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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記⑥

2012-10-07 | 美術
旅の終わりはベルリンである。ドイツの首都、最大の都市、現代美術のメッカという呼称はさておき、今回の目当ては10年間も改修で閉館していたボーデ美術館(博物館)である。旧東ベルリンに位置する世界遺産「博物館島」。その一角を占めるボーデ美術館は、初代キュレーターの名前を冠したそうであるが、一介の旅人にとっては、名前の由来より立派な建物の由来こそ惹かれる。ボーデ博物館の建物が完成したのは1904年。ヨーロッパの美術館は古い建物が多いが、博物館島は、これでもかというくらいに荘厳な美術館が並び、その中でボーデはひときわ美しい。というのは他の建物は規模や重厚さでボーデを凌ぐが、ボーデの曲線はちょうどシュプレー川の中州のとがった部分にあわせて三角形の、それでいて先端は丸みを帯びた優美な姿であるからだ。10年以上前、はじめてベルリンを訪れた時、ボーデは改修中で先端の丸い建物に沿って建築用の足場とシートがかけられていたのを覚えている。いつになったら見られるのだろうかと。
中世彫刻、ビザンチン美術、北方ルネサンス…。感嘆のコレクション。そしてリーメンシュナイダーの彫刻群。筆者にリーメンシュナイダーの魅力を教えて下さった福田緑さんは(本ブログ 2012ドイツ旅行記①参照
 http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/dbe0a1c74ebe850888aa77534c34a862)ボーデの「福音史家ヨハネ」をお気に入りの作品とあげていらっしゃるが、全面的に賛同する。福音史家ヨハネは四使徒像(他にマタイ、マルコ、ルカ)の一体だが、ヨハネにまつわるおはなし=優おとこ!の美形であること、どこか線が弱く、繊細に見えること、若かったこともありイエスにこよなく可愛がられていたことなど=をあますところなく表現しているように見える。そして、ヨハネにかぎらないが、リーメンシュナイダーに特徴的などこか、愁いを帯びた表情は、後のキリスト教の数多い受難を物語っているようにも見え、ヨハネによる「黙示録」で最後はユダヤ(教)に打ち勝ち、エルサレムの地を全うしたと言えど、現代的にうがった見方をすればこのエルサレムの争奪戦こそヨハネの愁いの本質であったのではなどと余計な想像力をはたらかせてしまうほど、深い感慨をもたらすのである。
ボーデにはリーメンシュナイダーにしては可愛らしく、聖人が登場しない「歌い、演奏する天使」もある。おそらくは、祭壇や聖壇の一部としての拵えられたものかもしれないが、独立の作品としても好もしい。ほかにも勇壮な「竜と闘う聖ゲオルグ」など、ある意味、ヴュルツブルクのマインフランケン博物館やミュンヘンのバイエルン国立美術館など聖像が多いのに比べると、聖像はもちろん、その周辺・民衆の姿を彫りこんだ作品も多く、リーメンシュナイダーを巡る旅の最後にふさわしく、さまざまなリーメンシュナイダー作品に出会えて本当に幸せである(2012年9月現在、「歌い、演奏する天使」も「竜と戦う聖ゲオルグ」も日本で展示中ある=福田緑氏(http://www.geocities.jp/midfk4915/h_georg.html))。もちろん、リーメンシュナイダーの真骨頂は聖壇であると思うし、ヘルゴット教会でマリア祭壇との出会いに電撃が走ったと感じたように、その荘厳さ、大げさに言うならより神に近い領域に足を踏み入れたという意味では、個々の作品は聖壇にはかなわない。けれど、使徒一人ひとりの像、それらを取りまく天使や楡の木その他の装飾、そして聖人の細かな表情一つひとつがリーメンシュナイダーの技量と魅力を伝えているのではあるまいか。聖壇という総合芸術以前の小さな手仕事が、500年の時空を超え、私たちを魅了してやまない理由がそこにある。
リーメンシュナイダーを巡る旅は一応このボーデ博物館で終了したが、ベルリンで必ず訪れる最良の場所、ゲマルデガルリー(絵画館)も紹介しておきたい。博物館島を離れ、ポツダムプラッツ近所の文化フォーラムという新しい文化総合施設の一角にあるゲマルデガルリーは、何度か紹介しているが、13世紀の中世にはじまりヤンファンエイク、ブリューゲルやクラナッハ、デューラーなどドイツ・北方ルネサンスの逸品がてんこ盛り。ここに来るといつも「ああ、ヨーロッパ、キリスト教美術を堪能しに来てよかった」とにんまりしてしまうのだ。次に来るのはいつだろうか。ゲマルデガルリーは、筆者にキリスト教美術の魅力をおしえてくれた先生であることに変わりはない。(了)(福音史家ヨハネ)

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リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記⑤

2012-10-03 | 美術
