聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

九州王朝説から転じた理系の古代史研究家による強引な聖徳太子論:半沢英一「聖徳太子法皇倭王論」

2023年10月10日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子は天皇だったという説は、古代史ライターの本などでたまに見かけますが、歴史学者では、門脇禎二氏が唱えていました。2007年に亡くなった門脇氏は、『日本書紀』の史料批判と大化の改新否定論で知られており、その著『蘇我蝦夷・入鹿』でも逆臣のイメージをくつがえそうとするなど、従来の見方を大胆に疑うタイプの研究者でした。

 ただ、この門脇説は、学界ではまったく支持されていません。当時は聖徳太子の活動を疑う傾向が強かったうえ、その役割を重視する場合でも、『日本書紀』の用明紀では「位居東宮、総摂万機、行天皇事」と述べていますので、「東宮」とか「皇太子」といった呼称は律令制になってからのものにせよ、初の女帝であって制約が多かったであろう推古天皇の政務を、甥かつ娘婿であった聖徳太子がかなり代行したのだ、ということで説明がついてしまうからでしょう。

 『天寿国繍帳銘』でも『法王帝説』でも、「太子」と呼んでいることを無視できませんし、7世紀後半の作であることが確実な法隆寺薬師三尊像銘にしても「太子」「東宮聖王」と呼んでいます。

 ところが、この門脇説をさらに進め、聖徳太子こそが仏教的な「倭王」であったとし、その倭王を軸とする「法興革命」なるものを説いたのが、

半沢英一「聖徳太子法皇倭王論」
(『日本書紀研究』第24冊、2002年)

であって、79頁もあります。半沢氏は東北大学数学科卒の数学者であり、この論文を書いた当時は金沢大学工学部助教授としてその分野で活動していました。

 ただ、早い時期から古代史に興味を持ち、初めは古田武彦氏の九州王朝説に賛同していた由。その頃、古田氏の人気は高く、歴史ファンの市民たちによって氏を囲む研究会が組織され、盛んに活動していましたが、研究会メンバーたち自身の研究が進むにつれ、九州王朝説を真実とみなすか、学説の一つと見て研究してゆくかで意見が分かれるようになったそうです。

 さらに、古田説に都合の良い部分を含む現代の偽書である『東日流外三郡誌』を真作と認めるかどうかという問題も加わり、研究会が分裂していきます(真作説を支持する「古田史学の会」の幹部たちが書き続けている「珍説奇説」のレベルについては、こちらや、こちらや、こちら)。

 その後、古田説に対して批判的になっていった側の人たちが刊行していた『市民の古代』誌が、いろいろな経緯で『古代史の海』誌に受け継がれますが、半沢氏はこの『古代史の海』に精力的に書いていた一人であって、九州王朝説批判の論文も発表しています。

 この「聖徳太子法皇倭王論」の元となる論考も同誌に掲載されたのですが、影響力の大きかった歴史学者の横田健一氏が編纂する学術シリーズ『日本書紀研究』の母体である日本書紀研究会で改訂した内容を発表した結果、『日本書紀研究』に掲載されるに至ったという事情だそうです。

 上述のように、半沢氏は理系の研究者であって歴史学出身ではないため、歴史論文としてはやや素人くさい書き方になっているうえ、かなり強引な推測・断定が目立ちます。ただ、いくつかの創見も含まれており、学術誌に掲載されたものですので、論文としてコメントしつつ紹介してゆくことにします。なお、半沢氏はこの論文の内容を増訂し、書物として刊行していますが、ここでは『日本書紀研究』所載の論文だけを扱います。

 さて、半沢氏は、古墳王権と律令制国家の間に社会的断絶があると述べ、また『隋書』倭国伝が描く倭王と『日本書紀』が描く主権者の違いを重視して、「主権者矛盾」と呼んで検討し、いくつかの結論を導きだしますが、要約すると以下のようになります。

