聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

若草伽藍の瓦と、すぐ近くの平隆寺の瓦を焼いた窯跡を調査:清水昭博『聖德太子関連遺跡の研究』

2022年12月13日 | 論文・研究書紹介

 前回は、若草伽藍・再建法隆寺の地形調査の報告でしたので、今回はその瓦を焼いた窯跡に関する最新の報告にしましょう。文献を「漢文の語法・文体の違いに注意しつつ文章として読む」ということができず、気になる箇所だけとりあげ、推測を重ねてこねあげた虚構説と違い、聖徳太子に関する現在の学界の研究は、このように細かいところにまで至っているのです。

帝塚山大学奈良学総合文化研究所編『聖徳太子関連遺跡の研究 : 法隆寺創建瓦生産窯の調査』(帝塚山大学考古学研究所、2020年)

です。

 これは多くの協力者に支えられた調査研究ですが、研究を主導し、報告を執筆したのは、古代の瓦に関する代表的な研究者の一人である帝塚山大学考古学研究所所長の清水昭博氏(清水氏とは東大寺のシンポジウムでお会いしたことがあります)。

 この報告書は、文科省の私立大学研究ブランディング事業に帝塚山大学が申請して採択された「『帝塚山プラットフォーム』の構築による学祭的「奈良学」の研究」の成果報告です。このブランディング事業は、なんとも曖昧なものであったうえ、文部官僚たちの汚職騒ぎによって短縮されて終わるという、ひどい企画でした。私が在職していた駒澤大学でも応募して採択されたのですが……(もごもご)。

 それはともかく、帝塚山大学奈良学総合文化研究所は、採択されて配布された助成金によって、若草伽藍の創建瓦が発見されている生駒市高山町の倭村山田地区と生駒郡三郷町勢野家東の北垣内地区を調査したのです。前者にあったであろう窯を北倭村窯、後者にあったであろう窯を北垣内窯と呼びます。後者の地区は、法隆寺と関係が深い平隆寺の近くですね。

 ここで紹介するのは、報告書のうち、「3. 法隆寺創建瓦生産窯の調査、4.まとめ 5. 考察:聖德太子と古代の三郷」 の部分です。

 若草伽藍については、建物ごとに異なる瓦が用いられていたことが知られています。金堂では 3Bbと4Aという2種類の軒丸瓦が用いられており、前者は飛鳥寺や豊浦寺の瓦と同笵、後者は四天王寺や中宮寺の創建瓦と同笵であることが分かっています。

 まず、3Bbの瓦が発見された山田地区は、若草伽藍の北にあたる大和郡山市を越えてさらに北に位置しています。この地区は、出土破片から見て瓦と陶器を兼業で焼いていたと推定されており、今回は、出土物を調査するだけでなく、ドローンも使って地形調査もした由。

 すると、土器の細片や陶磁器などの僅かな遺物が発見されただけでしたが、この地区は窯を作るのに適した丘陵斜面があり、斑鳩とは直線で12.6キロも離れているものの、すぐ側の富雄川を利用すれば交通は容易であることが分かったそうです。

 次に、斑鳩の西側に位置する三郷町北垣内地区では、4Aに似た瓦が発見されていますが、この瓦はこの側の平隆寺、およびそのやや東の八幡堂跡からも発見されており、この地の窯で焼かれた瓦が、若草伽藍と斑鳩周囲の寺に供給されたことが推測されます。この三郷の地の場合も、瓦窯を造るに適した丘陵斜面が存在していた由。

 この地の中心となる平隆寺は、法隆寺から約3.5キロしか離れておらず、平群寺とも呼ばれていることが示すように、この地は平群氏の支配地でした。平群氏では、用明朝から推古朝にかけて平群神手と宇志が大夫として国政に参画しており、神手は馬子に加わって守屋合戦に参加し、宇志は冠位十二階の小徳を授けられ、聖德太子が没した翌年の推古31年(623)には、征新羅副将軍に任じられています。

 平隆寺については、若草伽藍や四天王寺と同様の四天王寺式伽藍配置になっていたことが分かっており、沢山の瓦が出土しています。そのうちには、飛鳥寺の星組系の瓦も含まれており、これは若草伽藍や創建中宮寺の瓦と同笵のものです。

 このため、最初期の造寺の一つということになります。ただ、この型は数が少ないため、清水氏は、最初は小さな仏堂程度だったものと推測します。そして平隆寺の北方には飛鳥時代の窯跡が集中して存在するため、若草伽藍の瓦も北垣内窯、つまりこれらの瓦窯のうちのどれかの窯で焼かれたと推定します。

 この辺りからは、7世紀初頭の須恵器や、飛鳥寺の創建瓦の星組系の技術で作られた丸瓦も出土しているため、清水氏は、この窯での操業は7世紀前半にさかのぼると見ます。古代の三郷の窯が、若草伽藍や中宮寺に瓦を供給する中枢となっていったと見るのです。

 ここからは私の推測ですが、守屋合戦に際して馬子・太子側で戦った氏族が早い時期に寺を建てていたことは重要と思われます。守屋合戦は、大王後継をめぐる抗争その他の争いの面も強く、『日本書紀』が伝えるような仏教受容をめぐる争いでなかったことは、近年明らかになっていますが、だからといって、仏教推進の動きとまったく無関係だったとは言えないでしょう。

 そのうえ、推古天皇による「仏法興隆」の方針に基づき、百済の工人たちの最新技術によって馬子の法「興」寺と、太子の法「隆」寺が造営され、その法隆寺にほど近い地に平「隆」寺が造営されたというのは、この当時の権力の所在、その権力と仏教の密接な関係を示していて興味深いですね。

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