ロマンチック街道を抜けている間はフランケンワインの名勝地ということもあり、ビールよりワインという感じであったが、ミュンヘンはウインナソーセージとビール! 残念ながら、ミュンヘンは一泊なので、料理よりバイエルン・ナショナル博物館が第一の目的。以前訪れたときにはリーメンシュナイダーのことを知らなかったので、アルテ・ピナコテークなどミュンヘン美術館街をまわっただけだった。
バイエルン・N博物館は、ミュンヘンを訪れた日本人をはじめおそらく観光客は訪れないところ。市の中心街マリエンプラッツからも少し離れていて(本当に少しだが)、 そこに足を延ばす人はいないだろう場所。ところが、これがすごい! ヨーロッパの美術館は日本人にはあまり知られていない、人気のないところでもかなりの規模であり油断ならないところが多い。バイエルン・N博物館も例外ではない。最初入った旧館とおぼしきところはリーメンシュナイダーもたった一点で、10分ほどでまわれる小さな規模。ところが、入口がすぐには分からなかった隣の本館か新館はとてつもない広さ。そこに陳列されている中世彫刻は、リーメンシュナイダーでなくとも魅入られる。15世紀末から16世紀初頭に活躍したリーメンシュナイダーをはるかにしのぐ古さ。13世紀、12世紀まである。木彫のキリスト像などはもちろん稚拙だが、何とも言えない雰囲気がある。それは、文字の読めない、印刷技術のなかった時代にいかに人々にキリスト教を教え広めようとしたか、教会や修道院などの壁に絵を描いた布教の苦難を彷彿とさせる。もちろん、現代まで残存している12世紀のキリスト像は民衆のために彫られ、日常の信仰の対象となったものではないだろう。そうであればとっくに朽ち落ちているか、略奪や薪の糧にされていてこのような完全な形で残っているとは思えないからだ。
とまれ、信仰が絶対であった時代の苦難のキリスト像はやはり美しい。おそらくは14世紀あるいはルネサンス以降、キリスト像とはこうあるべきという規範=それは、痩せこけた表情にとどまらない、磔刑にさらされる全身苦悩の、それでいてきれいな身体という決まり事=に至る中世彫刻の一つの変遷が見て取れるからである。リーメンシュナイダーと違わない時代に生きたデューラーが、自身の肖像画を後世のキリスト像として定着させたとき、キリスト像はすでに民衆の中に固定されていたのである。そこにいたる民の思うキリスト像が確立されていくのが12世紀頃までとするならば、リーメンシュナイダーの仕事は、定着したキリスト(像や他の聖人ら)の完成形を日々教会に集う信者(この時代、キリスト教信仰のない村人など考えられない)に対し、さらにその峻厳さゆえに信仰を深める役割を果たしたことは想像にかたくない。
バイエルン・N博物館でリーメンシュナイダー作品といえばやはり「天使に支えられる聖マグダレーナ」であろう。マグダレーナはもちろんマグラダのマリアのこと。「遊び女」すなわち娼婦から「悔い改め」、信仰に生き、磔刑後のキリスト復活に居合わせたというマグラダのマリアは、キリスト教美術の中でおそらくキリストの母マリアの次に描かれた女性。バイエルン・Nのそれは「神は一糸まとわぬ聖女のために毛髪(あるいは毛)でその身をおおわしめた」(植田重雄『リーメンシュナイダーの世界』)。古さと経年劣化の故か毛髪にも毛皮にも見えないマグダレーナ像は、その縮れ様がグロテスクで筆者は少し苦手である。しかし、この細かな襞を彫り上げたリーメンシュナイダーの技量には感嘆せざるを得ない。この繊細な襞一つひとつによって、15世紀の民はマグダレーナの物語を深く心に刻んでいったのであろうから。(聖ニクラウス バイエルン・ナショナル博物館)
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リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記④

2012-10-01 | 美術
ロマンチック街道の終点フュッセンにたどり着く前に世界遺産ヴィース教会に寄った。18世紀初頭農婦が譲り受けたキリスト像が突然涙を流したという奇跡を聞きつけて巡礼者が押し寄せたため、小さな教会がバロック形式のフレスコ天井画を擁した教会に生まれ変わったというもの。
主祭壇の「鞭打たれるキリスト像」は美術作品としては特に見るべきものはない。まあ、キリスト教の奇跡にまつわる聖像は、そのほとんどが美術的価値よりその「奇跡」そのものが重要で、多くは名もない農夫などが貰い受け、あるいは、捨て置かれたものを大事にしたためなどとの謂れがある。そしてキリスト像あるいはマリア像から流れる涙。それ以前に聖母マリアが現れたり、病気が癒されたり。
現在では多くの巡礼者を誘う聖地となっているところばかりで、有名なのはフランスのルルド。ルルドはいつかは行ってみたいと思っているが、筆者は「聖地」の謂れそのものよりも教会建築の方が興味があるので、ヴィース教会の天井画には圧倒された。複雑な天井画はバルコニーから下を覗きこむ天使など天空にのびる奥行きが感じられるが、実はこれが騙し絵。精巧な筆致はフレスコ画の画法がきわめて困難をきわめたことを忘れさせるほど見とれてしまう。そして、バロックはこれでなくてはと思わせるのがまたいい。大げささと繊細さと。遠く時間をかけて訪れる価値の多い場所だけに観光客も大勢いた。
