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kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

幕末の京都を歩く歴史ウォーク 1-① 八丁松原~西国街道

2010年11月06日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
しろあと歴史館秋季特別展 「幕末 京都をめぐる雄藩と高槻」 に申し込んでいた
歴史ウォーク1回目の 「高槻城下(京口) ~ 梶原台場跡」 に行ってきました。
しろあと歴史館に着くと、文化財スタッフのメンバーの人たちも参加されてました。

文化財スタッフの仲間
「kikoさんも当たったの、抽選だったから申し込んでも駄目な人もいてるよ。」


「えっ!申し込んだ時に抽選になると言ってたけど、本当に抽選やってんね~。」
「申し込んだ分は、全部当たってるよ・・・」

文化財スタッフの仲間
「全部当たってるって、運がええなぁ~」

たくさんの方が申し込まれていたようですね~今日は良いお天気で小夏日和?のようです。


と言うことで、しろあと歴史館から京口を通って八丁松原に向かいました。

京口は西国街道をへて京都に通じる主要な出入り口でした。高槻藩では、参勤交代での江戸行きや
京都火消役での上洛の際は城内の桜馬場(現第一中学校付近)で隊列を組み、東門から出立し
京口を経て西国街道に出るのが通例でした。京口から西国街道にいたるまでの南北8町(約800m)
あまり続いた沿道の松並木は八丁松原と呼ばれました。


畑山神社(はたやまじんじゃ)

西国街道は、古代の山陽道を前身とする京都と西国を結ぶ主要交通路で
江戸時代には「山崎通(やまざきみち)」と呼ばれました。山崎~西宮間は約36kmです。

西国街道を京都に向かっていくと、畑山神社がありました。
畑山神社の地は7世紀頃に創建された古代寺院、梶原寺のあった場所で瓦等が出土しています。
神社の背後の丘陵斜面には、7~8世紀頃の瓦窯跡があります。東大寺の造営を担当していた
造東大寺司が、天平勝宝8年(756)に梶原寺へ6,000枚の瓦を発注した記録が残っています。

江戸時代には神仏混合の寺院、永福寺がありましたが、明治時代に神仏分離令により
畑山神社と名をかえました。  (以上は、しろあと歴史館 歴史ウォークの資料より)

※ 明日は、この後に行った 「梶原一里塚・妙浄寺・梶原台場跡」 をご紹介します。(^^♪

~~~~~~~  今日の誕生花  日比谷花壇より  ~~~~~~~
花名 : カーネーション(白)       花言葉 : 清らかな愛
地中海沿岸が原産の多年草です。学名は「ゼウスの花」の意味ともいわれ
バラとともにダイヤモンドと比べられるほど美しいとされていました。
コメント
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