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法隆寺金堂の釈迦三尊像は若草伽藍の本尊ではなく、救世観音は莬道貝蛸皇女の建立?:大橋一章「飛鳥白鳳彫刻と造仏工の系統」

2023年10月06日 | 論文・研究書紹介

 今年の2月に亡くなった新川登亀男さんは数冊の有益な論文集を編集していました。そのうちの一つに掲載された美術史の論文が、

大橋一章「飛鳥白鳳彫刻と造仏工の系統」
(新川登亀男編『仏教文明の展開と表現-文字・言語・造形と思想』、勉誠出版、2015年)

です。日頃のように「大橋先生」と呼ぶのが自然なのですが、ここでは「大橋氏」でいきます。

 この論文は、これまでの大橋氏の見解を集成し、さらに造仏工の系統、その変化についていくつかの新説を提示したものです。論争になってきた法隆寺の小金銅仏、また野中寺の弥勒仏などもとりあげていますが、ここでは聖徳太子とその妃に関わるとされる仏像だけを扱います。

 敏達6年(577)に百済から造仏工と造寺工の2人が派遣されてきてから10年後の用明2年(587)になって、我が国最初の本格伽藍である飛鳥寺が発願されたことに注意します。造仏工・造寺工が来た以上、見習いたちが弟子入りしたはずであり、その者たちが一人前になったであろう10年後に、寺造りが始まるのです。

 一人前になった第一世代の造仏工たちの中に鞍作止利がいたのであって、彼らの目的は飛鳥寺の本尊として丈六の金銅仏をつくることでした。当然ながら、当時の百済の様式であって、正面観が強く、横から見ることを考慮していない角張った古風な作例です。「止利式」と呼ばれるものですね。

 推古30年(622)正月に聖徳太子が発病し、王后(菩岐岐美郎女)も病床につきました。大橋氏は、そこで「別の王后、王子と諸臣」が病気平癒を願って釈迦像作成を誓ったものの、王后も太子も2月に続けて亡くなってしまったため、翌年完成した像には、元の病気平癒の願に浄土往生の願いが追加されたとします。

 発願した王后が菩岐岐美郎女と「別の王后」であるかどうかは議論のあるところですが、大橋氏は、その「別の王后」とは、蘇我馬子の娘であって山背大兄を生んだ刀自古郎女太子と見ます。

 また、それ以前のこととして、太子が推古15年(607)に発願していた法隆寺は、推古23年(615)くらいには五重塔が完成し、推古27年(619)頃には金堂と本尊が完成していたと推察します。これが若草伽藍ですね。

 となると、現在、金堂に安置されている釈迦三尊像は、創建時の若草伽藍の本尊ではないことになります。実際、若草伽藍は、『日本書紀』によれば天智9年(670)に雷のために全焼したとされています。そこで大橋氏は、釈迦三尊像は、若草伽藍ではなく、斑鳩宮の一画に建てられていた仏殿に安置されていたものと推察します。

 というのは、火災の後で再建された現在の金堂は、若草伽藍の金堂と同じ規模であって、しかもそれは飛鳥寺の金堂とほぼ同じ大きさであるからです。その飛鳥寺の金堂の本尊は丈六の座像です。丈六とは、釈尊は立てば一丈六尺(4.8メートル)あったとされる伝承に基づくものであって、座像の場合は半分の2.4メートルの高さになります。

 若草伽藍の金堂は、飛鳥寺の金堂とほぼ同じ大きさである以上、そこには飛鳥寺と同様に丈六の座像が安置されたはずです。しかし、現在の金堂に安置された釈迦三尊像は高さが88センチほどしかなく、金堂の大きさに比べると不自然に小さいため、巨大な台座が造られ、また天井から巨大屋根型の幡蓋がつるされて空間を埋めているのだと、大橋氏は説きます。その釈迦三尊像も、正面観が強い止利式の仏像でした。

 さて、飛鳥寺に続いて、若草伽藍、四天王寺、中宮寺などが建設されていきますが、そうした間に止利などの第一世代に続く第二世代が育っていきます。隋との交流も始まりますので、隋の最新の仏像も知らるようになるでしょうし、隋は北朝の北斉・北周を受けついだ北朝系の統一国家ですので、最新でない北斉・北周の仏像も日本に持ち込まれたと、大橋氏は推測します。

 そして、止利たち第一世代は当初の正面観が強い百済様式から外れることはなかったのに対し、第二世代は北周・北斉・隋の仏像の影響も受けるようになったと推察します。また中国南朝では、インドの壇木製の仏像の影響もあって木像も造られていたため、木材が豊かである日本で育ち、それらの性質に通じていた第二世代は、クスノキなどによる木像、それも止利式とやや異なる像を造り始めたと見ます。

 その最も古い例が、漆箔仕上げによる法隆寺の救世観音像です。この像は、正面観が強い止利式でありながら、角張った釈迦三尊像と違い、不十分ながら側面も考慮されてやや曲線的に造られており、顔の表情もリアルになって気味悪さがただようようになっているのです。

 この像について、大橋氏は、釈迦三尊像と同じ時期の作であるため、釈迦三尊像を造った王后や天寿国繍帳を造った王后とは別な王后による造立と説きます。そして、その候補として、大橋氏は、敏達天皇と推古天皇の間に生まれた莬道貝蛸皇女を想定し、彼女の宮の一部に安置していたと推定するのです。

 これはどうでしょうかね。推古天皇が、孫娘である橘大郎女を厩戸皇子に嫁がせたのは、莬道貝蛸皇女が亡くなっていたためだろうと考えるのが有力な説であるように思いますが。

 莬道貝蛸皇女には子はいなかったらしいことは、太子の子や孫たちを記した『法王帝説』からも分かりますので、推古は天皇候補である廐戸皇子とのつながりを確保し、自分の血をひく者が将来即位できるように、貝蛸皇女の出産が期待できなくなった時点で、若い孫娘を送り込んだ、ということになるのか。

 その救世漢音についで古いと思われるのが、彩色仕上げの木像である百済観音であって、救世観音像より人体観察が進んでいて柔らかさが増しているとします。近いのは中宮寺の菩薩半跏像であるとし、いずれも止利式の古い要素をあわせもっており、曲線的なのは上半身だけであって、下半身は直線的であるうえ、造形も平板であるとします。

 この点は、人体各部の観察が進み、造形も進歩した白鳳彫刻とは違うのです。初唐の写実的な仏像の影響をうけた白鳳彫刻を作り出したのは、さらに次の世代の工人だと、大橋氏は見ます。ただ、そうなると、誰が造像したのかが気になりますね。

 なお、大橋氏は、仏像の特徴の変化を上のように見るものの、第一世代の工人の影響を強く受けた工人も7世紀半ば頃まで活動しますので、実際には複数のタイプの仏像が平行して造り続けられたとし、また、中心となる止利やその直系のエリート工人と、その周辺にいた工人の作風の違いもあったと説きます。

 これによって、太子生存中や没後あまりたっていない頃の小金銅仏、たとえば推古36年(628)に亡き蘇我馬子のためにつくられた小型の釈迦三尊像が、止利式のようでありながら柔和な感じがあるなどの作風の違いを説明するのです。一直線の進化はありえないですし、同じ工房内でも作者が違えば微妙に違った風になりますからね。

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