ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

農民の世界歴史(連載第38回)

2017-04-10 | 〆農民の世界歴史

第9章 アメリカ大陸の大土地制度改革

(5)南米諸国の状況

 南米諸国も総体として大土地所有制がひしめいてきたが、農地改革の形態や進展度は国により様々である。ここではそのすべてを取り上げることはできないため、いくつかの代表的事例を挙げて概観するにとどめる。
 まず、南米地域ではメキシコやキューバのように革命を契機に国有化を軸とした農地改革が持続的に断行されたケースは見られない。例外として、南米唯一の英語圏に属する小国ガイアナで1970年代に製糖産業の国有化が実行された程度である。
 南米で比較的成功した農地改革は、端的な農地の再分配による自作農の創設というオーソドクスな形態のものである。中でも1952年から64年にかけてのボリビアは革命を契機としつつも、合法的な選挙によって形成された左派・革命的民族主義運動(MNR)の政権が農地改革を実行するという南米でも稀有の事例である。
 このMNR体制は64年にアメリカが糸を引く軍事クーデターで転覆されたが、農地改革の成果は保持されたため、その後ボリビア入りしたキューバ革命の共同指導者チェ・ゲバラの共産主義ゲリラ活動も農民層からは支持されることなく、反共軍事政権の掃討作戦渦中でゲバラが殺害される要因ともなった。
 さらに、ペルーで1968年軍事クーデターにより成立したべラスコ政権は軍事政権の枠組みながら社会主義に傾斜し、農地改革を断行した点で南米稀有の事例である。べラスコは先住民の権利を擁護するとともに、先住民=農民への農地分配を進め、「44家族国家」と揶揄された寡頭地主支配を上から解体した。
 しかし「ペルー革命」とも称された社会主義的な経済政策は成功せず、75年、病身のべラスコは軍部内右派によるクーデターにより失権した。さらに農地改革の恩恵を充分受けられなかったアンデス僻地貧困地域の農民は 後に毛沢東主義を標榜する武装ゲリラ活動の拠点とされるが、これについては次節で改めて言及する。
 一方、南米最大国ブラジルでも農地改革の動きがないではなかったが、その歩みは遅い。1960年代、クーデターで成立した軍事政権下で土地法が制定され、国家入植農地改革院が中心となって農業改革が進められたが、その重点は機械化などの合理化にあり、土地の再分配ではなかった。結果として、ブラジルでは大土地所有構造が温存されていく。
 紆余曲折をたどったのは、チリである。チリでは1960年代にまず穏健な再分配型の農地改革が開始され、70年に選挙で成立した成立のアジェンデ社会主義政権下ではより急進的な農地接収と国営農場の創設が目指されたが、アメリカが糸を引く73年の軍事クーデターはこうした社会主義化を反転させ、軍事政権は実験的とも言える市場主義改革に舵を切った。
 接収農地の返還が順次行なわれ、土地取引の自由化政策により農地市場が創設された。これに通じて、農業部門への資本企業の参入が促進されたのであった。その結果、チリ農業は世界に先駆けて農業企業を主軸としたアグリビジネスへの転換が進んだのである。
 チリでは「農民」はもはや消滅したというわけではないが、小規模農家として生き残った層を除き、農業市場化過程で農地を手放した土地無し農民は農業企業に雇われる賃金労働者に転化された。こうしてチリはまさにマルクス『資本論』が解析した農業の資本主義化プロセスの範例を示している。

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農民の世界歴史(連載第37回)

2017-03-29 | 〆農民の世界歴史

第9章 アメリカ大陸の大土地制度改革

(4)キューバ革命と農民

 キューバの独立はラテンアメリカでも最も遅れ、スペインが米西戦争で敗れた後の1902年のことであった。しかしこの「独立」は形だけのものであり、実態としてはアメリカの属国に近い状態に置かれた。
 スペイン支配時代のキューバは元来、砂糖栽培プランテーションの拠点であり、19世紀には世界最大の砂糖生産地となっていた。しかし「独立」後はアメリカ資本が進出、製糖を初めとする主産業を支配するようになる。
 中でも、ユナイテッド・フルーツ社の構造搾取がキューバにも及んできた。同社は19世紀末、合併により創業され、1930年代にユダヤ系実業家によって買収された後も、主としてラテンアメリカ諸国でプランテーション栽培されたバナナを主力とする果物の販売を手がける商社的な企業であった。
 同社は20世紀初頭以降、ラテンアメリカやカリブ海域の広大な範囲を商圏に収めつつ、アメリカ政府とも密着しつつ、これらの地域をアメリカの従属下に置くうえで重要な役割を果たした準国策会社であり、言わば「東インド会社」ならぬ「西インド会社」のような存在であった。
 とりわけ1940年代、中米のグアテマラでは軍事政権と結託しつつ広大な農地を収得してバナナ栽培を支配した。しかし1951年に当選した左派軍人のハコボ・アルベンス・グスマン大統領が大規模な農地改革に着手すると、アメリカは右派軍人らを動かしてクーデターを強行、アルベンスを追放した。この策動の狙いの一つは、ユナイテッド・フルーツ社の権益護持にあった。
 一方、キューバでも1940年代から実質的な独裁者として支配した親米派フルヘンシオ・バティスタの下で、ユナイテッド・フルーツ社が砂糖栽培を支配するようになっていた。こうしたアメリカの政治経済支配への抵抗として武装蜂起したのが、フィデル・カストロらの青年革命家たちであった。
 59年の革命後、カストロ政権が最初に着手したのは農地改革であった。これにより、当時農地の70パーセントを支配していたユナイテッド・フルーツ社の権益が一挙に失われようとしたことは、アメリカを激怒させ、グアテマラの先例にならった政権転覆工作に走らせた。
 しかしカストロ政権は親ソ連に傾くことでこれを乗り切り―その過程で発生した米ソ核戦争危機については本稿論外として割愛する―、社会主義体制を確立していった。
 このキューバ社会主義体制は基本的にソ連にならったものではあったが、農地改革に関してはソ連あるいは中国のような強制的な農業集団化を志向しなかった。その代わり、農地の80パーセントは国有化され、残りが協同組合及び自作農の農地とされたのである。
 このような国営農場主体の農地改革は比較的狭小な島国で、元来から大規模プランテーションが盛んだった典型的な旧植民地キューバで社会主義的な農地改革を実行するうえでは、最も現実的な選択肢であったのだろう。ただし、国営農場は次第に限界を露呈し始める。
 中央管理された国営農場の農民は「農民」というより労働者であり、しかも低賃金であった。当然、生産性も低く、当初はソ連の援助で維持されるも、頼みのソ連が解体消滅すると、持続は困難となった。結局、93年の農業改革により国営農場は実質解体され、新たな協同組合農場に取って代えられることとなる。
 ちなみに、ユナイテッド・フルーツ社は1984年以降、社名をチキータ・ブランドと変え、経営主体を転々としながら、依然としてバナナを主力とする食糧農業資本として存続している。

