藤原帰一は著名な政治学者である上に映画評論家としても名を馳せている。藤原の国際政治に関する論壇時評は正確なことを述べているとは思うが、どこか隔靴掻痒の感じを受けた。それは私の読解不足もあるだろうが、世界を席巻する反民主主義的な動きに対する客観視、双方に対する同等の理解、抑制的な書きぶりにあったと思う。それが、この「ヨーロッパ新世紀」映画評はどうだ(社会と自分に潜む差別と暴力 人ごとではない「ヨーロッパ新世紀」:藤原帰一のいつでもシネマ(ひとシネマ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/02f048b95ed205c95c69b3323977952be01b42ca)重ねて評する意味も失うほど正鵠を得ていて言葉もない。
だが、私なりに言葉を継ぐ。主人公は思い入れることのできないキャラクターである。マティアスは出稼ぎ先のドイツの工場で「怠惰なロマめ」と言われ、キレて暴力を振るった挙句、ルーマニアに逃げ帰る。突然帰ってきた夫に妻は冷たい。森で怖い思いをした息子ルディは言葉を発せなくなっているが、男ならこうあるべきとマッチョな対応しかできない。そして認知症が進んでいる父親の介護もままならない。村では、マティアスのかつての恋人シーラが現場責任者を務めるパン工場でスリランカ人を雇うことに。そもそも、マティアスが出稼ぎに行ったように村の人手不足をより貧しい国からの労働者でまかなっていたのだ。
村の人種構成は多様だ。ルーマニア語を話す者が多数だが、オーストリア・ハンガリー帝国下であった時期もあり、ハンガリー語を話す者、そしてドイツ語を話す者。さらに元々漂流民であったロマを祖先に持つ者もいる。様々な言語が飛び交う中でルーマニア語とハンガリー語を話す者の微妙な関係を含め、ロマには差別感情がある。だから、マティアスは「ロマ呼ばわり」されて怒ったのだ。そして、ルーマニア語系は東方正教、ドイツ語系はプロテスタント、元々あるカトリックと宗教的にも複雑に混交している。だが、人の移動が容易ではなかった共産主義の時代、ある意味上からの圧政の強さゆえ、これらの違いは表面化していなかったのだろう。それが、ソ連崩壊、ルーマニアもチャウシェスク独裁政権の崩壊で「自由化」した。人の移動も自由になった。
この作品には、ヨーロッパにおける現在の問題が集約されている。圧政からの人々の繋がる生きる知恵としての「共存」が、自由を得て、互いの違いをヒューチャーし出した。人種、民族、言語、宗教、習慣、生活文化そしてヨーロッパを超えた人間との摩擦。そしてグローバリズムという名の新自由主義。シーラのパン工場でスリランカ人を雇ったのは、現地のルーマニア人からの募集がないから。村では最低賃金で働く人間などいないのだ。しかし、肌の色の違う人間は許容できないと、住民は差別感情を露わにする。「イスラム教徒の作ったパンなど食べられない」。シーラはEUの基準に則った雇用条件で合法に雇っていたが、EUの価値観自体が許せない。「自分だけ儲けているフランスが勝手に決めた」。スリランカ人宿舎に火炎瓶が投げ込まれるにおよび、シーラは彼らを解雇せざるを得なくなる。真面目な働き手であったのに。
作品中最も白熱したシーン。村をあげての住民集会。排外言説が声高に叫ばれ、グローバルスタンダードに近しいシーラらは劣勢で、そのシーラを精神的に擁護するでもなく、手を握ってくれと何の役にも立たないマティアス。そんな中、マティアスの父の自死が伝えられる。絶望は、とうの昔に発生していたのに、マティアスはじめ村人の誰もが気づかないふりをしていたのだ。
声の出なかったルディが叫ぶ。でも、その叫びで村が救われるわけでもない。ただ、一人ひとり叫ぶことが大切なのだ。差別や争いは嫌だと。
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