フュッセンを目指したのはガラでもなく、ノイシュヴァンシュタイン城を訪れるため。シンデレラ城のモデルとなったところなど、およそ筆者にはふさわしくないが、オーストリアとの国境付近の山に壮麗なお城を建てたのはバイエルン国王ルートヴィッヒ2世。ルートヴィッヒはバイエルンの地に次々に美しい城を擁するが、城で過ごした期間はとても短いらしい。施政より耽美に生きたルートヴィッヒの遺産は、その謎の死後すぐに押し寄せた観光客によって、城が後々まで大事にされた費用をも生み出したことだろう。しかし、時代はドイツが膨大な戦後補償を余儀なくされた第1次世界大戦がはじまる前、19世紀も末のことであった。
フュッセンは、ノイシュヴァンシュタイン城の玄関口以上の特徴がある街ではない。着いたのが夕方近かったため、歩いていける博物館やらも結局行かなかったが、街自体はこじんまりしているものの商店街はそれなりのにぎわいを見せ、ドイツはどこでもそうだが清潔な感じだ。ここまで来ると観光客も、ロマンチック街道自体がそうかもしれないが、西洋人の富裕な年配層が多そう。
翌日ホーエンシュヴァンガウ城、ノイシュヴァンシュタイン城そしてリンダーホーフ城と回ったが、前日とうって変わって、一日中雨で寒いのなんの。コートが手放せなくなった。ドイツの9月は普通は寒いもの、ヴュルツブルクやローテンブルクが異常だったということ。雨で運転にも慎重に、リンダーホーフ城が思いのほか遠かったこともあり、十分過ごすことはできなかったが、リンダーホーフ城は庭も立派で天気がよければ半日ぶらぶらしたくなるところ。ノイシュヴァンシュタイン城など山城はどうしても庭がさびしい。ヴェルサイユをはじめ平城の魅力は庭にある。まだまだ知らない宮殿、お城をいっぱい訪れたいものだ。この日はリーメンシュナイダーには出会わず仕舞だったが、目指すはドイツ3番目の都会ミュンヘン。疲れるドライブも終わりだ。明日はバイエルン博物館のリーメンシュナイダーに会いに行こう。(ヴィース教会)
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リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記③

2012-09-29 | 美術
ローテンブルクはロマンチック街道一の人気のスポット。街は城塞の中だけならほんの2、30分もあれば端から端まで周れそうな規模である。前日に滞在したヴュルツブルクもそうだったが、このローテンブルクも9月のドイツとは思えないほど暑かった。街を歩くにもペットボトルの水が欠かせないほど。歩くのも大儀になってきた。
そのような予想外の暑さに負けてしまったわけではないが、残念だったのは聖ヤコブ教会のリーメンシュナイダー作「聖血の祭壇」にたどり着けなかったこと。どうも聖ヤコブ教会を訪れたとき、教会は開放している場所が制限されていて「聖血の祭壇」へはその日は行けなかったのだ。とても残念だが、ヨーロッパの教会や美術館等ではよくあること。事前のお知らせもなかったり、あっても、サイトではドイツ語だけで見つけられなかったのかもしれない。
昼間の暑さを避けて一旦ホテルで休んであらためて旧市街の町中へ。思い直して、福田緑さんに教えていただいたリーメンシュナイダーの作品のある小さな教会を二つ。フランシスコ教会は『地球の歩き方』では教会の場所だけ記載されていてなんの説明もない観光地ではない地元の教会。そこにあるのが「聖フランシスコ祭壇」。聖フランシスコは福田さんによれば「聖フランキスクス」という名でイタリアはアッシジの裕福な生まれ。鳥と会話できたという(『祈りの彫刻 リーマンシュナイダーを歩く』(丸善プラネット 2008年)。13世紀初頭に活動した聖フランシスコは伝説も多く、ジョットの祭壇画にも頻出する。その聖フランシスコが驚いている様は、福田さん前掲書によればキリストと同じ聖痕がついている。そこまではよく分からなかったが、相方のレオ修道士が聖フランシスコの様に頭を抱えているので、おそらくはキリスト受難の場面を同時的に看取したのであろうが、詳細は不明である。福田さんのおっしゃるようにリーメンシュナイダーにしては少し、「ずいぶん明るい感じ」ではるが、彩色されていること、表情が他の代表的作品に比して峻厳に見えなかったことによるかもしれない。しかし、聖フランシスコはイタリア以外では描かれたことは少ないらしく(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』)、そのような聖フランシスコ像を分かりやすく(聖痕や腰帯は典型)、イタリア外で彫り表わそうとしたリーメンシュナイダーの仕事の誠実さにあらためて思い馳せてしまうのである。
フランシスコ教会から北へ5分ほど。城外すぐの聖ヴォルフガング教会はさらにひなびたところ。所在無げにたばこを吸っていたおじさんが、私たちが訪れてきたのを見ると受付に変身。誰もいない。打ちつけの修復作業中(?)の建物内にほこりで汚れた椅子。はたして、信者が毎日あるいは毎週礼拝しているのだろうか。残念ながら「これがリーメンシュナイダーの!」という感動的作品ではなく、ありきたりの祭壇像であった。よく見るとリーメンシュナイダーの作かどうかも筆者には見分ける技量もなく、見過ごしそうなものである。ただ、生涯にあれだけの彫像を遺したリーメンシュナイダーであるから、目見開かされる作品ばかりでもないのも事実である。むしろ作品全体においては教会に納められた祭壇(像)のほうが少ないので、リーメンシュナイダー自身の事情(ちなみにこの聖ヴォルフガング祭壇は福田さんによれば1514年作で盛期とは言えない)、教会側、そして時代状況などさまざま事情により、秀作が納められる条件にはなかったのかもしれない。
