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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

グランドデザインの脱・社会性   イサム・ノグチ展

2006-07-26 | 美術
モエレ沼公園にはぜひ行ってみたいと思う。イサム・ノグチがそのグランドデザインの集大成とも言えるべき作品を遺し、それが死後実現されたからだけというわけではない。写真や映像でしか見たことはないが、モエレ沼公園はなにかしら惹かれるものがあるのだ、なにかこう、子どもが奈良の若草山の芝生にごろごろとでんぐり返りをするような、大人になってもそれを体験したいような、広く、あたたかく、なだらかな雰囲気がモエレ沼にはあふれているような気がしたのだ。そしてそこにはニューヨークのイサム・ノグチ美術館にはない尊大ではなく壮大な雰囲気を感じるのだ。
一方、イサム・ノグチがブランクーシの影響を多大に受けているというのは気がついていた。幾何学的、工業的ともまみえる大理石、あるいはブロンズの作品はおよそロダンが築いた近代社会を迎える人間の懊悩や、近代以前の人間の本来的に持つ苦悩(それがダンテの神曲に最大限負ったとしても)を表現した「近代彫刻」をも超えているのは明らかだ。
ただ、ボッチョーニらの未来派でもなくブランクーシはいわば人が持つ(と信じたい、あるいは信じたい)とされるある種の「崇高さ」に賭けたのだ、と思える。「空間の鳥」を(ポンピドーセンター)は、鳥ではない。磨きぬかれた尖状の黄金色に輝くブロンズが鳥であるわけがない。が、あの突き抜けた方向性、今にも飛び立たんとする躍動感は紛れもなく鳥なのだ。
イサム・ノグチの作品はブランクーシと違い、躍動感で勝負したものは少ないと思える。しかし逆に大地に拘ったのかもしれない。イサム・ノグチの作品には太陽や「無限」をモチーフにしたものが多い。日本人の父親、アメリカ人の母親のもとに生まれ、常に自己の依るべきところ、立ち位置を模索した彼のアイデンティファイを想像し、作品課題に探すことは容易い。が、イサム・ノグチは本当に自己のアイデンティティ・クライシス故に太陽や大地に回答を求めたのか。否。
後年彼の手がけたプレイグラウンドは多い。そのどれもが直線の中に曲線が見事に融和しているのがわかる。ガウディやバッサーと違うところだ。曲線=自由ばかりであると人間はときに不安だ。人間はときに直線=管理を心地よいと思うし、またそれがないと不安なときもある。しかしノグチが直線=管理から放たれようとした生き方、時に曲線世界に生きるということ、こそグランドデザインの発想の源ではなかったか。
そこには国家や偉い人たちなど思惑など超えた自然とのつきあいが展望されてるとというのは言い過ぎだろうか。モエレ沼公園はもともとゴミ埋め立て地である。
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フジタワールドで薄められたもの 藤田嗣治 展

