ジジババのたわごと

孫たちさらにその孫たち世代の将来が、明るく希望が持てる時代になってほしい。

野球特待制度にドロナワ処分

2007年05月13日 | Weblog
高校野球で特待生がそこらじゅうに蔓延しているものだから、高野連が驚いて、「1年間の謹慎処分」としていた当初の強い姿勢を引っ込めて、処分を緩和することにしたようだ。
今回の処置は、現実的な解決策とも考えられるが、朝令暮改の印象だし、姿勢があやふやだ。
予想以上にあちこちの学校でやっているからということで、処分を変えるというのはいただけない。一部の学校だけだったら、どう処分したのだろうか。

昨年暮れに騒がれた、「学習指導要領カリキュラムの履修不足問題」を思い起こさせる。
あの履修不足問題のときも、責任の所在と処罰はウヤムヤのうちに終わった。 

今回発覚した高校野球も “規則違反に対する処分” と “特待制度を将来どうするか” ということがごちゃごちゃにされている。 区別して考えるべきであろう。
高校野球にかかわる人の多くは、特待制度が規則に違反していたことを知っていたであろうと推測する。ただし、車のスピード違反と同じように、さほど重大なこととして受け止めていなかったのであろう。

特待制度を将来どうするかは、「実力ある者が優遇されるのは当然だ」 とする考えと、「高校野球は教育の一環」 という面から整理すればよいので、それほど難しいことではない。
スポーツに限らず、頭脳に秀でたもの、芸術に才のあるものなどが特別に優遇されることは、世界的な傾向で違和感なく通用している。
スポーツでも他の競技では、特待制度を容認しているし、なぜ野球だけが認められないのか、という疑問が当然出てくる。
プロのコーチから指導を受けて、世界大会に出場しているのが現実だ。
そんな傾向のなかだから、近い将来、高校野球も特待制度を容認することになるだろうと想定できる。

さて、今回高野連が出した ― “来年からは特待制度を許さないが、今年は救済措置を講じて処罰を緩める” という結論は、ドロナワの感が否めない。
“規則を改定して次年度から特待制度を認めることにするので、今回の特待生には寛容な措置をする” というのならまだ脈絡があるのだが・・・。
高野連は甲子園の野球大会を、“教育の一貫” として位置づけてきた。表向きという面がなきにしもあらずだが、その考え方を前面に出していた。
あまりにも規則違反が蔓延していると知って、タテマエを貫いて処分できなかったということか。

ところで、高野連が今後も、「学費、生活費、金品を受けることができない」という精神を貫こうとするのであれば―  “高野連が主催する野球大会には、特待制度の選手は出場させない” として処分したほうが、明快で筋がとおる。 
学校長や野球部長、それと監督は責任をとるべきだろう。 そのひとつの形が出場停止だ。
それによって大きな問題が生じることはないと考えてよい。
経済的な不都合が生じる特待生に対しては、学校が責任をもって奨学金などの経済的な措置をとるようにするのがよい。転校でもよい。 いずれにしても、救済する責任は違反をしていた学校が行えばよい。

たしかに高校球児にとって、甲子園大会は花であり、最も大きな目標であるのは事実だ。
けれども、甲子園への道が閉ざされたからといって、野球の道が全て閉ざされるわけではない。ほかの大会や、練習試合ができればよい。
プロ側へアピールする機会が狭まるだろうが、そもそもプロ選手として送り出すという観点はないのだから・・・。
それに、本当に実力のある選手はプロ側が見逃すはずがない。

生徒に責任がないのだから、生徒に出場停止のしわ寄せがいかないようにすべきという声が沸きあがった。 一理ありそうだし、人情味があるようだが・・・。
競技に出場した選手がドーピングで引っ掛かった場合、たとえ本人が意図してやったことでなく、何か偶発で起きたことであったとしても、知らなかった、全く意識がないでは済まされない。
ほかの事でも、知らなかった、では処罰を免れないのが通常だ。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