 聖徳太子は仏教的権威に基づく「法皇」なる倭王だった

 その倭王は、古墳時代から律令制に移る時期の「法興革命」の中で生まれた

 天皇推古は、名誉職的な神祇祭祀王であって実際の統治は「法皇」に委ねた

 法興革命以後は一系神裔王「天皇」が支配イデオロギーとなった

 そのため、法興革命と「法皇倭王」の存在は隠さねばならなかった

以上です。そして、聖徳太子に関する基礎資料について検討していっています。

 強引な推測が目立つ半沢氏の主張のうち、評価できるのは、鎌倉時代の「天寿国繍帳」の注釈によれば、銘文では橘郎女は夫のことを「我大皇」と呼んでいたにもかかわらず、校訂テキストを出した飯田瑞穂氏が『法王帝説』所載の本文に基づいて「我大王」としているのは不適切、と批判したことですね。半沢氏は、『法王帝説』は原物が残っている釈迦三尊像銘が「法皇」としている部分も「法王」として掲載していることを指摘しています。

 ただ、「大皇」や「法皇」と呼ばれているからといって、「倭王」であったとすることには無理があります。「大皇」の訓は「大王」と同じで「おおきみ」であり、「皇」の字を用いて尊敬を強めた形でしょう。

 道鏡が任じられたような「法王」という位があったとか、聖徳太子がそうした位に即いたといった記録はありません。これも「天皇事」をしたから天皇に準ずる存在とされ、晩年には周囲の人が「皇」の字を用いることもあった、ということで説明がついてしまいます。そもそも、「天寿国繍帳」などでは「天皇」の語を用いているものの、「天皇」は対外的に正式な称号となっていませんし。

 『日本書紀』では、厩戸皇子については「法王」「法主王」という呼称も紹介していますが、これは太子が若かった頃は、おそらく「のりのみこ」「のりのぬしのみこ」であって、「講経が巧みな皇子」という意味であったと思われることは、中国の「法主」の例をあげて拙著や論文で指摘しました(このブログでは、たとえば、こちら)。

 ただ、成人してからかなりたてば、「のりのおおきみ」「のりのぬしのおおきみ」と呼ばれた可能性もあります。「おおきみ」は、「天寿国繍帳」では橘大郎女の父のことを「尾張王」とも「尾張大王」とも呼んでいることが示すように、当時は皇族で尊重される人のことを、特に身内の人は「おおきみ」と呼んでいました。これを漢字表記にすれば「王」や「大王」です。やや後になりますが、万葉歌人である皇族の額田王も、慣用の呼びかたは「ぬかたのおおきみ」ですね。

 漢字の「王」は、「~国王」の場合もありますが、中国の皇帝は皇子たちを諸地域に「~王」として送り込んでおり、この場合は「王」は皇子です。古代の文献が示すように、日本では、天皇の子については、男性にも女性にも「王」の語が使われていました。どちらも「みこ」だったからであって、「皇子」「皇女」として区別するようになったのは律令制以後でしょうし、律令制以後も、『万葉集』などが示すように、皇族の女性を「~王」とか「~女王」などと記している例があります。

 厩戸皇子が『日本書紀』では「天皇事」をしたとされている点に関して思い出されるのは、五大十六国時代の胡族国家の一つであった後趙の石勒が、皇帝の号を献上されたものの断り、「趙天王」と名乗って「皇帝事を行」ない、後に帝位についたという『十六国春秋』などの記述です。この「天王」を天皇の起源とする説もありますね。日本の当時の漢字音では、「天王」も「天皇」も同じ発音ですし。

 これだと半沢氏の主張と合いそうですが、「皇帝事を行な」った時期の石勒は皇帝ではありませんし、また半沢氏が真作とみなす「天寿国繍帳」は、「大皇」である「とよとみみのみこと」のことを「太子」と呼んでいます。

 そこで半沢氏は、「法王」は釈尊を指すため、太子関連文献に見える「法王」「法皇」は聖徳太子を釈迦の化身とみなした称号であり、「天寿国繍帳」に見える「太子」は、出家前の釈尊である「悉達太子」になぞらえたものであって、普通の「皇太子」とは異なると説きます。

 しかし、釈迦の出家前の姿である「太子」になぞらえられたという説を認めたとしても、太子は太子であって国王ではありません。また、聖徳太子が釈尊の化身であるなら、なぜ太子が重病になった際、釈迦像を造る功徳によって病気が平癒するよう祈り、無理な場合は「浄土に登り、早く妙果(修行の結果としての素晴らしい悟り)に昇」るよう願うなどして釈尊にすがるのでしょう。

