前回は、清水昭博氏を中心とする法隆寺関連遺跡の研究報告を紹介しました。清水氏は、同じ時期に科研費研究も進めており、その報告書も出ています。
清水昭博『日本古代尼寺の考古学的研究』
(平成29年度~令和3年度科学研究費補助金[基盤研究C]研究報告書 課題番号 17K03221、2022年3月。研究代表者:清水昭博)
です。構成は、以下の通り。
Ⅰ 本研究の目的と方法
Ⅱ 飛鳥時代の尼と尼寺
Ⅲ 近江國愛知郡の古代寺院運営とその背景
Ⅳ 中宮寺創建瓦と飛鳥の尼寺
Ⅴ 飛鳥時代の僧寺と尼寺
Ⅵ まとめ
Ⅶ 飛鳥時代尼寺関連資料参考文献
多彩な内容ですので、法隆寺に関連する部分だけ紹介しておきます。清水氏は日本の最初の出家は善信尼など3人の尼であって、彼女たちは以後の尼の指導者になったであろう、ということから話を始めます。推古32年(624)段階では、僧尼は1385人おり、そのうち尼が569人だったのであって、尼はかなりの数を占めていたのです。
しかし、早い時期の文献は尼寺に関する記述は僅かしかありません。そこで、清水氏は、善信尼の出身母体である渡来系の鞍作氏によって造営された尼寺である坂田寺の軒丸瓦の分布を検討することにより、古代における尼寺の状況探ろうとします。
坂田寺式軒丸は単弁八弁蓮華文であって、山田寺の瓦に近いものの異なりも大きく、祖型は吉備池廃寺(百済大寺)のものと見られる由。このタイプの瓦が出ている遺跡としては、奥山廃寺、片岡の尼寺廃寺(南廃寺・北廃寺)、紀伊の西国分廃寺・最上廃寺・北山廃寺、尾張の篠岡2号窯・東畑廃寺などがあります。
このうち、奥山廃寺は小墾田宮があった地の近辺にあり、その創建瓦は620年頃と推定されています。奥山廃寺の金堂は、東西23.4メートル、南北19.2メートルの大きさであって、四天王寺式伽藍配置であったことが知られており、早い時期の建立であることが分かります。
以下は略させていただき、聖德太子と関係深い中宮寺の瓦の検討を紹介します。
中宮寺が現在の場所、つまり法隆寺の東隣りに移ったのは16世紀のことで、もともとは現在の中宮寺より約400メーターほど東の地にありました。出土している瓦のうち古い軒丸瓦は、3Bb、4A、M1、M2であって、3Bb、4Aは若草伽藍の瓦の分類に基づきます。3Bbは、元は飛鳥寺のⅧであって、豊浦寺のⅡBを経て、前の記事で紹介した北倭村窯に瓦笵が移され、若草伽藍や中宮寺の瓦を焼いたのです。
一方、若草伽藍の4Aは、若草伽藍造営段階でその瓦笵が創作されたのであり、おそらく北垣内窯で生産された後、やや痛んだ瓦笵が楠葉平野山窯に移され、そこで四天王寺の瓦を造るために用いられました(このことは、以前、いくつかの記事で触れました。たとえば、こちら)。
斑鳩宮が建設されて太子が移ったのが推古13年(605)、宮と平行して建立作業が進められたであろう若草伽藍の造営年代は不明ですが、金堂薬師仏像銘が推古15年(607)に斑鳩寺完成としていますので、この年代を金堂完成の年と見て良いことになります。
ただ、3Bb、4Aは僅かしか出ていないため、創建中宮寺の瓦の主体は、豊浦寺式のM1と奥山廃寺式のM2ということになります。奥山廃寺の瓦の年代は620年前後と推定されているため、中宮寺の M2も同じ頃となりますが、これは太子の母である間人皇后が推古21年(621)に亡くなり、その宮を中宮寺としたという伝承と矛盾しません。
法隆寺では 3Bbや4Aに続き、620年代に 6Cや6Daなどの瓦を造っていきますが、創建中宮寺がそれを採用せず、豊浦寺や奥山廃寺の系統の瓦を用いたのは、この二つの寺が中宮寺と同様に尼寺であったためではないか、と清水氏は推測します。