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農民の世界歴史(連載第36回)

2017-03-28 | 〆農民の世界歴史

第9章 南北アメリカの大土地制度改革

(3)メキシコ革命と農民

 19世紀前半、周辺諸国とともにスペインからの独立を果たしたメキシコでも、独立運動は自身もアシエンダ農場主であるクリオーリョによって主導された。独立後のメキシコ帝国初代皇帝となった軍人アグスティン・デ・イトゥルビデ(アグスティン1世)もそうした一人であった。
 もっとも、19世紀後半には債権国列強の属国状態からの自立化に貢献した先住民系農民出自のベニート・フアレス大統領が出て進歩的な改革を試みた。フアレスは畑の見張りや下僕から身を起こして法律家となった立志伝中の人物であったが、その改革政策の内実はブルジョワ民主主義的なものにとどまり、農地改革には切り込めなかった。
 そのフアレスが道半ばで急死した後は政治経済の反動化が進み、1876年にはポルフィリオ・ディアス将軍がクーデターで政権を奪取し、以後断続的に30年に及ぶ独裁体制を敷いた。ディアス体制の農地政策はアシエンダをいっそう拡張する反動的なものであった。
 彼は19世紀半ばのアメリカによる侵略戦争で領土を割譲した結果、農場を失ったアシエンダ農場主たちを慰撫するため、アシエンダ拡張を推進したが、その際、近代的な土地登記制度を制定し、先住民の伝統的な共同体農地を接収、アシエンダ農場に売却する方法で先住民の土地を収奪した。それは農民のほぼすべてが土地を喪失するほど徹底した収奪政策であった。
 これ以降、農民たちにとっては奪われた土地の回復が民族的課題となる。ディアス体制はそうした農民運動を弾圧したが、これに対し新興農場主層に出自した元ディアス支持派のフランシスコ・マデロが反旗を翻し、ディアス独裁体制打倒の狼煙を上げた。これが1910年以降、10年にわたって続くメキシコ革命の端緒となる。
 ただ、メキシコ革命における農民の立場は微妙であった。革命初期に大統領となったマデロは表向き農民寄りの姿勢を示したが、元来保守的な農場主出自であり、就任後は守旧的立場を採ったため、農民層を代表していた革命家エミリアーノ・サパタと対立した。
 実はサパタも農場主出自だったが、先住民との混血メスティーソであり、先住民への共感があり、早くから先住民の土地回復支援運動に取り組んでいた。革命勃発後は「土地と自由」の理念に基づき、農民の土地回復を謳う綱領を掲げる左派として台頭していた。
 この「土地と自由」は直接には同時代メキシコの代表的なアナーキストであったリカルド・フロレス・マゴンに影響されたものとされるが、「土地と自由」はロシアのナロードニキの理念とも重なる。サパタの思想はひとことでは規定できない複雑なものであるが、社会主義というよりはアナーキズムであり、彼が革命左派を代表した結果、メキシコ革命は総体として社会主義革命としての性格が希薄なものとなった。
 ともあれ、サパタは革命渦中で保守的なマデロ、そのマデロを打倒した反革命派に対して武装闘争を展開したが、左派排除を狙う中道派の計略により殺害されてしまう。しかし、サパタ綱領の精神は革命を収拾した中道派ベヌスティアーノ・カランサ大統領が主導した新憲法に反映されることとなった。
 カランサ政権は農地改革の支柱としてエヒード制を導入した。エヒード制は土地の無い農民と地主の間を政府が仲介し、政府が収用した農地に相続可能な耕作・収穫権を設定するという社会主義的な国有農場と伝統的農地共有制の中間のような制度であった。
 とはいえ、当初はこれとて遅々として進まなかったが、革命終息後10年以上を経た1934年に大統領に就任したラサロ・カルデナスの下で、総面積2000万ヘクタールに及ぶ農地のエヒード化が推進された。
 この制度は政府の仲介過程での汚職や不法なエヒード売買などの不正行為の元ともなり、1992年の憲法改正により実質廃止されるが、それまではメキシコ革命を終息させ、一党優位体制を確立した制度的革命党の基本政策であった。
 なお、エヒード制廃止と農地私有化は新たな農民問題を生み、再びサパタの精神が参照され、彼の名を冠した農民蜂起を呼び起こすのであるが、これについては最終章で改めて取り上げることとする。

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農民の世界歴史(連載第35回)

