田中優子『江戸を歩く』集英社、2005年。
千住小塚原回向院で始まり、鈴ケ森の刑場で、著者は近代都市東京にくみしかれた江戸の街を散策し、その情緒を嗅ぎ分けます。
かつて、江戸は水の都でした。その文化は自然環境を大前提としていた街でした(p.88)。
くわえて江戸は東北の鬼門に寛永寺、反対側の南西に増上寺、外堀にそって山王社、反対側の外堀に神田明神(総鎮守)、北斗の方向に日光東照宮を置く、平安京(風水に守られた)を模した都市計画のもとに作られた街でした(p.154)。
「さらに外側には、吉原遊郭、品川の遊里があり、・・・浅草には弾左衛門という頭がおり、車善七という頭がいた」そうです(p.200)。
渡来人が大挙して入植した浅草、魚河岸と商いでにぎわった日本橋界隈、江戸時代に埋め立てられた新しい入植地深川。本当に江戸は、魅力的な都市だったのです。
大名が出入りした名残である上屋敷、中屋敷、下屋敷は、現在では大学、庭園になっています。かなりまえ、東京を散策して知った場所がたくさん出てきました(門前仲町、根津神社、小石川後楽園など)。
根津の串焼きの「はん亭」にはよく行きましたが、江戸時代の爪革問屋の建物だったとは・・・(p.150)。
かつて、江戸は水の都でした。その文化は自然環境を大前提としていた街でした(p.88)。
くわえて江戸は東北の鬼門に寛永寺、反対側の南西に増上寺、外堀にそって山王社、反対側の外堀に神田明神(総鎮守)、北斗の方向に日光東照宮を置く、平安京(風水に守られた)を模した都市計画のもとに作られた街でした(p.154)。
「さらに外側には、吉原遊郭、品川の遊里があり、・・・浅草には弾左衛門という頭がおり、車善七という頭がいた」そうです(p.200)。
渡来人が大挙して入植した浅草、魚河岸と商いでにぎわった日本橋界隈、江戸時代に埋め立てられた新しい入植地深川。本当に江戸は、魅力的な都市だったのです。
大名が出入りした名残である上屋敷、中屋敷、下屋敷は、現在では大学、庭園になっています。かなりまえ、東京を散策して知った場所がたくさん出てきました(門前仲町、根津神社、小石川後楽園など)。
根津の串焼きの「はん亭」にはよく行きましたが、江戸時代の爪革問屋の建物だったとは・・・(p.150)。
よくできた本です。おしまい。