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農民の世界歴史(連載第49回)

2017-06-20 | 〆農民の世界歴史

第11章ノ2 社会主義農業の転換

 20世紀後半期のソ連型の国家社会主義体制は、農政の面でも生産力・生産性双方において限界をさらしていた。最初に大きな転換に動いたのは中国である。中国では毛沢東の没後、文化大革命の大混乱を収拾する過程で台頭した改革開放派政権により、従前の中国農政の中核マシンであった人民公社制度の解体が断行された。
 人民公社に代わって導入されたのは生産責任制と呼ばれる仕組みである。これは、従来の農業集団化を改めて家族農に戻したうえ、各農家が政府から生産を請け負い、その生産物の一部を政府に納入した後、残余は自由に流通させることを認める制度である。
 政府への納入義務が課せられる点を除けば、市場経済的な農政の仕組みが復活したとも言えるが、これにより人民公社時代の生産性の低さが解消され、農民の生産意欲を動因として農業生産力が回復・増強されていったことはたしかである
 しかし、これで問題が解決したわけではなく、小規模農家の貧困は解消されなかった。かれらの生活改善の打開策は、都市への出稼ぎであった。いわゆる「農民工」であるが、これは社会主義を標榜する体制下における資本主義的な潜在的過剰人口の事例の発現と言える。まさに、社会主義と市場経済を掛け合わせた「社会主義市場経済」の特殊産物である。
 しかし、農民は都市に定住しても、人民公社時代の都市/農村分断政策の名残として、農民には都市戸籍が与えられなかったため、都市ではある種の不法滞在者として、社会保障等のサービスを受給する資格がないまま放置されてきた。これに対し、政府は農民工の都市戸籍切り替え策でしのいでいるが、都市に合法的に定住する農民工の増加は離農による農業生産力の低下という資本主義諸国同様の構造問題をいずれ生じさせるだろう。
 これに対し、本家本元ソ連では、その晩期になっても農業集団化政策は固守されていたが、1991年のソ連解体は集団化の一挙解体の契機となった。集団化の中核マシンだったコルホーズは伝統的な家族農への回帰と株式会社形態を含む農業法人制、さらには協働型の農民農場制に置き換えられていった。
 1990年代から2000年代にかけて、こうした脱集団化政策がロシアを含む独立した旧ソ連構成諸国全域で推進されていった。その進度や結果は各国によって異なるが、全体として市場経済を前提とする資本主義的な農政への移行が進展していった。これも農業資本主義の時代の趨勢と言えよう。


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