2017-03-15 | 〆農民の世界歴史

第9章 南北アメリカの大土地制度改革

(2)ラテンアメリカの半封建的大土地制度

 スペインとポルトガルの侵略・植民によって形成されたラテンアメリカでも、当初は黒人奴隷がプランテーション労働力として使役されたが、奴隷制プランテーションはブラジルを除けば、定着しなかった。それはスペイン領で黒人奴隷が導入されたのは先疫病などで激減した先住民奴隷の代替手段であったところ、18世紀頃になると、先住民数が回復し始めたためであった。
 そうしたスペイン領―ラテンアメリカの大半―では、アシエンダ制と呼ばれる大土地所有制が立ち現れる。これは北アメリカでは絶滅対象でしかなかった先住民(インディヘナ)を主要な労働力として使用する農場経営の形態であった。
 その起源はいったん激減したため無主となった先住民の伝統的保有地をスペイン当局が改めてスペイン入植者に恩貸地として与えた一種の封土に由来するため、アシエンダ地主は裁判権・警察権まで掌握する封建領主的な存在となった。
 従って、その構造はプランテーションよりは中世の荘園に近い旧式のものであり、農奴的な零細小作人に耕作が委ねられた小作地と農業労働者を使用する直営地とから構成されていた。ただし、地主は現地不在のことが多く、いわゆる寄生地主的である点では近代的地主制度に近い面も備えるなど、複雑で過渡的な構制を持つ制度であった。
 19世紀に独立運動を担ったラテンアメリカ生まれの白人(クリオーリョ)らの多くもアシエンダ地主であったから、彼らが築いた独立諸国においてもアシエンダ制は当然温存され、近現代のラテンアメリカ農業経済の基層を成すこととなった。それは白人系の地主階級と先住民系の農民階級というかなり鮮明な階級格差構造を諸国に形成する要因となった。
 一方、ブラジルでは先住民が広大なアマゾンの密林で文明未接触の伝統生活を送っていた特殊性から、先住民を労働力として動員することが困難であったため、19世紀末までアフリカのポルトガル植民地から移入した黒人奴隷を使役する北アメリカ型のコーヒー栽培プランテーション(ファゼンダ)が構造化された。
 ファゼンダは奴隷制がようやく廃止された後も、改めて南欧やアジアから徴募した契約労働者を使用する形態に移行してなおも持続していった。ただし、ファゼンダにおいても地主は私的な裁判権・警察権を留保する封建領主的な性格を保持していた。
 こうしたラテンアメリカの大農場は19世紀後半以降、順次近代的プランテーションに更新されていくが、その階級的構造が本質的に変わることはなかった。そのため、20世紀に入ると、いくつかの国では革命ないしは革命に近い非常措置の形で強制的に改革の手が入るようになる一方、守旧勢力やその後ろ盾に座ったアメリカの妨害・反撃により失敗に終わるケースも少なくなかった。

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農民の世界歴史(連載第34回)

2017-03-14 | 〆農民の世界歴史

第9章 南北アメリカの大土地制度改革

(1)北アメリカの奴隷制プランテーション

 広大な未開拓地が広がっていた南北アメリカ大陸では、全般に大土地所有制が定着しやすい傾向にあった。わけてもアメリカ合衆国は元来、開拓農民として入植した白人農場主が主導して建国されたとも言ってよい国であった。これら農場ではアフリカから移入された黒人奴隷を労働力として使役することが常態化していた。
 従って、アメリカ合衆国の建国はそれ自体がブルジョワ革命の一環でありながら、フランス革命が農奴解放を実現したようには、黒人奴隷解放は実現しなかったのである。とはいえ、建国以来リベラルな気風の強い北部諸州では19世紀初頭以降、順次奴隷制廃止が実現したが、南部諸州は奴隷制維持に固執していた。
 そのわけは、先住民(インディアン)を絶滅対象とし、労働力化しなかった北アメリカにおいて、南部諸州における主産業であった綿花栽培プランテーションでは奴隷労働力が不可欠であったからである。この南部プランテーションは19世紀に入ると、先住民の虐殺・強制移住により侵奪した土地の開拓により広大化していったため、いっそう奴隷労働力に依存するようなっていたのである。
 こうした農場奴隷は中世の農奴とは異なり、農場主によって所有され、売買もされる財産としての文字どおりの奴隷であり、その点では古代奴隷制の復刻版―再版奴隷制―とも言うべきものであった。かれらは労働搾取とともに女性は性的搾取にもさらされた。そして逃亡は奴隷警邏隊により抑止、処罰されるという過酷なものであった。
 なぜこのような粗野な反動的制度が近世の「新大陸」北アメリカで発現したのかは歴史の謎であるが、奴隷主=農場主となった白人開拓民たちの多くは英国を中心とした「旧大陸」ヨーロッパの無学な貧農・中農出自の移民であったことが関係しているかもしれない。
 ともあれ、19世紀半ばの合衆国は奴隷制廃止州=自由州と奴隷制護持州=奴隷州とに事実上分裂していく。1854年のカンザス‐ネブラスカ法は両者の妥協を図り、奴隷制の存廃を州の権利に委ねたが、これに反発して結党されたのが共和党であり、それを代表する人物がエイブラハム・リンカーンである。
 リンカーン自身も、ケンタッキー州の裕福な農場主一族の息子として生まれたが、自身はリベラルな法律家として反奴隷制論者となった。そんなリンカーンが大統領に当選したことは南北分裂を決定的にした。その後の南北戦争の経過は本稿論外となるため省略するが、この内戦で北部が勝利したことはアメリカ合衆国における奴隷制廃止を決定づけた。
 とはいえ、それは法的な廃止にとどまり、突如解放され、合衆国市民の資格を与えられた黒人たちに自活の経済基盤は何もなく、かれらは旧奴隷主の農場主の下で農奴的な小作人として貧困と人種差別にあえぐほかなかった。
 かくてアメリカ合衆国の奴隷制プランテーションは終焉し、近代的な大土地制度に姿形を変える。これはさらに第二次大戦中、農業労働力不足に直面したことを契機に、隣国メキシコの契約労働者を使用する形態の集約型家族農業に形態を変えていくことになる。その流れは戦後、公民権運動による黒人の第二次「解放」を経て定着する。

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農民の世界歴史(連載第33回)

