2006年フランスの旅より
南仏、エグザンプロヴァンスにあるセザンヌのアトリエがコースに入ったツアーは多いが、その少し上にあるヴィクトワール山を描いていた場所まで行くことは少ない。
パリのサロンで落選し続け、印象派の友人たちとも距離を置くようになった四十歳ごろのセザンヌは故郷の山を好んで描くようになった。
油彩だけでも三十点以上が残されているのだそうだ。
この場所から描かれたと思われる作品がずらりと並んでいる。
画家になることを認めてくれなかった厳格な父が亡くなってその財産を相続するまで、セザンヌは厳しい経済環境におかれていた。↓このアトリエも父の遺産があったから購入できた。
最晩年の五年、自分の理想とする制作環境を得られたのは幸いだった。
1906年、六十七歳の彼がここの近くで写生をしていて大雨に遭い、それがもとで亡くなったのだとしても。
*
内部は撮影禁止。
二階のアトリエは天井が高く、北向きの大きな窓が開いている。
巨大なキャンバスもそのまま搬入できる構造。
百年前だが、ついきのうのように、モデルにつかっていた小道具が今もそのままころがっている。
有名な(ゾラが持ってきたという)リンゴも籠にあるが、これは新しいものを置いている。
今もセザンヌが制作を続けているような雰囲気がある。
実際・・・ここは今もセザンヌが居るという話があって、小松がお連れした方がトイレを使っているときに「どこからか居るはずのない老人のフランス語が聞こえてきた」と話されたことがあった。
ここから十五分ぐらい坂を下りると大聖堂のある旧市街。
街中には厳格な父がやっていた帽子屋、通った学校など、ゆかりの場所がたくさん残る。
「セザンヌの道」という観光ルートが用意されていて↑この印を追っていけば迷わずに見学してまわることができる。
南仏、エグザンプロヴァンスにあるセザンヌのアトリエがコースに入ったツアーは多いが、その少し上にあるヴィクトワール山を描いていた場所まで行くことは少ない。
パリのサロンで落選し続け、印象派の友人たちとも距離を置くようになった四十歳ごろのセザンヌは故郷の山を好んで描くようになった。
油彩だけでも三十点以上が残されているのだそうだ。
この場所から描かれたと思われる作品がずらりと並んでいる。
画家になることを認めてくれなかった厳格な父が亡くなってその財産を相続するまで、セザンヌは厳しい経済環境におかれていた。↓このアトリエも父の遺産があったから購入できた。
最晩年の五年、自分の理想とする制作環境を得られたのは幸いだった。
1906年、六十七歳の彼がここの近くで写生をしていて大雨に遭い、それがもとで亡くなったのだとしても。
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内部は撮影禁止。
二階のアトリエは天井が高く、北向きの大きな窓が開いている。
巨大なキャンバスもそのまま搬入できる構造。
百年前だが、ついきのうのように、モデルにつかっていた小道具が今もそのままころがっている。
有名な(ゾラが持ってきたという)リンゴも籠にあるが、これは新しいものを置いている。
今もセザンヌが制作を続けているような雰囲気がある。
実際・・・ここは今もセザンヌが居るという話があって、小松がお連れした方がトイレを使っているときに「どこからか居るはずのない老人のフランス語が聞こえてきた」と話されたことがあった。
ここから十五分ぐらい坂を下りると大聖堂のある旧市街。
街中には厳格な父がやっていた帽子屋、通った学校など、ゆかりの場所がたくさん残る。
「セザンヌの道」という観光ルートが用意されていて↑この印を追っていけば迷わずに見学してまわることができる。