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早稲田での聖徳太子シンポジウム刊行:吉原浩人「磯長聖徳太子廟と「廟崛偈」をめぐる言説」

2023年04月12日 | 聖徳太子信仰の歴史

 早稲田での聖徳太子シンポジウムの最後の発表です。

吉原浩人「磯長聖徳太子廟と「廟崛偈」をめぐる言説」
(『多元文化』第12号、2023年2月)

 私の発表は太子そのもの、阿部さんの発表は平安初期の太子信仰であったのに対し、最後の発表の吉原さんのテーマは、太子信仰が異様に盛んになって偽作の文献や文物が大量に作成された鎌倉時代の太子伝説のうち、太子が生前に磯長に自分の墓を造らせ、その石室に記したとされる「廟崛偈」です。

 平安中頃から鎌倉時代にかけて、太子信仰が高まって伝記研究が進むと、現代の常識からすると荒唐無稽としか言いようがない解釈やら太子伝説やらが、秘事として次から次へと生まれます。それを伝述するための特殊な太子伝も作成されたうえ、当時流行していた太子絵伝の中には、そうした秘事口伝の内容を描いたものも登場します。

 つまり、秘事口伝を受けた者だけがその絵の本当の意味を解説できる、ということになるのです。聖徳太子が生身(しょうじん)、つまり生きている存在として信仰を集めた信濃善光寺の善光寺如来(像)と手紙のやりとりをしたという伝説もそうした秘事の一つでしたが、次第に知られるようになっていき、やりとりは一度だけではなかったということで、応答の回数が次第に増えていって五回もなされたとされ、和歌の応答があったという話まで生まれます。

 この手紙については、中世に流行した偽作の年号が使われているため、九州王朝説信者たちが「九州年号だ、本物だ」と大喜びし、病気になった九州王朝の太子が信濃の善光寺如来あてに送った手紙だという妄想を大真面目で書きたてていたため、善光寺信仰の専門家である吉原さんの論文をこのブログで紹介してあります(こちら)。

 吉原さんは、この種の伝説は近代以後は荒唐無稽だとして注目されなくなったが、そうした言説にこそ、太子信仰の本質があるとします。聖徳太子と善光寺如来(像)が手紙でやりとりするというのは、現代の常識では考えられないことですが、親鸞が「廟崛偈」を書写していたことが示すように、末法思想におののき、浄土往生を願っていた中世の人々は、そうした伝説を熱心に信じていたのです。

 そして、善光寺如来の信仰を広めていったのは勧進聖と呼ばれる念仏聖たちの集団であって、高野山→四天王寺→善光寺を結ぶことにより、空海に対する信仰、聖徳太子信仰、阿弥陀三尊への信仰が結びつき、空海が太子廟に参詣したととか、空海は聖徳太子の生まれ変わりだといった伝承が生まれるに至ったとします。

 さて、叡福寺の奧にある磯長廟は、現在は墓所周辺のみ宮内庁管理となっています。平安前期に撰述された『上宮聖徳太子伝補闕記』では、太子は生前に墓所を見てまわり、病なくして亡くなったと記すだけでしたが、平安中期に太子伝を集成した『聖徳太子伝暦』は、47才条では、太子は墓を造るよう命じて自ら墓所に入り、子孫が残らないようにするために数カ所を斬らせたとします。そして、48才条では墓内に二つの床を設けさせたと述べ、50才条では、太子と妃が沐浴後に新たな衣装を着て亡くなり、磯長に葬送すると墓を守る鳥が出現したと述べます。

 しかし、現在の磯長廟には三つの棺があり、母である間人皇后も葬られています。現在は墓の入り口に江戸時代の覆屋が置かれていて中に入れませんが、平安時代から出入りする僧侶たちがおり、その内部は、空海が記録したと記された「太子御廟図」に描かれています。それによれば、中央奧に「間人皇女」の棺、手前右側に「上宮」の棺、手前左側に「妃女」の棺が置かれ、間人皇后の棺の左には鏡、その左に「井」、さらに石室の西壁の前に四角い石碑のようなものが描かれて「日記文」とあります。

 この「日記文」が、太子自ら記したという「廟崛偈」です。この偈は、法興元世二年十二月十五日に太子が調子丸を使いとして善光寺如来に派遣した際に託された消息として伝えられています。

 この話については、法隆寺の顕真(1131-1192)の『古今目録抄』巻下の裏書文書「顕真得業口決抄」を初めとして、多くの文献が載せていますが、いずれも鎌倉から室町にかけての文献です。しかも、顕真は、その調子丸の子孫と称して太子と調子丸に関する伝説化を推し進めた人物として有名です。「廟崛偈」は、そうした怪しい人物の口伝と称して残されたものなのです。

 「廟崛偈」では、太子は阿弥陀如来の慈念を強調し、我が身は「救世観世音」、戒定恵の三学のうち定と智恵を備えた妃は「大勢至」、自分を育てた「大悲母」は「西方教主弥陀尊」だと述べ、もとは一体だとし、この「三骨一廟」に参詣すれば、地獄・餓鬼などに生まれず、必ず極楽に往生できると説いています。「新年の初詣では、御利益豊かな〇〇観音へ」といったコマーシャルのようなものですね。

 吉原さんは「救世観世音」という日本独自の称号について説明した後、「廟崛偈」と対になって記録されることが多い空海作とされる「御記文」について検討します。これは、空海が太子廟に参籠して書いたとされるもので、このことが示すように、この時期に弘法大師信仰と聖徳太子信仰と善光寺如来信仰が結びつくのですね。

 さて、「廟崛偈」を利用したのは空海の真言宗だけでなく、親鸞がこの偈を書写した自筆の断簡が残っていることが示すように、真宗でもこの偈は重視されました。真宗で親鸞と太子の関係を協調するのが、1325年の写本が伝わる『聖徳太子内因曼陀羅』です。これは、観音の応現である太子、前世の勝鬘夫人と南岳慧思、善光寺如来との書簡往復、太子の本地、法然・親鸞の伝記について説明した絵解きの台本です。

 このほか、太子廟や太子関連の未来記の偽作その他、「廟崛偈」をめぐる言説がいかに多様で盛んであったかが論じられ、太子廟が浄土信仰の聖地になったことが指摘されており、この問題に関する集大成ともいうべき内容になっています。

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