2017-02-28 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(6)人民公社と農村生活

 抗日戦争と国共内戦を乗り切った中国共産党は1949年、毛沢東の指導下に中国大陸本土を制圧し、全国的な政権樹立に成功した。そこまでの経緯は本稿の論外となるため省略するとして、共産党政権樹立後の農業政策と農村生活を見ることとする。
 中国共産党もその綱領の基本線はソ連にならっていたため、農業集団化が農政の柱とされた。その目玉は人民公社である。人民公社とは人民コミューンとも訳し得る制度で、ソ連のコルホーズに範を取ったものであるが、コルホーズとは異なり、農村の経済活動全般に加え、行政・軍事まで包括された農村統治機構として編制されたことに特徴があった。
 その点、中国では国民政府時代から農協に近い合作社と呼ばれる組合制度が存在したが、人民公社はこの制度を基礎としながらも、より徹底した農村共産主義を目指す野心的かつ理想主義的な新制度として構想されていた。
 この場合、農地は人民公社に属する農民の集団所有とされ、農業設備等の基本的生産手段は公社、機械等の生産用具は生産大隊、生産・分配計画は生産隊に帰属するといういささか形式的な階層構造が採られた。公社は基本的に自給自足の自治制度でもあり、まさにコミューンであった。
 とはいえ、中央政府は実質上共産党の一党支配体制であって、人民公社もその下部機構にすぎず、自治といっても多分にして建て前であった。その一方で、農村生活は自給自足とされ、農民は国レベルの社会保障を享受することもできず、都市からは切り離され、言わば放牧状態であった。
 こうした中国式農業集団化は、ソ連の場合以上に極めて急ピッチで事実上の強制下に行なわれたため、開始年度である1958年中に早くも9割以上の農民が人民公社に帰属することとなったが、その実態は制度も充分に理解されないままの見切り発車であった。その結果として、一部の模範的公社を除けば、多くの人民公社は生産効率も上がらず、貧困状態に陥っていった。
 60年代に発動されたいわゆる文化大革命(文革)の時代になると、農村は「上山下郷運動」と呼ばれる人口移動計画により、都市部から送られてくる青少年や文革で失墜した党幹部などの「下放」の場ともなった。
 この政策は表向きは、都市と農村の格差解消をスローガンとしつつ、都市から農村への人口移動を促す農村振興策のように見せていたが、実態は文革期に突出した思想的再教育の性格が強いものであり、毛の没後、文革の終焉とともに終わりを告げた。文革の終焉は、人民公社制度そのものの終焉をももたらした。
 結局のところ、「農村から都市を包囲する」中国共産党のユニークな革命戦略は、革命の成功後、「農村を都市から分離する」結果に終わったとも言える。このことが、ポスト文革時代の共産党支配体制そのものを揺るがす後遺症として発現してくるのであるが、この件については改めて後述する。

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農民の世界歴史(連載第32回)

2017-02-27 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(5)中国共産党と農民

 ロシア革命の結果誕生した共産党はレーニン主義的な「労農革命論」を基調としているとはいえ、労働者政党の性格が強いことは明白であり、農民中心の組織構成ではないことはもちろん、農民層の利益を充分に反映しているとも言い難かった。それに対して、中国共産党は様相を異にしている。
 中国では辛亥革命によって満州族系の清朝が倒され、漢民族が主導権を取り、ひとまず近代ブルジョワ民主政治への潮流が作られたが、国民政府中華民国は当然にも地主階級の利益を擁護する立場にあり、中国で膨大な数を占めていた貧農は軽視されていた。
 そうした中で、当初はソ連共産党主導のコミンテルンの影響下で結党された中国共産党は毛沢東という異色的な指導者の下で、ソ連共産党とは異なる道へ舵を切る。毛自身は地主階級の生まれで、自身は教師という知識中産階級に出自するが、中国においてはロシア以上に大きな割合を占める貧農を重視する思想を抱いていた。
 毛がそうした思想を抱いた契機は不明だが、早くも1926年の段階で農民運動に関心を示していた形跡がある。毛の思想はやがて「農民に依拠し、農村を革命根拠地に都市を包囲する」という革命戦略へ結実していく。
 これは単なるスローガンではなく、実際、毛は農民への情宣活動を活発化し、農民に地主の土地を横領するようにさせたため、農民は土地から追放され、共産党に合流し、革命運動に参加するようになった。毛はこうした農民兵を中核的な戦力とする強力なゲリラ軍を作り上げた。
 毛はそうした独自の手法をもって、江西省井崗山を皮切りに各地に農村革命根拠地を築いていき、そこでは富農を含む地主から土地を没収して農民に分配するという「土地革命」を実施していった。このようなやり方は綱領倒れに終わった19世紀の太平天国の社会主義的バージョンアップとも言うべきものであった。
 しかし、こうした農村根拠地戦略は当時の中国共産党指導部の総意ではなかった。毛は31年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時中央政府」を樹立する勢いを見せたが、これに対する国民党軍の猛攻への対抗戦略をめぐる対立から、親ソ派党指導部により毛は指揮権を奪われ、土地革命も中止に追い込まれるのである。
 これに続く国共内戦、抗日戦争の経過やその過程での毛の復権については本稿の論外であるため、省略するが、農村に依拠する毛の革命戦略は同様に多くの貧農を抱える南/東南アジアや南米の革命運動に多大の影響を及ぼし、毛沢東主義(マオイズム)の思潮を生み出すことになる。

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農民の世界歴史(連載第31回)

