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藤原鎌足の人物像には聖徳太子信仰の影響があるか: 谷本啓「興福寺の縁起と聖徳太子信仰」

2010年11月06日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子虚構説が主張され始めた頃は、『日本書紀』における太子関連の記事のほとんどを道慈が書いたとされていましたが、それとはまったく別な観点から、道慈が聖徳太子信仰を弘めるあたって果たした役割を強調する論文が出ています。

谷本啓「興福寺の縁起と聖徳太子信仰」
(『古代文化』61巻1号、2009年6月)

です。

 西大寺の創建は、藤原仲麻呂の乱に際して、天平宝字8年(764)9月11日に孝謙天皇が鎮圧を願って四天王像の造立を誓願したことによります。この誓願には、孝謙天皇の『最勝王金光明経』信仰に加え、聖徳太子の四天王誓願による守屋誅滅の影響も見られるとする谷本氏は、『興福寺流記』中金堂院条に引かれる『宝字記』では、興福寺の前身である山階寺の釈迦・脇侍・四天王像は、藤原鎌足が入鹿誅滅を誓願して創った、とされていることに注目します。

 そして、これもまた太子説話の影響を受けて後代に成立した伝承であることは明らかであるとし、その鎌足に初代維摩会講師として招かれたという福亮は、法起寺塔露盤銘によれば、太子のために法起寺に金堂と弥勒像を造ったとされていることを指摘します。

 谷本氏は、大安寺についても、前身である熊凝寺は聖徳太子に基づくとされるなど、太子と結び付けようとする伝承もあるほか、移建の伝承の面で興福寺の記述が大安寺の記述と似ていることに着目し、こうした類似が見られるのは、興福寺・大安寺と渡り歩いた道慈が興福寺の縁起作成に関わったためではないかと推測します。熊凝寺は、道慈の出身母体である額田氏の氏寺、額安寺の前身とも言われており、道慈と関係があるというのも、推測理由の一つです。

 谷本氏は『家伝』の記述から見て、藤原氏自体が鎌足の人物像を太子に近づけようとしていた可能性もあるとしています。

 上記のように、かなり推測が目立つ論文ですが、道慈の聖徳太子信仰を強調する東野治之氏や星野良史氏の研究を参照しつつ、興福寺の縁起の見直しを試みています。道慈が当時、活躍したことは間違いない事実ですので、その活動については、様々な資料を比較検討して慎重に検討する必要がありますね。
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