ローテンブルクは人気のある町だけであって、日本人観光客も多かったが、街の雰囲気を楽しむ以外はそれほど大きな観光名所があるわけでもない。どうも街の規模以上に土産物屋が乱立していて、さながら倉敷のよう。倉敷ほど俗化しているとも思えないが、聖ヤコブ教会をはじめ、そこにある美術作品を楽しめないとローテンブルクそのもので過ごす時間はむしろもてあますのではないか。ときに大勢でやってくるバスツアーが、ロマンチック街道一の美しい街を2時間そこらで去っていくその理由も分かった、小さなリーメンシュナイダーと出会いであった。(聖フランシスコ祭壇)
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リーメンシュナイダーを巡る旅 2012ドイツ旅行記②

2012-09-23 | 美術
リーメンシュナイダーは「中世最後の彫刻家」と言われる(『リーメンシュナイダー 中世最後の彫刻家』高柳誠著)。なぜそう呼ばれるのであろうか。まず「中世」。ヨーロッパではルネサンス以前、15世紀頃までを指すが、日本では安土桃山と江戸時代を近世という呼び方をしており、中世というとえらく古い時代のように思える。もちろんヨーロッパでも中世は古い時代に違いないのであるが、ルネサンスの時代は同時に、マルティン・ルターにはじまる宗教改革、後にプロテスタントと呼ばれるキリスト教原理主義が勃興した時代であり、美術史的にはそれ以前の豪勢な教会建築・教会美術が廃れていく時代でもある。であるから、15世紀末から16世紀初頭に活躍したリーメンシュナイダーの仕事は大変貴重であり、彼の後に、キリスト教を主題とした重々しく、壮大な彫刻はあまり造られなかったという点でまさしく「中世の彫刻家」なのである。
ヴュルツブルクを出て、ローテンブルクに向かう途中で小さな街クレクリンゲンを訪れたのは、リーメンシュナイダーの傑作「聖母マリアの祭壇」に見えるためである。ヘルゴット教会は街自体も小さいのに、その市街地からさらに2キロほど離れたところにある。ただ、教会のそばにヨーロッパバスの停留所があり、訪れる人は訪れる場所であるらしい。雰囲気のある墓碑が立つ墓地を横目に教会に向かう。小さな建物の入口は空いていて、受付兼販売係の女性が、私たちの姿を見るとあわてて教会内に入り「ウエルカム」という。入口をくぐり、ああここで入場料を払うのだなと思い、財布を空け、振り返ると息を吞み、声をあげた。「これが…」。
教会は本当に小さい。信者が座り、跪く席は100もないのではないか。神父の説教席も立派ではない。しかし、教会の中央にそびえる祭壇は、祭壇が教会のためにあるのではなく、教会が祭壇を風雪から守るためにこしらえられたことが分かるようだ。この空間すべてが祭壇のためにあり、訪れる人はこの祭壇に最大限の敬意を払い、神聖な教会内部であるという以前に、この祭壇の前では一言も発してはならないのだ。「すばらしい」と心の中で小さくつぶやく以外には。
高さ9メートル20センチ、幅4メートルの菩提樹の祭壇は、世界中無数にある祭壇の中でも屈指の美しさと厳粛なたたずまいを備えているに違いない。もちろん他のすぐれた祭壇を知っているわけではないが、例えばヤン・ファン・エイクのゲント祭壇画は「聖母マリア」より60年ほど古いが、その色合いの素晴らしさに惹かれてしまうが、「聖母マリア」は木目そのままである。
「マリア祭壇」は、中央の昇天するマリア像とその下方に12使徒、上方の厨子は昇天したマリアと左右に神とキリストの「聖母戴冠」、左右の翼は左下に「受胎告知」、左上はマリアの「エリザベト訪問」、右上は「イエス誕生」、右下に「神殿参拝」。この祭壇でイエスの誕生以前から、昇天までマリアの物語の全てが語られている。マリアの悲嘆を示すキリスト磔刑や降架の図がないのは、この祭壇が「マリア祭壇」であって、イエスの祭壇ではないためだろう。
ブロックあるいは翼一つひとつの美しさに言及するのは筆者の力に余るし、また、陳腐なことばを重ねるくらいなら、この「マリア祭壇」全体に圧倒された余韻をできるだけ伝えた方がよいと思う。その細かな細工は言うに及ばず、マリアも、12使徒もきちんと彫り分けられた表情に出会うとき、ことばなどいらない。なぜこれほど厳かであるのか、生真面目ほど美しくあるのか。そして彼らはことばを発している以上にことばを超えているように思えるのか。
リーメンシュナイダーの塑像はすべて目を見開き、その目が多くを語っているように見える。それは、キリスト教が定着して1200年、強大な教会権力が腐敗していく中で、ルターらの宗教改革前夜、信仰に生きるとはイエスとマリアの物語以上でも以下でもなく、また信仰に生きた人に思いを馳せること(リーメンシュナイダーには聖人像作品も多い)、そしてきらびやかな、大金を集め贅を尽くした教会ではなく、地元の村の小さな教会で祈ることだけであったのではないか。
