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犯則と処遇(連載第30回)

2019-02-08 | 犯則と処遇

24 思想暴力犯について

 特定の思想・信条を持つこと、あるいはそうした思想・信条に基づいて表現活動をすることを犯罪とみなすことはしないという原則は民主主義の鉄則として承認されつつあるが、国家権力は非寛容さを本質とするため、この鉄則が完全に守られている国は稀少であり、世界で多数の「良心の囚人」がなお獄中にある。

 「良心の囚人」を輩出しないための究極的な策は国家権力の廃止と国家権力によらない社会運営の仕組みを構築することにあるといって差し支えないが、たとえ国家権力を廃止したとしても、「犯罪→刑罰」体系が残される限り、犯罪的と指弾されるような思想・信条の持主を何らかの刑罰規定に仮託する形で「良心の囚人」に仕立てることはできるかもしれない。
 これに対して、「犯則→処遇」体系によれば、単に特定の思想・信条に基づいて何らかの平穏な表現活動をしたというだけで矯正や更生のための処遇を必要とするということは想定できないから、いっそうクリアに「良心の囚人」は否認されるのである。

 一方、近年は特定の思想・信条を実践するために暴力行為に出て積極的に社会不安を作り出すことを「テロリズム」と名指して、厳格な取締り対象にしようとする政策も世界的に共有されるようになっている。
 たしかに「テロリズム」の実践者である「テロリスト」は、何らかの暴力行為に関与する以上、平和的な「良心の囚人」とは異なる。そうだとしても、「テロリズム」とは本質上法的に定義不能な概念である。諸国では相当に苦心して「テロリズム」の法的定義を試みている例もあるが、完全に成功しているものはない。

 「テロリズム」という概念はしょせん政治的な名辞であって、特定の犯罪事象を「テロリズム」と名指すこと自体が一つの政治的な行為なのである。
 ちなみに、近年は「サイバーテロリズム」のように、インターネットを通じて電子的攻撃を仕掛けるような行為まで「テロリズム」と名指すことが一般化しているが、このような概念の拡張は語源的にテラー(terror:恐怖)に由来するテロリズム(terrorism)の語義からもはみ出す政治的な拡大解釈である。

 このように論ずることは、一般に「テロリズム」と名指される事象を放置すべきことを意味するのでないことはもちろんである。一定の社会とその機構を破壊することを目的とするような暴力行為は、破壊活動として取り締まりの対象とされる。
 この種事犯の多くは組織的に実行されるが、社会秩序全般を破壊するという点では、通常の組織犯とは異なる対策が必要となり、特別法としての破壊活動取締法が必要となる。

 破壊活動取締法では、特に破壊活動を計画・実行する組織の活動規制に重点が置かれ、司法的な手続きを経ての強制解散や資産没収、再結成の禁止などの措置が盛り込まれる。さらには、破壊活動団体の監視や情報取集などの未然防止策も必要である。
 こうした措置は、思想・信条の自由、さらには結社の自由を侵害する恐れと隣り合わせであるので、司法手続きは特に公正に実施されなければならない。

 破壊活動に限らず、およそ何らかの思想・信条に基づき暴力行為に出る者を「思想暴力犯」と呼ぶことができるが、こうした思想暴力犯の処遇に関しては、その犯行動機に何らかの政治的または宗教的な信念が直接に関わっていることから、微妙な留意点がある。
 それは、対象者にいわゆる「転向」や「改宗」を強制ないし誘導するような処遇は許されないということである。そのため、思想暴力犯に対する矯正処遇に当たっては、対象者の思想・信条の内容と手段として選択された犯則行為とを切り離し、手段として選択された犯則行為に焦点を当てた処遇を課さなければならない。

 そうすると、結果として、その処遇内容は一般的な暴力犯に対する処遇と重なり合ううところが多いだろう。ただし、思想暴力犯は反社会性向は認められても、病理性は認められない者がほとんどであるから、第三種矯正処遇に付すべき場合はほぼないと考えられる。

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