そこで清水氏は、飛鳥寺と尼寺である豊浦寺が近い距離にあるのは、僧寺と尼寺は離して造営し、しかも鐘の音が聞こえるくらいの距離にするのが通例であって、百済の場合もそうなっている、と指摘した田村圓澄説を紹介し、飛鳥にもそうしたセットと見られる僧寺と尼寺があることに注意します。
飛鳥寺と豊浦寺、法隆寺と中宮寺、法輪寺と法起寺だけでなく、大和の片岡には、多くの瓦が共通する尼寺北廃寺と尼寺南廃寺があるとします。この「尼寺(にんじ)」というのは地名です。尼寺が長く存続していたことが地名となって残っているのです。ですから、両方とも「尼寺(にんじ)~廃寺」と呼ばれているものの、片方は僧寺であったと清水氏は推測します。
しかも、北廃寺と南廃寺の創建時の瓦は、尼寺である坂田寺の瓦と同笵であって、坂田寺→尼寺南廃寺→尼寺北廃寺の順で瓦は造られていますので、清水氏は、この両廃寺を、『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』に見える片岡僧寺と片岡尼寺と見ます。
清水氏は、尼寺だったと思われる大和の多数の遺跡、および各地の遺跡に関する氏自身の調査と、他の人たちの調査を紹介します。大和では片岡・金剛山麓・葛城山麓・二上山麓・奈良盆地東山麓・平城京・その他であって、畿内では摂津・山背であり、これ以外の地域では播磨、近江、紀伊、尾張、伯耆、出雲、備後、筑紫です。
摂津では、正道廃寺と久世廃寺のうち、正道廃寺の奥山廃寺式の瓦は、同笵の久世廃寺の瓦笵を原型として製作されたようであり、奥山廃寺は推古天皇の小墾田宮に併設して造営された尼寺である小墾田寺と推定されるため、久世廃寺は、推古天皇と結びつくことになります。
実際、舒明天皇即位前紀に見える栗隈采女黒女という名のうち、栗隈は久世郡の郷名であり、この地は天皇家と関わりがあるため、久世廃寺は栗隈氏が建立した尼寺であって、その420メートルほど横にある正道廃寺は、それと対となる僧寺であったと清水氏は推測します。
播磨では、西条廃寺と石守廃寺が僧寺と尼寺と見ることができるとします。西条廃寺は、法隆寺式伽藍配置ですね。
興味深いのは、早い時期の寺院跡が密集している近江です。ここは聖德太子建立と称する寺がいくつかあるところですね。このうち、滋賀県愛知郡愛荘町畑田の畑田廃寺と同郡愛荘町野々目の野々目廃寺は、この一帯を押さえていた依知秦公氏によって僧寺と尼寺として建立されたと見ます。
播磨も近江も法隆寺と関係深い地域ですが、上記の地域のうち筑紫については、畿内と違って6世紀後半から7世紀半ばの寺院跡やその頃の古い寺院用の瓦はまったく発見されていません。
文献でも、尼寺については、『続日本紀』大宝元年(701)8月甲辰条に「観世音寺筑紫尼寺」と見えるだけです。このため、清水氏は、筑紫尼寺は天智天皇が亡き母のために発願して造営した太宰府の観世音寺に付随する尼寺と見られるとする長谷川彰氏の説を是認します。
寺院については、推古朝末期には46あったとされていましたが、『扶桑略記』によれば、飛鳥時代も終わりに近い持統6年(692)には、545箇所有ったとされており、急激に増えたことが知られます。
実際に、全国では飛鳥時代頃の寺院跡と推測される遺跡が600以上確認されていますので、この545という数字は根拠があると清水氏は説きます。ただ、そのうち尼寺であることが確定したのは数十箇所しかないため、以後も調査する必要があると説いて、清水氏はしめくくっています。