プロテスタントという枠組みが次第に生成していく中で、祈りの原点に戻れとカソリックの時代(もちろんカソリックという呼び名はないが)に「最後の」彫刻家として生きたリーメンシュナイダー。そのノミの跡は冷たく、そして温かく想像力を刺激してやまない。(聖母マリアの祭壇)
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リーメンシュナイダーを巡る旅  2012ドイツ旅行記①

2012-09-17 | 美術

まず、今回ティルマン・リーメンシュナイダーの作品を辿る旅となったきっかけの一つであり、膨大な量の彼の作品を網羅・整理し、たくさんの情報を提供してくださった福田緑氏に感謝したい。(福田さんのサイト「リーメンシュナイダーを歩く」も必見  
 http://www.geocities.jp/midfk4915/j_top.html)
今回の旅は、いつものようにヨーロッパの比較的都会の美術館を周るのではなく、リーメンシュナイダーの作品を安置する地方の美術館や教会を目指したため、レンタカーを借り自分で移動することにした。これが結構大変で、日本でもあまり運転しない自分が左ハンドルで右側通行することになろうとは。しかし左ハンドルは、違和感があったのは最初だけでそれほど苦ではなかったが、AT車を希望したため、予約していたレベルでの車の空きがなく(ドイツではミッション車が主流)、グレードアップしてくれたのが問題だった。スウェーデンはVOLVOにしてくれたのだが、これが大きい。背が低く、短足のわが身は日本でレンタカーを借りる時も比較的小さな車種にしているし、果たしてアクセルに足が届くだろうか…。なんとか席を前にずらして足は届いたのだが、車幅感覚が最後までつかめなかった。車の右側をぶつけそうになったことも何度か。しかし選んだ道、さあ、リーメンシュナイダー 祈りの彫刻に会いに行こう!
リーメンシュナイダーが市長まで務めたロマンチック街道の起点ヴュルツブルク。マリエンベルク要塞の一角がマインフランケン博物館となっており、ここにはリーメンシュナイダーだけの展示室がある。
80点もほどのリーメンシュナイダー作品に囲まれる至福は想像しがたいかもしれないが、一部屋すべてがただ一人の作品というのは、たとえばオルセーでドガの部屋があるとか、ロートレックの間があるとか、絵画の世界では普通だが、彫刻では珍しいのではないか。チューリッヒ美術館にはジャコメッティの部屋があるが、ここは中世彫刻、マリアをはじめキリスト教にかかわる作品ばかりである。しかも、後の時代に教会に寄進した貴族らの彫像といったものは一切なく、すべて聖人である。そして岩彫りもあるが、その多くは木彫、菩提樹である。木彫の美しさ、温かさ、清貧さといったらいいだろうか、その峻厳性はすぐれた木彫りの仏像多く持つ日本では理解されるだろうか。というのは、言うまでもなく西欧は石の文化。リーメンシュナイダーが活躍した15世紀末から16世紀初頭といえば、イタリアルネサンスの盛期が花開く直前、すでに彫刻は石が主流だったからだ。そして、日本では室町時代、戦国時代。どんな仏師や仏像も思い浮かばないところが悲しいが、少なくともリーメンシュナイダーに匹敵するほどの作品数とその崇高性を超える彫刻家がいたとは思えない。
改めてマインフランケン美術館の部屋に踏み出せば、正面にアダムとエヴァ像。その少年・少女性が感じられる若々しさと楽園を追われる前の好奇心と戸惑い、人類の起源を背負うにはあまりにも弱弱しい躯体に、後世の人類たるこちらの方から手を差し伸べたくなる脆さ。もっとも砂岩でできていて屋外にあったため浸食が激しかったものを今日マインフランケンに移設したというから、その脆き様相は表情ばかりのせいではないのかもしれない。けれど、リーメンシュナイダーがこの作品をもって認められ、ヴュルツブルクの市参事(市会議員みたいなものか?)後に市長に選ばれるのであるから記念碑的な先品には違いない。
マインフランケンのこの部屋にはアダムとエヴァ像以外にも惹きつけられる作品がたくさんある。一つひとつ紹介したいが、その能力がないのがまた悲しい。(続く)(アダム像とエヴァ像)
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近代絵画の新しい楽しみ方  「美術をみる8つのポイント」展

2012-04-06 | 美術
美術館が常設展の入れ替えで勝負するとき、要は収蔵作品の豊かさとそれをプレゼンテーションできる学芸員の力量によるものが多いと考えられる。
「美術をみる8つのポイント」展は、県立美術館が「原田の森」の地にあったときから集めた作品群が豊かであること、それらをみせる工夫を学芸員が知恵を絞っていることがとてもわかって好もしい。日本の近代化絵画の渓流、暖流を切り取ってみてみようという試みは、日本の近代絵画が、西洋のそれと比して決して遅れていないことを表す証となっていることを示すものだ。8つのポイントの一つひとつをみてみよう。
