「城と城下を行くV -幕末編- 幕末 京都の御土居堀と禁門の変」を受講してきました。

豊臣期の天正19年(1591)に、総延長約23km(京都覚書)の土塁と堀で、京都を
360度を囲い込むように10ヵ所 (三藐院記より) の出入り口がある御土居堀が出来ました。
地図は ここ をクリックしてご覧くさい。
●御土居堀の内部は洛中で、外側は洛外と呼ばれています。
(御土居の内部であっても鞍馬口通以北は洛外と呼ばれることもあった。)
●外側の堀とあわせて御土居堀と呼ばれてました。
●三藐院記(さんみゃくいんき)は、安土桃山時代の公家近衛信尹(このえ のぶただ)の日記。
●御土居堀(おどいぼり)とは、天正19年(1591)初頭、豊臣政権が京都全域を囲んで
構築した都市城壁で、御土居堀(御土居)は日本のミヤコにつくられた唯一の都市城壁です。

御土居の高さは、画像の左下にいる人から想像すると5m位あっただろうと思われてます。
最近ではバブルの時にも、少なくなっている御土居は壊されていたようですが天満宮付近の
外にも、僅かに残っているところが数ヶ所あるようです。
禁門の変は、1864年8月20日(元治元年7月19日に、長州藩(ちょうしゅうはん)が不利に
なった形勢を立て直すために京都に攻めこんだのですが、京都御所へ向けて発砲をしたこと
などを理由に、長州藩を朝敵として長州征伐を行うことになり、京都を警備していた会津藩の
主、松平容保(まつだいらかたもり)の軍に負けた事件のことを言います。
●蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれています。
その禁門の変(きんもんのへん)と、御土居がどのような関係があるのかと思っていると・・・?
禁門の変が起こるときに長洲勢が洛外の三方(嵯峨天龍寺・伏見長洲屋敷・乙訓郡山崎宝積寺)
に布陣していた伏見勢が途中の藤森で撃退される。西(嵯峨天龍寺)と南(乙訓郡山崎宝積寺)
から洛中に突入する、そこには洛中総構 (らくちゅう そうがまえ) の御土居と堀があったのですが
囲う範囲が余りにも広すぎ兵力が足りなくて、御土居のあるところで突入されたそうです。
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~~~~~~~ 今日の誕生花 日比谷花壇より ~~~~~~~
花名 : サザンカ 花言葉 : なごむ心
江戸時代に長崎出島のオランダ商館に医師がヨーロッパに持ち帰ったため
サザンカという和名がそのまま学名にいかされている日本原産の花木です。