畑山神社を出て、西国街道を京都に向かっていくと「梶原一里塚」がありました。
一里塚は、道程の目安として街道の一里(約4km)ごとに建てられました。高槻市域では芥川
と梶原にありました。文化元年(1804)発行の『浪華講定宿帳』には 「一里塚前、茶屋平八」
とあり、このあたりに旅籠やがあったとみられます。 元治2年(1865)京都火消役のため
京都藩邸に向かう高槻藩の行列が、梶原一里塚前で休憩をとったことが記録に残っています。
※ 西宮から京都までの道標は、約60基あったそうです。
この坂の上には、梶原台場跡を見下ろすことが出来る「妙浄寺」があります。
妙浄寺は、江戸時代の正覚寺跡です。明治30年(1891)淀川沿いの井尻から妙浄寺が
移ってきました。妙浄寺は嘉禄元年(1852)に日進上人が創建した日蓮宗の寺院です。
妙浄寺から見下ろした 「梶原台場跡」は、建物が建ち影も形も残ってませんでした。
梶原台場は、二門の大砲を備えた東西300㎥、南北200㎥の大規模なもので、会津藩が
設置を主導し、慶應元年(1865)に竣工した西洋式台場(大砲を装備した城郭)で対岸の
楠葉台場(枚方市)と対になっていました。設置の名目は淀川をさかのぼってくる異国船の
対策なのですが、会津藩の本当の目的は淀川両岸を通る、京街道と西国街道の上に関門
の機能を有する台場を築き京都への出入りをチェックし、防衛の拠点とする事でした。
慶應元年7月以降、梶原台場の警備は伊勢国(三重県)津藩が担当しました。
津藩は、藤堂高虎を藩祖とし32万石を有する雄藩です。幕府からの信頼が厚く
梶原台場を含む山崎一帯の警衛を任されていたそうです。
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NHKの『龍馬伝』は、慶応三(1867)年十一月十五日の暗殺まで、あと少しのところですが
その前年の一月十九日、龍馬は大坂から淀川を遡上し、京・伏見の寺田屋に入ります。
このとき龍馬は、幕府の監視が厳しい三十石船には乗らず、別仕立ての川船に薩摩の船印を
掲げて無事に到着したといいます。その川船が上牧あたりを通過するとき、龍馬は淀川両岸の
楠葉と梶原にある、勝海舟監修の西洋式の台場を目の当たりにしたそうです。
残念ですが・・・そのときの事は『龍馬伝』で放映されてませんでした。(-_-;)
~~~~~~~ 今日の誕生花 日比谷花壇より ~~~~~~~
花名 : ミニバラ(赤) 花言葉 : 特別な功績
バラ科の落葉低木です。ポリアンサ系を更に低く改良したものです。
小輪系の花が房咲きに咲きます。木の高さは20~50cmくらいで小さめです。