福島原発事故では、明らかに情報の発表を抑えている形跡があった。 東電、政府の官房長官、経産省原子力安全・保安院の発表がちぐはぐだったり、明らかに知っているのに隠していると感じる場面もあった。 その裏には、発信元の東電に恣意的な情報の加減があったからと考えられる。 外部に知られると面倒なことになる情報は、とにかく外部へ出さないように東電内部で伏せられていた、と読んだほうが妥当だ。 今起きている現実を何とか小さく伝えて、その間に大事にならない程度まで収束させて・・・という思惑が、情報遅れ、つまりは情報操作につながったのだと思う。 それらのことによって、判断が鈍り、次々に悪いほうへ進行して危機的な状況になってしまった。 裏目に出てしまったと言えそうだ。東電は厳しく非難されるに違いない。でも弁明はできない。 ところでどうだろうか。 「自分の会社はなにかあった時、初期の段階からオープンに情報を出す」と自信を持って言える人がいるだろうか。そういう会社はごくごく少ないに違いない。 たとえば製造工場、建設工事、運送業、病院、小売業、あるいは官庁などで、本店から離れた事業所を想定してみる・・・。 大事故が起きたときとか、人命に係わる不手際が起きたとき、あるいはトラブルを起こし社会的波及によって大きな影響が出ることが間違いないとき。 事故やトラブルを起こしたのが支店などであった場合は、自分たちでは判断できずに本店の指示を仰ぐ。 しかも会社のイメージを損ねないように、社長の体面を傷つけないようにと、思いをめぐらせながら・・・。 どの会社でも東電と似たようなことになるのでないだろうか。 福島原発の現場では、次々に起こる原子炉設備の異常に戸惑いながら、技術的なことも含めて本店などと諸々のやり取りをしていたものと推測できる。 そのほかにも監督官庁の産経省、県や市町村、消防・警察ほか官庁関係への報告も求められる。 とりわけ、マスコミ関係の対応には神経を使ったはずだ。 東電としては、巨大事故を指摘する声に対して、「原発は絶対安全だ」と宣伝してきた。 日本では重大事故を起こしていないし技術者も優秀だから、絶対にチェルノブイリやスリーマイルのようなことにはならないと「安全神話」を声高に吹聴してきた。 それだけに、「放射能が外部に漏れだす心配がある」という一線を破る発表をすることには、大いにためらったのだと思う。 「放射能漏れ」という防波堤が破られるのでさえ一大事なのに、ましてや「炉心溶融」などということは、天地が引っくり返っても認めたくなかったであろうことは容易に想像がつく。 進行している事態を説明する際に、現在確認がとれている事実、 確認できていないが可能性として十分考えられること、 さらに進展したときに考えられるケース、について端的に簡潔に語ることが求められる。 雑多の情報から的確に峻別して、正確に迅速に発表するのはなかなか悩ましい問題を抱えているのだが、隠すというのは輪をかけて不信感を募らせる。 今回の事故では、テレビなどで説明する学者達の多くが、「これ以上は悪化しない。放射能も心配ない」と、今起きている客観事実よりも、どうにかして小さく見せようとする意図が感じられた。 「こうなって欲しい!」という、自分の願望で解説するような御用学者の印象さえあった。
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