2017-02-07 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(4)農業集団化と農村生活

 レーニン亡き後のソ連を継承したスターリン政権がネップ体制に代えて打ち出したのが、歴史上悪名高い農業集団化政策であった。その契機となったのは、1928年に生じた大規模な穀物流通の停滞であった。原因は農民たちの売り渋りにあった。
 政権は29年から30年にかけて全面的集団化と銘打った大々的な強権発動により、農地の接収と農業協同集団コルホーズへの強制加入が「自発性」の形を取った実質的な強制により断行された。当然にも、この迷惑千万な新政策に対して農民層は反発し、サボタージュで抵抗した。
 これに対して、政権は抵抗農民を反革命分子たる富農(クラーク)とみなし、「富農階級の絶滅」を大義名分にシベリア流刑や死刑を含む厳罰で臨んだ。こうした政策強行の結果、コルホーズ農場からの穀物調達量は漸次増加していったが、反面、農村は食糧難となり、30年代にはウクライナの穀倉地帯を中心に最大推定1000万人を越える犠牲を出した大飢饉が発生するなど、政策的副作用は反人道的な域に達していた。
 こうして抵抗の体力も奪われた農民にとって最後の手段はかつての農奴にならった集団逃亡であったが、これに対して政権はコルホーズ農民の移動の自由を制限する国内旅券制度で対抗した。これはまさに帝政ロシアが敷いていた農奴逃亡禁止策の社会主義版と言うべきものであった。
 こうして短期間で創設されたコルホーズでは厳しい作業ノルマが課せられ、生産物の自家消費や販売が禁止される代わりに、住宅付属地ではそれらが解禁されるという形で、ほとんど西洋中世の封建農地さながらの様相を呈した。
 このようにコルホーズを協同農場と付属地に分けて、付属地では税負担(農業税)を伴う市場取引を容認するという形で中途半端にネップ的な市場経済を存置したため、コルホーズの生産総力は伸び悩む一方、付属地でも重い税負担を回避して農民の生産意欲が減退するという二重の限界をさらした。
 他方、コルホーズとは別途、より大規模な国営農場ソフホーズも創設されたが、ソフホーズ農民は一個の労働者として各種年金が保障され、移動の自由も有しており、優遇されていた。しかしスターリン時代の農業集団化は取り急ぎコルホーズ中心に行なわれたため、ソフホーズは例外的であった。
 この構造が変化するのは、ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれた第二次大戦後の1960年代である。コルホーズ制度の限界に直面していた当時のフルシチョフ政権は新たな農地開拓と機械化に対応するため、農業集団化政策の比重をソフホーズに移したのであった。その結果、ソフホーズの割合が増大し、ソ連末期の1990年には集団農場の半分近くがソフホーズで占められるに至っていた。
 他方、コルホーズ農民にも年金が保障され、移動の自由も解禁されるようになり、総体として農民の労働者化が進んだ。最低限度の生活保障はなされ、かつてのような飢饉の不安は解消されたとはいえ、農村の生活は都市部ほどに豊かでなく、農民の離農・都市部への移住の波が起き、農業生産は新たな限界に直面した。
 こうしてコルホーズ/ソフホーズは生産効率が低いまま、社会保障をまかなうためにも国庫からの融資や補助金で維持されたため、財政無規律の元凶としてソ連体制を構造的に蝕んでいった。
 今日では、旧ソ連の農業集団化政策は歴史的誤りとして否定されているが、それでも、コルホーズ/ソフホーズは経営規模の小さな家族農に依存した農業の限界を超え、かつ食糧農業資本による資本主義的集約化とも異なる大規模営農の実験的試みとしての意義はあったと言える。しかしその最終帰結は、言わば国家を主体とする大土地所有制に近いものであった。

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農民の世界歴史(連載第30回)

2017-02-06 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(3)ロシア革命と農民

 帝政ロシア末期の革命運動体は農民に基盤を置こうとする社会革命党(ナロードニキ)と都市部の労働者に基盤を置く社会民主労働者党(後の共産党)の二大グループに収斂されていくが、後者の指導者として台頭するのが、レーニンである。
 レーニンは近代ロシアの革命家の中で、ナロードニキを経由することのなかった最初の世代と言われる(レーニンの兄はナロードニキ系活動家として皇帝暗殺謀議に関与したとされ、処刑されている)。とはいえ、当時なおロシア民衆の大多数を占めていた農民の存在を無視しての社会革命はあり得ない情勢であった。
 そこで、レーニンも早くから貧農を労働者とともに革命主体に加える「労農同盟」テーゼを打ち出し、貧農への情宣にも力を入れていた。しかし、これは草創期のナロードニキのように「民衆の中へ」入り込んでいくのではなく、外部からの呼びかけにより、いまだ資本主義的工業化が不十分なロシアにあって、早期のプロレタリア革命を実現しようというレーニン独自の革命戦略にほかならなかった。
 一方、当の農民たちもかつてのように一揆的な抗議行動を繰り出すばかりにはとどまっていなかった。帝政が打倒された1917年2月革命後は、多くの覚醒した農民がソヴィエト(民衆会議)に参加し、土地改革に消極的なブルジョワ革命政府を突き上げ、一部は地主館を襲撃し、地主所有地の自主的な分配という革命的な直接行動にも出ていた。
 実際、レーニンが政権を掌握した1917年10月革命は農民蜂起を内包しており、農民も大いに下支えしていたのだが、農民とレーニン政権との関係は微妙かつ警戒的なものであった。その点を意識してか、初期のレーニン政権は本来の綱領である土地国有化を棚上げし、当面は地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を指示している。
 しかし、まがりなりにも農民を代表していた社会革命党が排除され、反革命派の蜂起と外国の干渉による内戦・干渉戦が勃発すると、レーニンは農村に戦時穀物徴発令を発した。これを機に、農民層は反革命に転ずる。かれらは再び、帝政時代のように一揆的な抗議行動で徴発政策に反発した。
 1922年まで続いたロシア内/干渉戦は、ロシア農村に容易に修復し難い打撃を与えた。耕地面積は戦前の60パーセント程度まで減少・荒廃し、農業生産高も同40パーセントを割り込む有様であった。これに対し、レーニン政権は復興政策として「新経済政策」(ネップ)を打ち出し、農民に現物税を課しつつ、市場での穀物取引を認めた。
 これはレーニン自身「国家資本主義」と規定したように、国家が管理統制する市場経済であり、最大の狙いは農産物の供給不足を回復することにあったが、自身の食糧にも事欠く農民は安価で穀物を市場に流すはずはなく、所期の成果は上がらなかった。
 結局、農民とソ連共産党政権は良好な関係を築けないまま、レーニンは1924年に早世する。後を継いだのが古参幹部のヨシフ・スターリンであった。スターリン治下で農村生活は激変することになるが、その新局面については節を改めて見ることにする。

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農民の世界歴史(連載第29回)