「1 いちばんリアルな絵はどれ?」。リアルとはここでは、現実の対象をいかに表現し得つくしているかにある。たとえば、神戸が誇る近代絵画の巨匠、小磯良平の絵は(今回は取り上げられていないが)、分かりやすいリアリズムの極致である。いかに近代技術の粋である写真に近づけるか、写真に負けない画を描くか。写実とはかくありなんとの筆致に画家の実力が問われていると、美術初心者にも分かりやすい題材ではある。
「2 イズムを読みとれるか?」。キュビズム、フォービスム、シュルレアリスム、未来派。展示ではどの絵がどのカテゴリーに分類されているかクイズ形式になっているが、クイズそのものは難しくはない。むしろ日本の近代絵画だけを取り上げているのに、日本に「未来派」が勃興していたとは驚きである。言うまでもなく未来派はイタリアの前衛芸術運動。絵画の世界では「カンヴァスに我々が再現するのはもはや止まった瞬間であってはならない…」(未来派宣言)と高らかにうたわれたことからも分かるように機械的な連続画で、ボッチョーニ、カッラやバッラなど極端な展開構成である。イタリアではないフランスのドローネーにおいて、一応の完成を見るが、ドローネーの手法は戦後アメリカのミニマリズムにつながっていくことから分かるように一時の実験的描法でないことは明らかである。
「3 どんな事件/体験? どんな記憶/記録?」。いろいろな作品が出展されているが、体験の重みという点では浜田知明の「初年兵哀歌」が秀逸である。20代のほとんどを軍隊生活で費やした浜田は、軍隊の不条理を簡明なタッチで余すところなく伝えている。線画ともおぼしき銅版画は、浜田の経験した過酷な体験を突き刺すような細い線、シンプルであるからこそ伝わる痛さ、みたいなものを十二分に表現しつくしていて、それでいて滑稽さをさそう。兵庫県立美術館であるから当然、阪神・淡路大震災をテーマにした作品も多い。ただ、説明がないと分かりにくいのであれば、鑑賞者が作品に共感、思い入れを込められない場合もあり、作家とその表現方法・能力が問われる。
「4 どんな動きがかくれている?」。具体のメンバー白髪一雄が足で描画をはじめたのは有名なので、大きな筆とはまた違う迫力にいつ見ても感心させられる。アクションペインティングの流れをひく嶋本昭三(絵の具の入ったガラス瓶を投げて飛び散らせる)、今井俊満(フランスでアンフォルメ運動に参加)らの実験は、時代を意識させるが、今となっては具体ほどの新しさはないように思える。
「5 どれがいちばんモダニズム絵画?」。これは結構難しい。モダニズムという場合広義ではパリを中心としたアカデミズム画壇に対抗するものとして始まり、印象派以降、フォービズムやキュビズム、戦後のミニマルアートまでその守備範囲は広く、日本では主に戦前からの抽象絵画を指すものとして「モダニズム」と一口に言っても、想起する範囲が違うからである。そういった「抽象」の範疇で考えるなら、具体がなしたハプニングなどよりももっと描画や立体に徹底したものと言え、その時々の新しさというよりむしろその後の画壇を牽引するかもしれない普遍的な香りがモダニズム作品には不可欠にように思える。そういった目で見ると菅井及はいたってモダンで、ミニマルアートぽいし、今見ても古びないのは、ミニマルアートは極限までそぎ落とした分、簡明さや印象は絵画の普遍を構成するからだろう。
「6 どんな考えかを考えてみる?」。ここでは高松次郎、河口達夫、植松奎二ら見る者の想像力をかき立てるときに不思議な空間、映像、立体が現出する。それは、抽象ではなくきわめて具体的かつ現実的なものだ。高松の影(絵)、河口の星の軌跡を追った写真群、植松の金属やその他の素材を使った彫刻など作者の意図するところを推し量ると、こっちが迷宮に入り込みそうで心地よい。
「7 何のイメージ?」。森村泰昌ら現在活動、活躍するコンテンポラリーな話題提供として現実を切り取って見せた試みを楽しめるが、おもしろさが前面にでている分、「6 どんな…」に比して深さに足りない部分があると感じるのはいたし方ないことか。
「8 景色をどう切りとるか?」。西洋で風景画・風俗画が発達するのは、美術を楽しむ層が宗教画をありたがる教会や王侯貴族から庶民に移ったバロック期以降であるのに比べて、日本では仏画などとは別に花鳥風月を楽しむ歴史があるという。そういったバックボーンが日本の現代絵画や建築にどう影響しているかいないか分からないが、少なくとも美術が王族その他の一部の特権階級のものでない現代、楽しみ方はさまざまで、その前提として見やすさ、気安さ、近寄りやすさは美術に対する裾野をますます広げるに違いない。
今回の「8つのポイント」は、前述のとおり県美の財産が豊富であるのが幸いの楽しい企画であるとともに、見せる工夫のための切り取り方に感心してしまう。自分なりに8つ以上のポイントを探し出して近代絵画を楽しみたい。(坂田一男 「女と植木鉢」)
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解剖と変容 アール・ブリュットの極北へ 兵庫県立美術館

2012-03-13 | 美術
