聖徳太子は、様々な分野の人々によって神格化されていきますが、道教の面を代表するのは、院政期を代表する学者である大江匡房(1041-1111)の『本朝神仙伝』の記述でしょう。その記述を中心にして、太子を仙人とみなそうとする歴史を検討したのが、
馬耀「『本朝神仙伝』の「上宮太子」条をめぐって--太子尸解説及び穆王・黄帝説話との関連から--」
(『日本語と日本文学』第46号、2008年2月)
です。
『本朝神仙伝』の諸テキストのうち、「倭武命」条に続いて「上宮太子」条を載せるのは、大東急文庫本だけですが、この写本では「又た甲斐の黒駒に乗り、白日昇天し、俄頃の間(あっという間に)、千里を往還す。『十七條憲法』を作り……」と述べているものの、死の記述に続いて多くの人が悲しむ描写の途中で切れており、以下が失われています。
ただ、鎌倉時代の『上宮太子拾遺記』に引かれる佚文によって、ある程度復元することが可能です。多少問題もあるのですが、その佚文によれば、太子の没後、盗人が墓を掘ったところ、「尸骸、見えず。猶お尸解の類なり」とあり、遺体が消えていた点は仙人の尸解と同様であるとされています。
この描写が、天喜2年(1054)の聖徳太子墓盗掘事件に基づくことは、言うまでもありません。聖を名乗る僧が墓に押し入ったため、太子の舎利が破損していないか調査したところ、三つの棺のうち、一つには頭蓋骨があったが他の二つには無かったという説と、東の棺の中に太子が生前の姿そのままで横たわっていて異香がただよっていたという説があるが、後者が正しい、というのが『聖徳太子伝私記』の記述です。
ところが、太子の神格化が進んでいて神秘的な記述が多い『聖徳太子伝暦』『三宝絵』『極楽記』『法華験記』などには、尸解仙を思わせる記述はあるものの、「尸解」という言葉そのものは見あたらないことに馬氏は注意します。つまり、それらは尸解に関する「表現を借りて往生を伝えるものと理解した方が無難」なのであって、明確に太子を尸解仙とみなしたのは『本朝神仙伝』が最初と、馬氏は見るのです。
ただ、先に見たように、『本朝神仙伝』では太子は「白日昇天」したとも書かれていました。これは、尸解仙や地仙の上に位置する天仙の登仙法です。
ここでの「白日昇天」は、ただ黒駒に乗って空を飛んだことを大げさに表現したもので、馬に乗って天を飛び、渾崙山で西王母と詩を唱和しあったとする中国の穆天子説話を換骨奪胎したものとする指摘もありますが、馬氏は、それだけではないとします。それは、『史記』などでは聖人として描かれていた黄帝が、六朝初期の道教書、『抱朴子』などになると、龍に乗って天を飛び、尸解する黄帝に変わっているためです。
つまり、馬氏は、匡房当時は『本朝神仙伝』という題名が示すように、中国の中華主義に対抗する「本朝」意識が強くなっていたため、匡房はそれまでの太子伝に記されている太子葬送の場面を「尸解」と認定して改変したのではないか、また、穆天子と黄帝の伝説に基づいて太子を黄帝に見立て、「尸解」とは両立しないはずの「白日昇天」をも「上宮太子」条に取り込んだのではないか、と見るのです。
「本朝」という言葉を用いての本朝意識の成立は遅いものの、自国を(小)中華とみなすことは、早くから中国周辺の諸国に見える傾向であって、時期によって強まったり弱まったりするため、『日本書紀』にしても古代朝鮮文献にしても、そうした点に注意して読むことが重要ですね。
馬耀「『本朝神仙伝』の「上宮太子」条をめぐって--太子尸解説及び穆王・黄帝説話との関連から--」
(『日本語と日本文学』第46号、2008年2月)
です。
『本朝神仙伝』の諸テキストのうち、「倭武命」条に続いて「上宮太子」条を載せるのは、大東急文庫本だけですが、この写本では「又た甲斐の黒駒に乗り、白日昇天し、俄頃の間(あっという間に)、千里を往還す。『十七條憲法』を作り……」と述べているものの、死の記述に続いて多くの人が悲しむ描写の途中で切れており、以下が失われています。
ただ、鎌倉時代の『上宮太子拾遺記』に引かれる佚文によって、ある程度復元することが可能です。多少問題もあるのですが、その佚文によれば、太子の没後、盗人が墓を掘ったところ、「尸骸、見えず。猶お尸解の類なり」とあり、遺体が消えていた点は仙人の尸解と同様であるとされています。
この描写が、天喜2年(1054)の聖徳太子墓盗掘事件に基づくことは、言うまでもありません。聖を名乗る僧が墓に押し入ったため、太子の舎利が破損していないか調査したところ、三つの棺のうち、一つには頭蓋骨があったが他の二つには無かったという説と、東の棺の中に太子が生前の姿そのままで横たわっていて異香がただよっていたという説があるが、後者が正しい、というのが『聖徳太子伝私記』の記述です。
ところが、太子の神格化が進んでいて神秘的な記述が多い『聖徳太子伝暦』『三宝絵』『極楽記』『法華験記』などには、尸解仙を思わせる記述はあるものの、「尸解」という言葉そのものは見あたらないことに馬氏は注意します。つまり、それらは尸解に関する「表現を借りて往生を伝えるものと理解した方が無難」なのであって、明確に太子を尸解仙とみなしたのは『本朝神仙伝』が最初と、馬氏は見るのです。
ただ、先に見たように、『本朝神仙伝』では太子は「白日昇天」したとも書かれていました。これは、尸解仙や地仙の上に位置する天仙の登仙法です。
ここでの「白日昇天」は、ただ黒駒に乗って空を飛んだことを大げさに表現したもので、馬に乗って天を飛び、渾崙山で西王母と詩を唱和しあったとする中国の穆天子説話を換骨奪胎したものとする指摘もありますが、馬氏は、それだけではないとします。それは、『史記』などでは聖人として描かれていた黄帝が、六朝初期の道教書、『抱朴子』などになると、龍に乗って天を飛び、尸解する黄帝に変わっているためです。
つまり、馬氏は、匡房当時は『本朝神仙伝』という題名が示すように、中国の中華主義に対抗する「本朝」意識が強くなっていたため、匡房はそれまでの太子伝に記されている太子葬送の場面を「尸解」と認定して改変したのではないか、また、穆天子と黄帝の伝説に基づいて太子を黄帝に見立て、「尸解」とは両立しないはずの「白日昇天」をも「上宮太子」条に取り込んだのではないか、と見るのです。
「本朝」という言葉を用いての本朝意識の成立は遅いものの、自国を(小)中華とみなすことは、早くから中国周辺の諸国に見える傾向であって、時期によって強まったり弱まったりするため、『日本書紀』にしても古代朝鮮文献にしても、そうした点に注意して読むことが重要ですね。