2017-01-24 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(2)農奴解放後のロシア農村

 ロシアでは皇帝自身が主導した1861年農奴解放令により、法的には農奴制が廃止され、農民は農村共同体にまとめられたが、この共同体は自治的な形を取りつつ、農民を貧困な農村に束縛する結果を作り出したのだった。
 農民の生活は所によっては農奴時代よりも苦しくなり、プロレタリア化したかれらは再び一揆を起こすようになった。そうした中、ロシアではニコライ・チェルヌイシェフスキーが創始した一種の農民社会主義運動ナロードニキが隆起する。
 ナロードニキは農民の利益を擁護する「土地と自由」の理念に基づき、「ナロード(民衆)の中へ」をスローガンとし、資本主義的工業化で遅れを取るロシアにあって、資本主義段階を飛び越えた貧農を主体とする社会主義革命を夢想する運動であった。
 その際、革命の拠点となるのは農村共同体とされ、運動員は農村に入って革命情宣活動に当たった。しかし、ロシアにおいても農奴解放後の農民は保守的であり、社会主義運動は共感されず、かえって敵視され、余所者の運動員は迫害すらされた。当局もナロードニキを危険視し、弾圧した。
 そうした閉塞状況に直面し、過激化した一部分子は「民衆の意志」なる分派的秘密結社を結成し、「直接闘争」という名目で要人暗殺のテロ活動に走った。かれらは農民の間に残存する皇帝崇拝を革命の障害とみなし、皇帝の殺害排除が農民を覚醒させると短絡していた。
 その極点が1881年の皇帝アレクサンドル2世暗殺事件である。しかし、この事件により、農民らはいっそうナロードニキから距離を置くこととなり、一方、2世を継いだ息子アレクサンドル3世は父帝の施政を覆す反動政治を展開し、反体制運動に対する監視と弾圧を強める結果となる。
 それでも、ナロードニキはレーニンが登場する以前の近代ロシア社会主義運動の主流として、社会革命党の結成に結実するが、党は相変わらずテロリズム路線を放棄せず、数々の内外要人暗殺事件を引き起こした。
 当局の側でも拱手傍観していたわけではない。20世紀初頭には、ピョートル・ストルイピン首相が主導する一連の体制内改革の中で、ロシアでも一部で形成されてきていた自営農家の育成が積極的に支援され、こうした富農(クラーク)を農業の新たな主体として農村振興を図らんとした。しかし、この改革には農民層の強い反発があり、容易には進捗しなかった。
 他方、19世紀末になると、ロシアでも遅ればせながら資本主義的工業化の潮流が起き、社会は急速な変化を遂げ、労働者大衆の勃興とそれに伴う労働運動も発現してきたことにより、ナロードニキは社会民主労働者党のような新たなライバル勢力を得ることになる。
 そうした中で、ナロードニキ系社会革命党とやがてロシア革命の主導権を握るレーニンの社会民主労働者党主流派ボリシェヴィキは、帝政末期の革命運動の過程で、農民層の取り込みをめぐって政治的な綱引きを展開するようになる。

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農民の世界歴史(連載第28回)

2017-01-23 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(1)仏農民の政治的保守化

 19世紀半ば以降、欧州の資本主義諸国では程度の差はあれ、社会主義運動が派生・隆盛化していく。社会主義運動は基本的に労働者階級の利益を第一に考慮するものであったが、農民もこれと無縁ではあり得なかった。
 フランス革命によって農民が解放されたフランスでは、以前見たように、農民間での富農と貧農の階層分化が生じるとともに、農民層全般が政治的に保守化していた。零細と言えども「持てる者」の仲間入りを果たした農民は個人財産に敵対的な社会主義には共感できず、ブルジョワ保守政治の支持者となる。
 こうした傾向が如実に現れたのは、ルイ・フィリップ七月王政が革命により倒れた後、1848年4月に施行された制憲議会選挙である。この時、史上初の社会主義(連立)政権を惨敗させ、ブルジョワ共和派の勝利を導いた原動力の一つは、農民層の支持であった。これに対する労働者・社会主義者の蜂起(六月蜂起)は、あっさり鎮圧された。
 そして、年末の大統領選挙では皇帝ナポレオン1世の甥に当たるルイ・ナポレオンが当選したが、これにはやはり農民層の支持があった。元来、農民層はナポレオン政治の支持者でもあったが、これはコルシカ島の中流貴族から自力で成り上がった一族への共感にも支えられていたのだろう。
 大統領として幅広い支持を獲得したルイ・ナポレオンは52年、帝政を復活させ、ナポレオン3世として即位するという政治反動に出る。以後、70年に廃位に追い込まれるまでフランス第二帝政の時代が築かれることになる。第二帝政について批判的に分析したマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、第二帝政と農民の関係について、鋭い表現でこう記されている。
 「ボナパルト王朝は、革命的農民でなく、保守的農民を代表しているのであり、その社会的生存条件である分割地所有を越えて押し進む農民でなく、むしろその守りを固めようとする農民を、都市と結びついた自身のエネルギーによって古い秩序を転覆しようとする農村民衆でなく、反対にこの古い秩序に鈍感に閉じこもり、自身の分割地ともども帝政の幽霊によって救われ、優遇されるのを見たいと思う農村民衆を代表しているのである」。
 70年の廃位は普仏戦争に敗れ、皇帝自らプロイセンの捕虜となったことを契機とするが、これに続いて翌年パリを中心に発生した民衆蜂起と革命自治政府の樹立は、史上初の社会主義革命と言える出来事であった。しかし、この「革命」は歴史上「パリ・コミューン」と称されるように、首都パリといくつかの地方都市限りの局地的な「革命」にとどまり、全土的な広がりを持たなかったために、わずか2か月で流血鎮圧され、失敗に終わった。
 マルクスは晩年の有名な著書『フランスの内乱』で、パリ・コミューンの挫折理由について多角的に分析しているが、農民との関わりでは、農村に形成されつつあった農村プロレタリアート(貧農に相当する)の取り込みに失敗したことも示唆している。
 かくして、パリ・コミューンの挫折は社会主義運動に農民層を参加させることの難しさを改めて実証し、以後、農奴解放後のロシアにその重心が移っていく社会主義運動において、農民との関係性が大きな課題となっていく。

