聖徳太子研究の最前線

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秘事口伝としての『上宮聖徳法王帝説』と『上宮記』

2010年05月28日 | 論文・研究書紹介

 24日に紹介した、武田佐知子編『太子信仰と天神信仰--信仰と表現の位相--』(思文閣、2010年5月)所収の諸論文のうち、古い時代に関わるのは、下鶴隆「聖徳太子伝の史料的性格--宗教的テキストの生成・流伝形態--」です。  

 下鶴論文では、「雑記帳的」と評される『法王帝説』の内容は、それぞれの項目が秘事・口伝として伝承されてきたことを指摘します。つまり、「個々の所伝が、諸太子伝から抄写注文を媒介に切り出され、時には系統の組み替えをともないながら、流伝して」いったというのです。その際は、当然ながら、誤写、簡略化、改編などがともなうことになります。そのような口伝を自分なりに構成し直したのが『法王帝説』であり、顕真の『聖徳太子伝私記』なのだ、と下鶴氏は説きます。

 そして氏は、『上宮記』も秘事口伝として伝承されてきたことを指摘したうえで、上宮王の伝記だから『上宮記』とされたのではないと主張します。つまり、逸文から知られるように、『上宮記』は神代や継体天皇の系譜に関する記述を含むものであり、聖徳太子一族の詳細な系譜を説いているのは「上宮記下巻注」であって「後人」の手による「注」の部分であるため、『上宮記』三巻は『古事記』や『日本書紀』などのような史書であったと考えるべきであり、上宮王の「御作」「御筆」とされたからこそ『上宮記』と呼ばれた可能性が高いというのです。その尊い上宮王真撰本に貴重な情報を記す後人の注が加えられたという理由により、『上宮記』の本文を抄出した部分も、また注の部分も尊重されてそれぞれ秘事・口伝として流通し、新たな情報が書き加えられていった、というわけです。

  そうなると、そうした史書が上宮王撰とされて「上宮記」と呼ばれるようになったのはいつ頃からか、三巻となったのはいつ頃からか、秘伝とされるようになったのはいつ頃からなのか、といった問題が出てきますね。

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