2006-07-14 | 美術
今年は藤田嗣治の生誕120年ということで大々的な回顧展が催され、テレビや書籍/雑誌などでもよく取り上げられている。日本を離れ、フランス人として没したフジタはエコール・ド・パリの代表的な画家としてその世界的評価は高いと言う。確かに日本人でパリに渡った画家は多いが、これほど成功し、国外で名声をはした画家はフジタをおいて他にいないだろう。フジタの技量の高さは作品群を見ればよく理解できる。
今回、フジタが取り上げられたのには二つの意味があるように思える。一つは、フジタの画業がその戦争協力故に正当に評価されなかったことに対する純粋美術的観点からの再評価という点。いま一つは、イラクに自衛隊が出兵、憲法9条の「改正」が企図される今日の政治的状況の中での日中戦争や太平洋戦争を描いた画家(画業)の称揚という点。2点目については異論もあるだろう。けれど、なにかと15年戦争を「聖戦」と言いたい人たちにとっては、芸術的成功をおさめ、すでにばりばりの西洋かぶれ(フランスはもちろんドイツに占領された(連合国)側である)であったフジタも日本人として国に尽くすと言うことを画家として示した点を取り上げたいのではなかろうか。
1940年に帰国し、従軍画家として働き始めたフジタはすでに世界的に有名、その力を十分に認められたから従軍画家を要請されたのだった。無名画家が国威発揚、軍の戦果鼓吹に利用されるわけがない。そして乳白色の女性像の達人としてその並外れたデッサン力は戦争絵画に遺憾なく発揮されたのである。
「アッツ島玉砕」(1943年)は、フジタの戦争絵画の中でも特に有名で、「フジタの絵は、戦争絵画以外はすべてクズだ。」(州之内徹の発言 『戦争と美術』司修 著 岩波新書)と言わしめるほど迫力に満ちていて、印象主義が欧州画壇を席巻後、20世紀を境にキュビズムやシュルレアリズムが全盛の世の中でドラクロアやジェリコを彷彿とさせるほど迫力のあるロマン主義的戦争画をものにしたのはフジタ以外にはない、という事実があるのかもしれない。が、「アッツ島玉砕」を代表作としてフジタの戦争中の画業と言えば「大東亜戦争画」の数々である。
「大東亜戦争画」というのは、当時「聖戦美術」として従軍画家らに数多く描かれ、戦後国立西洋美術館などに封印された作品群である。今回、「アッツ島玉砕」もその代表作として封印が解かれたわけであるが、ナチスドイツに積極的に協力した画家たちの作品が、善し悪しは別にして今だ封印されていることの違いはとても興味深い、
「アッツ島玉砕」は一作品として見るならば確かに迫力のある描写である。この作品について戦場の臨場感を伝え、むしろフジタの反戦的意図さえ垣間見えると言う向きもあるようであるが、そうは思えない。というのは2度の大戦を経験し、その「反軍的描写」によってナチスに迫害された画家、オットー・ディックスの作品と比べてみるとフジタの絵はあまりにも美しいからだ。
第1次大戦後、戦場の模様を描きただしたディックスは、毒ガスや塹壕など近代戦争の完成形である第1次大戦の悲惨な現場を、醜悪なものとして描き切った。それもそのはず、ディックスは第2次大戦にも従軍しているが「従軍画家」などという恵まれた境遇ではない一兵士として従軍したからだ。
フジタには戦争の美しい(と戦意鼓舞される)場面しか見えていない。いや、そのような画面しか描くことを許されなかったのでもあろう。が、しかし、すぐれた技量を持つが故に、乳白色の美人像や渡世の素人の逞しい様を描くように、戦争の実態を上から見下ろし描いたのがフジタの戦争協力ではなかったか。
フジタの再評価は大事である。戦後、猪熊弦一郎らとともに「美術家の戦争責任」の矢面に立たされたフジタは、そのような日本画壇に嫌気がさし49年フランスへ出国、55年フランス国籍を取得し二度と日本の地を踏まなかった。そのようなフジタの行動の、戦争責任追及からの脱出とも見える行動の再点検=画業の俯瞰的評価と、フジタの能力の再評価(乳白色の裸婦像はやはり「美しく」、フジタの好んだ猫の姿はとても愛くるしく、そして怖い)とは別物であるはずである。
今回の「藤田嗣治展」で抜け落ちている視点とは、言わば「悔恨の曇りのなさ」なのである。

「(藤田は)戦争ゴッコに夢中になり、画面(『アッツ島玉砕』の図)の横に立って大真面目な芝居を娯しんでいるのではなかったか」(野見山暁治)。
コメント (3)
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神戸長田のくず鉄業界にこの男あり!  その男・榎忠(エノチュウ)