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農民の世界歴史(連載第27回)

2017-01-10 | 〆農民の世界歴史

第7章 ブルジョワ革命と農民 

(4)ロシアの農奴解放

 18世紀にプガチョフの乱を経験した帝政ロシアでは、元来は啓蒙主義的だったエカチェリーナ2世を反動化させ、さらにフランス革命の衝撃は女帝をして、農奴制の実態を紀行文で告発した啓蒙的な廷臣貴族アレクサンドル・ラジーシチェフをシベリア流刑に処する思想弾圧に走らせた。
 こうしてドイツ以上に後進的で搾取的な農奴制が持続した帝政ロシアでも、19世紀に入ると遅ればせながら農奴制廃止への動きが表面化してきた。19世紀前半、農奴の不満は農民一揆の多発化という形で表面化していたが、前世紀のプガチョフの乱のように体制を揺るがす大規模な反乱は不発であった。
 一方で、フランス革命に触発された進歩的な将校の間では帝政に対するブルジョワ民主改革の機運が生じ、1825年のデカブリストの乱として表出された。この軍事反乱は農奴制廃止を直接の目的とするものではなかったが、反乱将校らは部下である農奴出身の兵士から農村生活の実情を知り、同情する立場にあった。
 さらにプーシキンやトゥルゲーネフといった地主貴族出身ながら進歩派のロシア近代文学者も、農奴制批判を内包する作品群を生み出した。とりわけトゥルゲーネフは投獄も辞さない確信的な農奴制反対者となり、その作品は後に農奴解放を決断する皇帝アレクサンドル2世にも影響を及ぼしたと言われる。
 そうした中、時のニコライ1世は、体制を脅かす急進的な思想を厳しく取り締まりつつ、一連の法令を通じて農奴の待遇改善策を講じた。この「改革」はどこまでも体制の枠内でのガス抜き的な改善策に過ぎないものではあったが、農奴解放へ向けた最初のステップであった。
 ニコライを継いだアレクサンドル2世は歴代ロシア皇帝中では相対的にリベラルな思想の持ち主であり、父帝の路線をさらに発展させる「大改革」に出た。その直接のきっかけは1856年のクリミア戦争敗北にあると言われるが、そればかりでなく、アレクサンドルの個人的な思想性、さらには農奴制そのものがロシアの主産業である農業の発展の桎梏ともなっていたこともあっただろう。
 皇帝は1861年に農奴解放令を発し、数百年来のロシア農奴制の廃止を宣言した。これは、皇帝自身が述べているように「上からの改革」であり、その点では一足先にプロイセンで実施されたユンカー改革と同種のものであったが、ロシアでは皇帝自らのイニシアティブでなされた点で、画期的であった。
 とはいえ、ユンカー改革と同様、改革は徹底したものではなく、抜け道として農地の三分の一は旧地主に留保され、残余地も政府が地主に土地の買戻し金を支払い、農民は政府に対して償還債務を負担するという仕組みであり、実質上は土地の有償分与にほかならなかった。そして、分与地もミールと呼ばれる農村共同体の集団所有とされ、自治的な形ではあるが引き続き農村に束縛されるという仕掛けになっていた。
 こうしてロシア農村はひとまず法的には農奴制を脱したのであるが、構造的貧困から脱することはできず、このことは農村を基盤とした新たな社会主義運動へとつながる。それは一部暴走してアレクサンドル2世暗殺とその後の帝政反動をもたらし、ロシア革命を準備したであろう。

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農民の世界歴史(連載第26回)

2017-01-09 | 〆農民の世界歴史

第7章 ブルジョワ革命と農民 

(3)ドイツ・ユンカー改革

 以前見たように、封建分立的なドイツでもとりわけプロイセンでは反動的な農奴制が維持されており、農場領主たるユンカーは農場経営の傍ら、将校や官僚として政治行政にも関与するなど、政治経済両面で強力な権勢を誇っていた。
 しかし、18世紀のフランス革命はドイツ・プロイセンにも及んできた。プロイセンはナポレオンのフランス軍に敗れ、1807年の和約を経て領土の半分を喪失したのであった。この屈辱的国難が自由主義的な改革の契機となった。
 07年に首相に就任したハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインは農奴制廃止、土地売買の自由、職業選択の自由を認める勅令の発布を主導したが、ナポレオンから謀反を疑われた彼が辞職に追い込まれると、後をカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクが継承した。
 07年からハルデンベルクが退任した22年までの自由主義的な一連の改革政治は二人の首相の名を取って「シュタイン‐ハルデンベルク改革」と称されるが、この改革はもとより下からの革命ではなく、上からの「改革」に過ぎず、特に農奴解放に関してはユンカー層の抵抗により、農奴保有地の三分の一返還を条件とする有償解放にとどまったため、中途半端に終わった。
 結局、ユンカーらは新たに土地を喪失した農民を雇用して農場を経営する資本主義的農場主となり、旧反動農奴制は資本主義的ユンカー経営へと再編されていった。これにより、ユンカーは直営農地をいっそう拡大し得たほどであり、かえってより洗練された農場領主制に転換されただけだったとも言える。
 一方、土地売買が自由化されたことで、ある程度の有産農民はユンカー領の一部を買収して地主成りすることができるようになったが、このようなケースは一部にとどまり、大多数の解放農奴は農場の賃金労働者に転じるほかはなかった。
 しかし「諸国民の春」と称される1848‐49年の欧州連続革命渦中、いまだに留保されていた中世以来の領主裁判権がようやく廃止され、統一ドイツ帝国が成立した後の72年には領主警察権も廃止されるに至った。これで、さしあたり中世的な農奴制の名残は一掃されたことになる。
 ドイツ統一を主導した「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクは、自身もユンカー出身であった。ユンカー層は既得権益の喪失につながりかねないドイツ統一にはおおむね反対であったが、開明的な保守主義者であったビスマルクはそうした反対を抑えて統一と近代化を実現したのであった。
 その一方で、ビスマルクはそれ以上の社会主義的な革命に対しては断固抑圧の姿勢を維持したため、根本的な農地改革はなされず、ユンカーはかねてより進出していた軍部や中央官庁で引き続きポストを独占していた。
 サバイバル戦術に長けたユンカー層は中途半端に収束した20世紀初頭のドイツ革命も生き延び、その解体は内発的ではなく、20世紀半ば、第二次世界大戦後のソ連軍によるドイツ占領下で強制的に実施されるのを待たねばならなかった。

