kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

幕末の京都を歩く歴史ウォーク  2-② 若狭小浜藩邸跡~二条城

2010年11月21日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
武信稲荷神社を出て、二条城を目指して北に向かって歩いていくと・・・


ここは2万坪の広大な敷地を有していた、若狭小浜藩西井家の藩邸跡です。
(左に見えている道を通って、左折するとこの場所にでました。)

江戸時代を通じて二条城南西のこの地にあった小浜藩のこの屋敷は、15代将軍徳川慶喜が
文久3年(1863)12月から使用し、最後の将軍として慶応3年(1867)9月に二条城に
入るまでの3年10ヶ月を過ごし、大政奉還への道筋を構想した場所だといわれています。


若狭小浜藩西井家の藩邸跡から、北へ少し歩くと世界遺産の「二条城」が見えてきました。

二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にありましたが、天明8年の大火の際に
東北隅・西北隅の両櫓が焼失しています。今はこの西南隅櫓と東南隅櫓が残っているだけです。
江戸幕府の誕生と、大政奉還で終焉の舞台となった二条城は江戸時代のお城です。

慶長8年(1603年)徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として
作らせました。家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった祝いを二条城で行い
江戸幕府が誕生したのです。

1867年10月14日に、この二条城・二の丸御殿の大広間で最後の将軍徳川慶喜が
大政奉還(たいせいほうかん)を発表して、朝廷に政権を返し260年続いた徳川の
江戸幕府が幕を閉じました。


埋門形式の(重要文化財)の西門です。
西門に木橋が堀を渡っていたころ、将軍徳川慶喜が通られたことがあると聞きましたが
現在は、堀を渡る木橋はなくなって開かずの門になっていました。


渡櫓門の北大手門 (重重要文化財) です。
この門から京都所司代(幕府の侍所の頭人)が近いので、よく使われていたようですが
現在、ここは一般人の通行は禁止で、緊急車両の出入口になっていました。


二条城の北東角から北大手門方向を見たところです。
この場所は立ち入り禁止のようですが、歩いてみたくなりませんか。(^^ゞ
左手は、東大手門のある二条城の東側の通りになります。


現在も、もとの形を残している重要文化財の東大手門です。
二条城の正門にふさわしい櫓門で堂々たる構えは、お城の創建時につくられたものです。

二条城の駐車場には、群馬・岡山・・・と遠くから来られた車がたくさんありました。
ゆっくりと行きたいと思っていた二条城ですが、横目にして蛤御門に向かいますね。(^^ゞ

~~~~~~~  今日の誕生花  日比谷花壇より  ~~~~~~~
花名 : ハマギク       花言葉 : 友愛
青森県から茨城県北部の太平洋沿岸に自生し、崖や砂丘に生える野生のキクです。
砂丘に育つキクであることから、ハマギクと名づけられたようです。
コメント
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