 釈迦三尊像銘のうち、「浄土に登り~」の部分は、没後になっての追加でしょうが、私の見解は、当時の太子の周辺の者たちは、太子のことを、何度か生まれかわった後、釈尊のように悟って人々を導くようになるお方、つまり次の釈尊候補とみなしていたのであって、釈尊のようなすぐれた存在として尊崇はしていても、釈尊の化身とまでは考えていなかった、というものです。

 また、半沢氏は「法王」を釈尊と決めつけていますが、梁武帝などとともに聖徳太子の模範の一人であったと思われる隋の文帝に対して、臨終間近の僧が「法王御世」にめぐりあえたと述べて遺言を記した手紙を送ったことを、道宣の『続高僧伝』が伝えています。

 この場合の「法王御世」は、仏法を保護したアショカ王のような聖王の治世、という意味ですね。実際、世界各地に仏塔を建設させたアショカ王にならい、文帝は中国各地と近隣の支配地に仁寿舎利塔と呼ばれる塔を建てさせたことで有名です。「法王」は釈尊とは限りません。

 ただ、湯岡碑文に見える「法王」は、巨大な椿が作るトンネルを『維摩経』において「法王」たる釈尊が神通力で作った天を覆う幡蓋になぞらえたものであって(こちら)、これは文章上のお世辞と見るべきものです。こうした大げさな賞賛は、中国でも仏教信者の皇帝にはなされています。

 また、半沢氏は、敏達天皇にはそれまでのような大型古墳が作られず、母の陵に591年に合葬されたことを重視し、これを古墳王権の終わりと呼び、この年は釈迦三尊像光背銘や湯岡碑文に見える法興という年紀の元年に当たることを強調します。

 しかし、この年、太子は17歳であって、推古天皇もまだ即位していません。この年を法興革命の始まりとみなすなら、その革命の中心人物は聖徳太子ではなく、蘇我馬子でしょう。この論文では馬子の役割について詳しく論じないのはなぜなのか。

 聖徳太子を重視する半沢氏は、蘇我物部戦争において衆望を得た聖徳太子が「法皇」として即位したのであって、法興元年は「法皇」即位の年であるとし、推古は「天皇」だが、仏教では「天」は神を意味するのであって、仏より格下であるため、実際の「倭王」は「法皇」たる聖徳太子であり、推古天皇は名誉職的な神祇王だと説いています。

 これは、四天王寺が宣伝する『日本書紀』の物部合戦の記述を信じたことによりますが、守屋合戦の後で太子の叔父である崇峻天皇が即位しているのは、なぜなんでしょう。崇峻天皇の短い治世は、馬子が推し進めた仏教推進事業ばかりなされており、崇峻天皇が仏教流布に反対したなどの記述はありません。

 半沢氏は、崇峻は馬子に暗殺されたとされるが、実際には「法皇」であって甥でもあった聖徳太子の命によって殺されたと推測します。凄い仏教信者の「法皇」ですね。この時期、亡き敏達の皇后として「詔」を出していた推古は発言権無しですか。

 推古天皇を中継ぎとして即位したとみなす説に反論し、推古は能力があって実力で大王となって活動したとする義江明子氏(こちら)などが聞いたら怒りそうな議論ですね。義江氏は逆に聖徳太子について触れなさすぎる傾向がありますが。

 とにかく、無理な仮定を作ると、それを説明するために次々に無理な推定を重ねないといけなくなるのであって、このあたりは古田風であり、古田説に反対するようになった後も古田流の論証法が影響を及ぼしているように見えます。

 外交上、女帝であることを隠したのだとする「外交偽装説」を批判し、またそれ以外の九州豪族偽称説とならべて九州王朝説を簡単に批判した部分では、古田氏が『隋書』の「阿毎多利思比孤」を仏教的王者という点で釈迦三尊像光背銘の「法皇」と同一人物だとしたことについて、「卓見と思う」と述べます。

 ただ、そのうえで、これらはいずれも大和王権の聖徳太子と見て良いとして批判し、九州王朝説が成り立たない理由を述べていますが、古田氏の図式が形を変えて影響を及ぼしていますね。

