昨年9月に藝林会の聖徳太子シンポジウムで発表した「問題提起 聖徳太子研究の問題点」は、再校まで終りました。4月に刊行される予定です。近代仏教史研究会で発表した「『人間聖徳太子』の誕生--戦中から戦後にかけての聖徳太子観の変遷--」も原稿は提出済みであるため、5月には出るでしょう。
後者では、発表後に気づいた資料をいくつか付け加えてありますが、一番の驚きは、家永三郎が聖徳太子に関する小説を書いていたことですね。
その小説というのは、毎日新聞社編『日本文化を築いた十偉人』(毎日新聞社、昭和26年3月。定価180円)に掲載されている家永の「聖徳太子」です。企画したのは、「毎日小学生新聞」「毎日中学生新聞」の編集長である植竹円次のようで、「まえがき」も書いています。
敗戦後の「文化国家日本の建設」ブームの一環として、「大きな志をたて励む少年たち」向けに出されたこの本では、「聖徳太子」は冒頭に置かれており、その次は紫式部となっています。軍人を取り上げることの多かった戦時中の少年向け読みものとは、その点が違っています。
家永の「聖徳太子」では、太子についてごく簡単に説明した後、いっしょに法隆寺を尋ねてみようと読者に呼びかけ、
というように話を進めていきます。そして、
とことわったうえで、
と小説風に転じており、『法華義疏』を執筆していてわからない箇所を慧慈に尋ねるという場面が描かれています。
家永は、これだけでは飽きたらず、教科書裁判の最中である昭和50年10月には、『歴史文学』第四号に「新編上宮太子未来記」を発表しています。これは、倉田百三『出家とその弟子』の結末における親鸞と善鸞との対話を、臨終時の聖徳太子と山代大兄王に置き換えたような戲曲です。率直に言って、いかにも素人くさい作品です。
家永は、一方では『上宮聖徳法王帝説の研究』に結実する研究を戦時中から進めていました。そうした厳密に文献学的なものを書いていると、やはり限られた資料に縛られず、想像を働かせて自分の考える聖徳太子を自由に書きたいと思うようになるのでしょう。
このように、家永は研究と想像を分けようとしたのですが、ごっちゃにして書いた代表が、梅原猛と大山誠一でしょうか。
後者では、発表後に気づいた資料をいくつか付け加えてありますが、一番の驚きは、家永三郎が聖徳太子に関する小説を書いていたことですね。
その小説というのは、毎日新聞社編『日本文化を築いた十偉人』(毎日新聞社、昭和26年3月。定価180円)に掲載されている家永の「聖徳太子」です。企画したのは、「毎日小学生新聞」「毎日中学生新聞」の編集長である植竹円次のようで、「まえがき」も書いています。
敗戦後の「文化国家日本の建設」ブームの一環として、「大きな志をたて励む少年たち」向けに出されたこの本では、「聖徳太子」は冒頭に置かれており、その次は紫式部となっています。軍人を取り上げることの多かった戦時中の少年向け読みものとは、その点が違っています。
家永の「聖徳太子」では、太子についてごく簡単に説明した後、いっしょに法隆寺を尋ねてみようと読者に呼びかけ、
国鉄の列車を法隆寺駅で降りて、……法隆寺の門前に到着する。正面の山のふもとの小高いところにそびえるのが法隆寺である。南大門をくぐると、すでに自分たちは何百年も前の古い時代に生きているような気がする。白い土塀のつづく参道のつきあたりが……
というように話を進めていきます。そして、
いつしか自分のからだが二十世紀の日本から迷い出して、七世紀の昔のありさまを目の前に見るような気持ちになるのであった。
とことわったうえで、
斑鳩宮も、しだいに夕やみのとばりにかくされていった。
宮の奥まった建物にほんのりと灯火がさす。そこは、……聖徳太子のおへやである。
……
「殿下。お呼びでございますか。」
太子は、慧慈のはいって来たことにさえ気がつかないほど夢中になって、考えごとにふけっておられたのである。慧慈の声に、太子ははっと顔をあげられた。
宮の奥まった建物にほんのりと灯火がさす。そこは、……聖徳太子のおへやである。
……
「殿下。お呼びでございますか。」
太子は、慧慈のはいって来たことにさえ気がつかないほど夢中になって、考えごとにふけっておられたのである。慧慈の声に、太子ははっと顔をあげられた。
と小説風に転じており、『法華義疏』を執筆していてわからない箇所を慧慈に尋ねるという場面が描かれています。
家永は、これだけでは飽きたらず、教科書裁判の最中である昭和50年10月には、『歴史文学』第四号に「新編上宮太子未来記」を発表しています。これは、倉田百三『出家とその弟子』の結末における親鸞と善鸞との対話を、臨終時の聖徳太子と山代大兄王に置き換えたような戲曲です。率直に言って、いかにも素人くさい作品です。
家永は、一方では『上宮聖徳法王帝説の研究』に結実する研究を戦時中から進めていました。そうした厳密に文献学的なものを書いていると、やはり限られた資料に縛られず、想像を働かせて自分の考える聖徳太子を自由に書きたいと思うようになるのでしょう。
このように、家永は研究と想像を分けようとしたのですが、ごっちゃにして書いた代表が、梅原猛と大山誠一でしょうか。
コメント、有り難うございます。
> 17条憲法の記述には倭習が満ちているとのこと、これは執筆者の御方(?)の個人的な筆の性でしょうか、
私は、このブログの「作者の関連論文コーナー」に置いてある論文で昔書いたように、内容からすると推古朝成立と見てよいのではないかと考えていますが、現在の形の「憲法十七条」については、その執筆者や成立時期は今後の検討課題と言わざるを得ません。
ただ、「憲法十七条」に見える変格語法には、『日本書紀』のうちで成立の新しい部分に見える変格語法と一致するものも多いことは、森博達『日本書紀の謎を解く』『日本書紀 成立の真実』が指摘している通りです。