とこのブログで書いてきましたが、その稀な論文の一つが、

光川康雄「幼少期における聖徳太子伝承と太子像―『聖徳太子伝暦』の再評価―」
(『教育文化』第31号、2022年3月)

です。

光川氏は、結論の部分で、大山説に触れ、「筆者には一面で小倉説の焼き直しにすぎず、むしろ退歩した部分も見受けられる」と述べ、なぜ聖徳太子讃美の動きや伝統が生まれたかの解明なしでの議論が目立つと、3行ほどで評しています。

 「小倉説」とは、太子の生前の名は「厩戸王」であった可能性があるとし、太子関連の文献の批判をおこなった小倉豊文の説のことです。小倉説については、私は反対ですが、その学問の姿勢を高く評価していますので、このブログでは小倉コーナーを作ってあるほどです。

 さて、光川氏は、『日本書紀』に基づく聖徳太子のイメージは、厩戸での誕生、父帝の愛情を受けての上宮での生育、幼い頃からの聡明さに基づく豊聡耳の名など、幼少期の逸話に由来する点が多いと述べます。そこで、後代の太子伝における幼少時の記述との比較を試みたわけです。

 まず注目するのが、『日本書紀』に最初に見える太子関連記述である「春宮聖徳」の名と敏達・推古の間に生まれた莬道貝蛸皇女との結婚という部分です。光川氏は、不思議なことに、後の太子伝ではこのことに触れたものはないと述べ、「奇妙な無視というか、怖い沈黙であると感じる」と述べています。

 これは大事ですね。我々は文献を読む際、書かれていることの意味を考えるのですが、書かれていないことについても注意すべきなのですね。ただ、光川氏はこの沈黙の理由については何も述べていません。子供が生まれなかったことは確かですが、理由はそれだけなのか。

 光川氏は次に『日本書紀』の物部合戦の部分で、太子の髪型について「束髪於額」とあって注で「古俗では、少年は15、6才の間は神を額に束ねる」とあることに注目します。これによればその時、15か16才だったことになりますが、『日本書紀』では、天皇を除いて誕生の年月を記さないため、ここは例外的な事例だとします。そして、『日本書紀』における厩戸皇子の記述は、「さまざまな伝承の起点ともよべるものが内在している」と述べます。

 太子の誕生年を「甲午年(五七四)」と明記したのは、『上宮聖徳法王帝説』ですが、これによって、「午(うま)」年の生まれだからとして馬に関する伝承と結びつけたり、蘇我馬子も午年の生まれと見るる説などについては疑います。

 『帝説』と同様、干支によって誕生年を伝えた次の太子伝は『上宮聖徳太子伝補闕記』です。ここに至ると、誕生時の説話や3才で「南無仏」と唱えたことなども記されるようになります。いろいろな氏族の伝承をまとめたとされる『補闕記』は、広隆寺関係記事、三経義疏の制作年代、太子没後の一族滅亡などが詳しく語られます。

 『補闕記』は、母が金色僧(観世音菩薩)を夢見て受胎したと、それを承ける『聖徳太子伝暦』ではその前年の父母の婚姻から記しています。四天王寺では8世紀半ばから絵殿が設けられて太子の絵伝が描かれていましたが、内容は不明であり、延久元年(1069)には、『伝暦』の記事に基づいて法隆寺の東院に絵殿と童形の太子像が制作されます。これがきっかけで、各地の太子ゆかりの寺でも童形太子像が盛んに作られるようになります。

 光川氏は、この他、様々な太子伝の特徴を述べた後、太子の年齢を記した文献には、院政期に成立した書物が多いとし、『伝暦』に近いのは『扶桑略記』だとします。そして、鎌倉時代には、新仏教の創始者や各派の僧侶たちが自らの派と太子の関係を強調するようになると述べ、江戸時代になって儒教からの太子批判が起きると、『先代旧事本紀大成経』のような偽書が作成されてそうした批判を否定すると述べます。

 『先代旧事本紀大成経』については、このブログでも取り上げてコーナーまで作成しましたし、私も少しづつ研究中です。

 光川氏は、太子観に触れた後、『日本書紀』にしても以後の太子伝にしても、実像は良く分からず、それは推古天皇や蘇我馬子が良く分からないのと同様だと「謙虚に語るのが望ましいと筆者は考えている」と説きます。

 これは穏健な姿勢ですが、あまりにも多様で荒唐無稽な記事が多い後代の太子伝研究者の意見ですね。このブログで紹介してきたような「憲法十七条」や『三経義疏』そのものを精密に検討したうえでの判断と思われる記述は、光川氏のこの論文には見当たりませんでした。

 

 

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