 『隋書』と『日本書紀』の違いを「主権者矛盾」と称し、「絶対矛盾」と「相対矛盾」とに分けて論じるなど、もの言いも古田氏に似ています。

 その他にもいろいろ問題は多いのですが、これくらいにしておきます。

【付記】
 以上のような形で公開しましたが、半沢氏が「太子」を特別な存在と見た理由に触れていませんでした。半沢氏は、鎌倉時代に発見された「天寿国繍帳」の銘に関して、卜部兼文が著した注釈、『天寿國曼荼羅繍帳縁起勘点文』(飯田瑞穂『聖徳太子伝の研究』所載)が引く「或書」に、「石寸池辺宮治天下等与比橘太子王」とある点に注目し、これは用明天皇のことであるのに、「太子王」と呼ばれているとして、聖徳太子の場合も「太子」でかつ倭王なのだと論じます。

 しかし、「或書」のその前の部分では、「広庭王」、すなわち欽明天皇が蘇我稻目の娘の堅塩媛を娶って「橘太子(用明天皇)」、次に「等与弥希加志支移比売(豊御食炊屋姫=推古)を生み、また堅塩媛の妹を娶って「間人孔部女王」を生んだとしていました。

 欽明天皇とか用明天皇といった漢字諡号がまだ定められていない時期のことですので、欽明天皇を「広庭王」と呼ぶなど過渡期風な表記をしており、皇位についた用明天皇についても、その直前の部分で用いられた「橘太子」に「王(おおきみ/みこと?)」を付けたと見るべきでしょう。「太子」のまま即位した例とは認められません。そのうえ、半沢説によると、「太子王」である用明天皇も仏の化身とみなされていたことになってしまいます。

 なお、「或書」では、橘太子と間人孔部王の間に生まれた聖徳太子について、「坐伊加留我宮共治天下等已刀弥ゝ法大王」と記しています。斑鳩の宮で天下を治めたとなれば天皇ということになりそうですが、「共に」とありますので飛鳥の推古天皇と共に、ということでしょう。「或書」のこの箇所への着目はすぐれたものだっただけに、半沢氏は聖徳太子=倭王説を唱えるなら、むしろこの「治天下」の部分を強調すべきでした。

 ただ、ここでは聖徳太子は「太子」と呼ばれておらず、「法大王」と呼ばれていますので、やはり、「太子でありつつ倭王」という図式は成り立たないことになります。

 この「或書」について、飯田氏は、『上宮記』のようだが別の書であった可能性もあるとしています。

 書き忘れてましたが、半沢氏は、聖徳太子を天皇と見る門脇禎二「聖徳太子ー斑鳩の大王ー」(門脇禎二・鎌田元一・亀田隆之・栄原永遠男・坂本義種『知られざる古代の天皇』、学生社、1995年)に触れ、「卓見」としつつtも、「天皇」とは異なる「倭王」という存在に気づいていなかったと述べています。その門脇氏はその20年ほど前からこの説を主張されていました。これについては、次回紹介しましょう。

【付記:2023年10月11日】
本文と付記を多少訂正しました。半沢氏の古代史研究は、URCレコードを立ち上げるなど多彩な経歴を経てきた秦政明氏の古代史研究の歩みとかなり重なっており、影響を与え合っています。

 古田氏を囲む市民の会以来の経緯や、秦氏・半沢氏の研究の特徴については、半沢「秦政明氏さんとその古代史学」(『古代史の海』第32号、2003年6月)に詳しく記されており、同世代の音楽好きである私にとってはきわめて感慨深い文章になっています。この号の「秦政明追悼特集」の部分に治められた若井敏明氏などの追悼文も、読む価値があります。

 問題意識に富んだ市民研究者となった秦氏がアマチュアの甘え・独善性とプロのおごり・偏狭さを厳しく批判していたといった部分は、私自身、ちょっとこたえるものがありますね。私は仏教学を中心とした東洋思想や文学・芸能の研究者であって、古代史の基礎訓練を受けたわけではなく、中途半端な身なので。

この記事についてブログを書く
« 法隆寺金堂の釈迦三尊像は若... | トップ | 聖徳太子は天皇だった?:門... »

論文・研究書紹介」カテゴリの最新記事