2006-04-16 | 美術
美術がアートと呼ばれ、美術家がアーティストと名乗るようになったのはおそらくここ10、20年くらいだろう。最近台頭している比較的若い芸術家は自らアーティストと名乗っているようであるし、反対にある程度年配の人は美術家であるような気がする。前者の代表が村上隆であり、後者の代表が森村泰昌である。と言ってもこれは筆者の感じ方で、厳密にはどうであるわからない。そして他人があんたはアーティストとは言えないなんて否定することはできない。
昨年会社を定年退職し(彼がサラリーマンだったというのも驚きだが)たエノチュウは自分では「美術」という言葉をよく使うが、紛れもなくアーティストであり、アクティビストであり、パファーマーである。と横文字を並べたのはエノチュウの「作品」が「美術」や「芸術」では納まらないからだ。
1944年香川県善通寺で生まれ、神戸を舞台にずっと活動を続けてきたエノチュウは、鴨居玲らと親交があったが、その頃吉原治良ら関西で活動していた「具体美術協会」が集団でパファーマンスをしていたのと違って、基本的には単独の作品が多い。 今から見ると「具体」も相当ぶっとんだ活動をしていたようだが、エノチュウの行動もスゴイ。腹部と背中に大阪万博のシンボルマークを焼き付けてふんどし一枚で銀座のホコ天を歩いた「裸のハプニング」(70年)。有名な「ハンガリー国へ半刈り(ハンガリ)で行く」(77年)など。エノチュウのすごいところは、奇抜なアクションを繰り返しているだけではなく、今で言うインスタッレーション、巨大な鉄の模型?など見る者の目を奪う作品も残していることだ。いや、残っていないものも多く今となっては写真や映像でしか確かめられないので、正確には残すことを意識せずに「つくった」ということだろう。
「目を奪う」というのはどう表現していいかわからないが、エノチュウの無骨な鉄の塊には見とれてしまうということだ。大砲をつくったり、廃材を寄せ集め1年がかりで完成させた「スペースロブスターP-81」など。そして今回のために製作され、キリンプラザに展示されている「RPMー1200」。意味がわからなかったり、何を表しているのかすぐには見抜けなくてもなぜか惹かれてしまうアイアン、スチール。妙に冷たさを感じさせず、そしてコンピューターのような無機質さとも違う。これは見た人にしかわかってもらえないだろう。
とにかくエノチュウの作品の通底にあるのはある種の文明批判であり、現実懐疑である。例えば「スペースロブスターP-81」は、地球から大量に排出されたゴミが固まりとなって宇宙から送り返されてきたという具合に。「大量殺人がすごく夢」だった語るエノチュウ(「美術手帳」06年4月号)。今時のホントに人を殺してしまう少年らと違い、自分には美術があってそういった妄想からも離れていったと言う。規則や横並びでがんじがらめに見えるこの国で「(何事にも)とらわれず、疑う」を表現してきたエノチュウの仕事には、職人的な志を妙に感じてしまうのだが。
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魂の発現 エルンスト・バルラハ展