「理解する」とはどういうことだろうか。たとえば日本では印象派以降の絵画や、それより古いフェルメールなどは描いている対象などが「理解できる」が、西洋絵画の本流、キリスト教絵画は理解できないからそれほど人気はない。あるいは、近代以降の抽象芸術は同じく「理解できない」から受け入れられない。もちろんダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」であるとか、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」であるとかはあまりにも有名なので、キリスト教や抽象芸術に造詣がなくともありたがって鑑賞するが、それとて「理解している」とは言い難い。そしてそもそも芸術、特に美術に「理解」は必要なのか。
アール・ブリュットとはフランスのジャン・デュビュッフェが命名した主に知的障がい者や精神障がい者など正規の美術教育を受けたことがない人たちの創作活動を指す。そこには「作り手が鑑賞者を意識することなく、自らのためだけに制作したのであるから、それを展示する行為には矛盾があるのではないかとの批判が一部にはある」。(本展図録より 兵庫県立美術館学芸員服部正氏の「はじめに」)しかし、根本的に見られることを欲しない表現活動(美術)に一度触れた者は、商業ベースに乗るかどうかは人によるとしても、放ってはおかないだろう、アール・ブリュットを。
アール・ブリュットは「生の芸術」と訳される。「生」を「せい」と読むか、「なま」と読むか、はたまた「き」と読むか。「き」と読むのが、一般的ともされるが「せい」ではだめなのか、「なま」ではだめなのか。要するに、正式な美術教育を受けていない、ことを指すために「き」と呼び、いわば手垢のついていない、処女地のような芸術と言い表したいのだろう。
ルボシュ・プルニーもアンナ・ゼマーンコヴァーもそういった意味では「き」を十分に感じさせる。プルニーは人体解剖に異様なまでと思えるほど興味をもち、自身の像もカップルも、ファミリーもすべて細かな血管で結ばれている。ときに性器を強調したそのさまは、「き」ではなく「せい」にとてつもなく興味があるようにさえ思える。ただ、性器を強調しようが、自らの肉体に縫い針を打とうが、人体に興味があったことの結晶であり、血管を紡いでいるよう見えて、そこにはあたたかなつながりさえ感じられる。カラフルさも含めてそこにはグロテスクさはない。それは、アール・ブリュットの本質、見せるためのドローイングではなく、自分ための歴史記述であるからなのだろう。ゼマーンコヴァーの画業はうって変わって、大地に根付く植物など、生き物への畏敬にあふれている。それは時に植物を超えて、おどろおどろした妖怪、奇怪な食虫植物とも見え、ジョージア・オキーフのエネルギー倍加した絢爛豪華な造形にあふれている。そして、プルニーにしてもゼマーンコヴァーにしても、ヒンズーやチベットの細密画も違う意味で脱帽の人間技とは思えない細かな筆さばきに驚嘆するばかりだ。
展覧会と同時開催(上映)の映画「天空の赤―アール・ブリュット試論」は、アール・ブリュットのコレクター、ブリュノ・ドゥシャルムがアール・ブリュットの作家たち、それらを評する人たちを描いたドキュメンタリーだが、そこに出演するのはおよそ常人の想像の域を超えている。しかし、精神障がいや知的障がい、発達障がいなどと「障がい」ひとくくりでアール・ブリュットが語り尽くせるほど、その奥が浅くはないことを思い知らされる。
スイスはローザンヌのアール・ブリュット美術館はジャン・デュビュッフェが母国フランスでのアール・ブリュットに対する理解のなさやごたごたですべてを寄付した曰くあり、興味深い美術館だが、規模は小さい。しかし、先述の細密画や大胆な造形など、それがアール・ブリュットとは分からないほど「美術」世界に溶け込んだ作品の数々で日本人作家のものも多い。美術を評価するのはだれか、理解するのはだれか。それは作り手を高みで見ているあいだは正当な立ち位置にはなり得ないことを示しているのが、今回の「解剖と変容」展の感想である。(ルボシュ・プルニー「無題」)
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スペイン・ポルトガル美術紀行2012(5)

2012-03-08 | 美術
今回、スペインに再び行こうと思ったのはここに来たかったから。バルセロナからフランス国境近くまで2時間半。思ったより都会だったが、帰りの道は迷ってしまい地元の人が行き交う青空市場は周れず仕舞。それでもここまで来てよかったと思わせる何かがある。カタルーニャが生んだ奇才ダリの劇場美術館があるからである。
サルバドール・ダリ。シュルレアリズムの巨匠と呼ぶか、近代絵画のディスコンストラクションかの評価はさておき、ダリの絵は、発想は人を惹きつける。別にダリにとても興味があったわけではないし、ダリの一つひとつの作品が好きであった訳ではない。ぐにゃりとした時計とか、なんなのかよく分からない物体の連続とか、ダリの絵は別に美しくはない。美しいとはきわめて主観的感想なので、絵画に限らずダリの作業そのものが美しいか、そうでないかと問われると難しいが、少なくともダリの作品群たる劇場は面白い。
