推古天皇の位置づけについては、単なる中継ぎではないとする義江明子氏の本が話題になり、このブログでも連載で取り上げ(こちら)、それに対する批判も紹介しました(リンク)。
仁藤敦史「殯宮儀礼の主催と大后―女性の成立過程を考える」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』第235号、2022年9月)
殯における皇后の役割については、折口説の影響を受け「忌み籠もる女性」の呪術的正確を強調した和田萃氏の論文が通説のようになってきました。この論文は、問題を明確にしたすぐれたものでしたが、結論については最近は批判が出ています。
仁藤氏もその批判派の一人であって、この論文はその批判の集大成というべきものになっています。このため、神功皇后から持統天皇に及ぶまで幅広い事例を詳細に論じていますが、ここでは、聖徳太子に関わる推古天皇に関する主張を主に紹介します。
まず仁藤氏は、亡き大王の殯を主宰する人物から「詔」とか「勅」と表現される権力の発動がしばしばなされ、後継者の合意形成や指名がなされていることに注目します。そうした主宰の多くは、前の大王のキサキのうちの有力者でした。
推古の場合は、敏達のモガリが585年から591年まで続き、この期間に用明と崇峻が即位するという変則になっています。ですから、正式な即位とはいいにくい面があり、短期であった用明は特にそうです。しかも、この時期に蘇我馬子が元キサキの炊屋姫を奉じて穴穂部皇子の殺害を命じているのです。
用明のモガリは、キサキであった間人穴穂部が勤めていたと考えられますが、敏達のキサキであって年長で経験も上であった炊屋姫が政治的に指導する立場に立っていた、と仁藤氏は見ます。いずれにしても、忌み籠もるというよりは、権力的な振舞いが目立つのです。仁藤氏は、そうした女性が後に「大后」と称されたのであって、この点が女帝の誕生につながったと述べます。
用明は病弱であったようですので、この時期は推古の称制・共治の時期であって、用明より推古の方が上位だったと仁藤氏は推測します。この間に、大王選定をめぐって蘇我氏と対立する物部氏が亡び、また大王候補となる皇子たちが次々に亡くなっています。そうした中で、推古が主導して事態が進んでいるのですから、女帝としての即位は自然なつながりだと仁藤氏は説きます。
なお、『日本書紀』はモガリ時期のキサキの命令を「命」や「詔」や「勅」などと記していますが、仁藤氏は、当時は文書行政が整備されていなかったため、ミコトノリやオオミコトとして口頭で出されたのであって、漢字表記がどうであれ、質的な差異はなかったと考えられるとします。
男尊女卑の中国では、女性が権力を発揮するのは、幼帝が即位し、その母である皇太后が臨朝する場合でした。つまり、亡き皇帝の皇后としてではなく、新皇帝の母として権限を得たのです。
一方、日本の場合、推古、皇極(斉明)、持統は、いずれも実子の即位によって皇太后の権限を得たものではありませんでした。皇女であって、モガリの時期にキサキとして指示しえたことが重要だったのです。仁藤氏は、これらの女帝たちは、大王の生前は政治に盛んに関わることがなかったことに注意します。特別な期間であるモガリの時期に、有力な元キサキに判断が求められたのです。
このことは、皇族でない身で皇后となった光明子と比較することによって明確になると、仁藤氏は指摘します。光明皇后は、皇后になることすら反対があったのであって、即位は考えられません。また、この頃から男子優先のカリスマ的な直系血筋が尊重されるようになっていくのです。
仁藤氏は、継体朝以後、大王の生母・嫡子が一つの血筋に固定されていった結果、王族の観念が歴史的に形成されたのであって、その逆ではないことを強調します。ヒツギノミコは男性であって、ヒツギノヒメミコは存在しませんでした。
また、孝謙を除く女帝には太子となったとする記事がなく、廃太子も立太子も前提とせずに女帝が誕生しています。
こうしたことから見て、モガリの主宰、後継大王の指名・大王代行というステップを踏んで女帝即位が実現したのであり、非常時の安全弁としての面が重要だというのが仁藤氏の見解です。単なる中継ぎ説ではなく、また、実力で大王位についたというのとも違う見解ですね。