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農民の世界歴史(連載第25回)

2016-12-27 | 〆農民の世界歴史

第7章 ブルジョワ革命と農民

(2)フランス革命と農民反乱

 封建制が衰退しながらも根強く残っていたフランスのブルジョワ革命は、英国より一世紀以上遅れで勃発する。フランス革命は総体としてブルジョワ革命の性質を持っていたが、そこには農民革命が内包されていた。
 一連の革命の導火線となった1789年7月のバスティーユ監獄襲撃事件の報は農村にも伝わり、折からの食糧難と物価高騰に苦しんでいた農民らの不満は領主館襲撃に向かった。こうした農民反乱はフランス中部から始まり、瞬く間に全国に波及していった。
 このような動きに封建制の終焉を見て取った進歩的貴族層は、国民議会を通じて封建諸特権の廃止を決めた。しかしこうした重大な既得権益廃止の常として、一挙に進んだわけではなかった。革命第一段階の立憲革命期に実現したのは、農奴制・領主裁判権・教会十分の一税という西洋封建制における三大悪制の廃止であり、貢租については一括前払いによる免除による有償廃止という抜け道が用意されていた。
 このような半端な策では多くの農民は貢租免除を受けられず、依然として貢租を通じて農地に束縛される。そこで共和制移行が成った92年には、改めて「封建領主の合法的な領有を証明する文書が提出されない限り」という条件付きの無償廃止に修正されたが、これでもなお不完全であった。
 最終的に完全な無償廃止が実現したのは、ジャコバン派独裁期の93年のことである。有名な条文「従前の領主的貢租、定期及び臨時の封建的、貢租的な諸権利のすべては・・・・・・、無償で廃止される。」が、簡潔にその趣旨を表現している。
 こうして封建的諸制度から解放されたフランス農民はこれ以降、近代的所有権を保持する有産階級の仲間入りを果たすことになるが、それは農民の間での貧富格差の発生と、農民の全般的な保守化を結果したのである。フランス革命に反動的な形で終止符を打ったナポレオンはこうした新たな農民の権利を擁護し、ブルジョワのみならず農民層にも支持基盤を確立した。
 その点、フランス革命からおよそ半世紀を経た1848年公刊のマルクス‐エンゲルス『共産党宣言』では、「中間身分、すなわち小工業者や小商人・手工業者、農民、かれらがブルジョワジーと闘うのは、中間身分としての自己の存在を没落から守るためである。従って、かれらは革命的ではなく、保守的である。それどころか反動的でさえある。」と評されるまでになったのである。
 実際、フランス農民層は19世紀を通じて新興ブルジョワ層に加わり、ナポレオン一族支配の支持者となり、やがて来る社会主義運動・革命の潮流においては総体として反革命側に加わる素地を作ったであろう。

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農民の世界歴史(連載第24回)

2016-12-26 | 〆農民の世界歴史

第三部 農地改革の攻防

第7章 ブルジョワ革命と農民

(1)英国の社会変動と農民

 世界史上初のブルジョワ革命を経験したのは17世紀イングランドであったが、その主力となったのは、ジェントリーと呼ばれる新興地主層及びヨーマンと呼ばれる解放農奴出自の小農民であった。
 イングランドでは、15世紀末ばら戦争の結果、大封建領主らが自滅的に没落していき、16世紀までに封建制はほぼ崩壊していた。この過程はフランスのような人為的革命によるのでなく、歴史の進行における社会変動によっていた。
 その結果、封建領主に代わって、おおむねその家臣級だった中小の騎士たちが台頭して、新たな在地地主階級ジェントリーを形成するようになった。他方、農奴たちは解放されて、小土地農民たるヨーマンを形成するようになった。
 また西洋封建制においてもう一つの主役であった教会に関しては、ばら戦争を止揚して成立した16世紀のテューダー朝下、国王ヘンリー8世が自ら強力に主導した宗教改革により、修道院の所領がことごとく没収され、封建領主としての教会は終焉した。
 この教会改革をヘンリーの下で実務的に主導したのが、側近トマス・クロムウェルであった。彼は農民ではないが、貧しい職人・商人の父を持ち、苦労して一代で騎士身分を獲得した立志伝中の人物である。
 トマスは、教会改革の過程で自らも旧修道院領を取得して大地主となった。彼の姉の子孫が次の世紀に清教徒革命の立役者となるオリバー・クロムウェルである。その意味で、トマス・クロムウェルこそは、ジェントリーの元祖とも言えるのであった。
 他方、ヨーマンはジェントリーの下に位置する新興小土地農民として、16世紀テューダー朝の時代には、国王軍の主力として国家にも奉仕する体制派となるが、宗教改革の過程で派生したプロテスタントの一派ピューリタン信仰の中心ともなり、スコットランド系のステュアート朝が専制化した17世紀にはジェントリーを支えて清教徒革命という宗教的形態でのブルジョワ革命を実行したのであった。
 しかし、英国では君主制護持の気風が強く、クロムウェル家二代にわたる軍事独裁型共和制は長続きせず、王政復古となり、18世紀フランス革命に際しても、英国は反革命派急先鋒であった。
 フランスが革命に揺れていた時代、すでにブルジョワ政治革命が終了していた英国は産業革命の只中にあり、ジェントリー層は資本家へと転向していく一方、ヨーマン層はおおむね賃金労働者へと転向していき、資本主義の時代を先取りしていたのである。

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