劇場というくらいであるからここは美術館ではなくダリの劇場である。ダリが愛した一番は妻であるガラ。そして奇妙に思えるかもしれないがキリスト教。当時パリの画壇を詩人の妻でありながらエルンストと愛人関係をつくっていたガラが10歳年下のダリを夢中にさせる。そして、ダリと結婚し、若い愛人を渡り歩いたのにガラは生涯ダリのもとを去らなかった。ダリにとってインスピレーションの源であったガラは、言わばダリにとってのミューズであり、聖母。マリアに模した肖像画や昇天するさまを描いた絵も多い。興味深いのは、ダリがガラを聖母視していたためかどうかは分からないが、あれだけ猥雑な作品を遺したのに、性器をフィーチャーしたり、あからさまにセックスを想起させるようなものは少ないということだ。もちろん、人間とも実際には存在しない怪物とも見える異形の生き物が自らを引き延ばし、苦痛にもだえるあの有名な作品(たしかポンピドゥーセンター蔵)は性衝動の快感とも解釈できるが、ピカソなどキュビズム(期)の画家が、ときに性器を誇張したのに比べ、ずいぶん保守的である。とはいえ、ダリのディスコンストラクションは自らが持っていた信仰キリスト教にも及ぶ。繰り返し描かれるガラは聖母、磔刑像に違いないと思える彫刻、最後の審判で阿鼻叫喚を示すさまざまな群像(彫刻あるいはレリーフ)。ダリ自身は自分の信仰について詳しく語ったとことはないとされる割には戦後カソリックに帰依し、シュルレアリズムの激烈な紹介者アンドレ・ブルトンと袂を分かったあとは、フィゲラスの地でガラが中心の生活を静かに過ごしたことからも分かるように、表現の珍奇さとは裏腹にある意味保守的な人であったのかもしれない。
ダリの画業は「劇場」である。その劇場を構成する要素と、アイデアにあふれていたからこそ劇場が完成したのであり、ときに、唯我独尊、独りよがりとまみえるダリの世界は、ここフィゲラスでこの美術館まで来なければ味わえない代物でもある。筆者が訪れた際には、結構高校生くらいの若い人たちが学習のために?来ていた。超現実主義とは「現実」があってこそ理解できる「主義」であるならば、ダリを見据えて「超」が以外に身近に感じられるダリ劇場美術館なのである。(卵でおなじみのダリ劇場美術館) この項おわり






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スペイン・ポルトガル美術紀行2012(4)

2012-02-27 | 美術
飛行機で夕方着いてホテルに直行したが、ご飯のためにだけあまり遠出する気にもならなかった。バルセロナの最初の夜はホテルから歩いてすぐのバールに入ったがひどかった。食べ物はまあ許せるとしても、ワインはひね味だけ。以前からスペインのワインはクセを感じると思っていたが、供された白は旨味を全部取り除いてクセだけを飲んでいるよう。まあ、ビール、鳥団子のカレー風味、ワインで800円くらいだから仕方ない。ホテルの最寄り駅はユニベルシュタット。バルセロナ大学の近所であるので学生も多いし、観光客というより貧乏大学生が行きつけのバールも多いのだろう。件のバールでは、若いカップルがコーラだけ飲んで過ごしていた。
バルセロナの2日目は体調に自信が持てないので、朝サグラダファミリアに行った後は、カタルーニャ美術館のように市街地から少し離れたところは止めにして、ホテルまで徒歩圏内で済ませることにした。フレデリック・マレー美術館はカテドラルのそばにあり、旧市街の雰囲気は抜群。ただ、前回バルセロナを訪れた際チェックできていなかったのは、長い間改装中であったかららしい。「地球の歩き方」でも改装閉鎖中のままであったが、ウエブで調べて開いているのが分かったので訪れてみた。これがすばらしい。中世の磔刑像など彫刻がわんさか。壁一面に14世紀~15世紀の磔刑像が並ぶ様は壮観である。そのどれもが美しい。美しいとは、500、600年の歳月に耐えた木材の選定、鑿の技術、色合い、そのどれをとっても妥協を許さなかった彫り人の矜持と、作品を遺し続けてきた信者や美術愛好者、あるいは教会や部屋の片隅にあったみすぼらしい塑像を守り続けた市井の一人ひとりの思いが凝縮されていると感じるからだ。いつかドイツ中世彫刻の巨匠リーメンシュナイダーの作品を見て回りたいと思っていているが、リーメンシュナイダーまでいかないまでも、フレデリック・マレーの集めた作品群は、リーメンシュナイダーまでには到達しなかった中世の名前もほとんど残っていない作者の表現の稚拙さと心意気、それを5世紀の時空を超えて遺した先人の思いこそ美しい。
 フレデリック・マレー美術館は、中世彫刻の収集家というより、コレクターとはそこまでやるかという異常なコレクターの城である。中世彫刻以外は刀剣だの、鍵だの、ミニアチュアなど(これがまた、現在の巧緻フィギュアの源泉だと思うとその技術に感嘆するばかり)集めまくり、近代ではタバコの包装紙や、ジオラマの騎兵隊、デゲレオタイプの印画紙、爪切りや安っぽい包装紙までありとあらゆるものを集めまくっている。収集癖というのは後世に美しいと感じるものから、大量生産の時代の余計なものまでやたらめったら集めまくることだと納得。文化遺産が「遺す」という意味を持つことを実感したひとときであった。(フレデリック・マレー美術館に居並ぶマリア像)
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