2006-03-12 | 美術
実は本展までエルンスト・バルラハという名を全く聞いたことがなかった。日本でも今回のような大規模な回顧展は初めてだそうである。ドイツ表現主義の仕事はドイツと第2次大戦期同盟国であった日本では比較的早く紹介されたそうである。しかし、ナチスドイツの「頽廃芸術」攻撃で、ヨーロッパにおける彫刻分野での紹介、発掘は遅れ、また日本でも彫刻までは紹介されなかった。もちろんドイツ表現主義を代表するキルヒナーは絵画以外にも版画や彫刻も手がけていたが、彫刻の紹介は少ない。そしてバルラハ。近代彫刻というとロダンとその弟子、ブールデル、マイヨール、デスピオらに焦点が当てられ、ドイツの近代彫刻ーバルラハはもちろん、コルヴィッツなど ー に光があてられることは少ない。しかし、ナチスドイツの恣意的なレッテル貼りによって不遇の制作を余儀なくされた作家は多い。ノルデやディックス、カンディンスキーなども。そして1938年ナチスの伸長する時代に失意のまま世を去ったバルラハ。
バルラハの彫刻を一口で言い表すことなどできないが、まず木彫作品に見いだせる中世ゴシックの影響は見逃せ得ない。筆者はバルラハの木彫にリーメンシュナイダーの人間に対する深い観察眼 ー それは教会彫刻を手がけたキリスト教主題であっても人間の魂により近づいたとも呼ぶべき洞察力の発現に他ならない ー を見た気がしたのだが、ロダン、ブールデルらの言わば人間=生及び動の讃歌的な作品とは対局をなす重い、暗い、静謐な作品群にそれは表れている。
リーメンシュナイダーの彫刻は、こちらが作品を見ているのではなくて、作品の側が、私たちを見ていると表現したのは高柳誠だが(『中世最後の彫刻家 リーメンシュナイダー』五柳書院)、バルラハの彫刻も伏し目がちのかたい表情とはうらはらに、こちらの気配を作品の方こそ感じているようである。
ノミの跡一つ一つにはバルラハの人生の痕跡、いや、両大戦期の暗いドイツの雰囲気やあるいはナチスの度重なる迫害に抗おうとした一彫刻家の悲しみや怒りがこめられているのかもしれない。
代表作「ベルゼルケル(戦士)」や「苦行者」はもちろん荒れた都会の雰囲気に嫌気がさしロシアの農村を旅した後いくつも制作したロシア農民らの姿といい、どの作品も見るものがこちらから主体的な力でもって見ることをやめるのを許さないほど引き込まれること間違いない。
やはり彫刻はいい。
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ベネルクス美術紀行4 ブリュッセル、ルクセンブルク

2006-02-19 | 美術
今回の旅の大きな目的の一つはブリュッセル王立美術館をじっくり見て回ることだった。前回訪れたとき、トラブルでパリで一泊後早朝ブリュッセルに着いたこともあって疲れていてよく見られなかったことに悔いが残っていたからだ。それで今回は王立美術館だけのために1日まるまる取っていたのだが。
HPでよく調べていけば良かったと悔やまれるし、HPではそこまで詳しく載っていたなかったかもしれない。というのは美術館の約半分19世紀以降の提示室がすべて閉鎖中だったのだ。おかげで象徴主義のクノップフの代表作「愛撫」もダヴィッドの「マラーの死」も、アンソールもマグリットもデルヴォーもすべて見られなかった…。前回で覚えているのは美術館の近代部門は地下へ行くほど時代が新しくなり、最も深い地下8階であったかには着く頃には現代美術もカバーしており疲れていなければもっとゆっくり見たい、もう一度来るぞと思ったものだから特に残念。その際購入した図録をめくってみると近代彫刻や現代ドローイングも結構あったようでまたもう一度来るぞ(来られたら)。
しかし、古典美術部門は堪能できた。クラナッハやブリューゲルがこれでもかと作品が目白押し。特にブリューゲルのコレクションは他に類を見ず、一部屋まるご「反逆天使の墜落」や「ベツレヘムの戸籍調査」(西洋世界に「戸籍」などないので「人口調査」「住民調査」が正確なのだが)、「村の婚礼」などブリューゲルの作品が沢山でこれにはにんまりとした。そして当然ルーベンスやヨールダンスの大作もある。フランドル絵画コレクションとしては当代随一であろう。
時間が余ったこともあり、アール・ヌーヴォーの発祥の地、そしてアール・ヌーヴォーの父と称されるヴィクトール・オルタの家が残っているので訪れてみた。規模は小さいが階段の手すり一つをとっても曲線にこだわったオルタのしなやかな美とも言える巧緻が偲ばれる。
初めて訪れたルクセンブルクは小国ながら金融大国として知られ、街にも「金持ち」の雰囲気が漂っているように思える。国立歴史・美術博物館は思ったより広かったが、絵画などに見るべきものは少なく、むしろルクセンブルクの古代地層やそこから出土した陶器や遺物の展示が多かった。新市街からかなり低地にある旧市街の雰囲気はいかにもヨーロッパという感じで趣深かったが、何せ寒く石畳の地面もところどころ凍り付いたまま。夏にぶらりとしてみたいものだが、ルクセンブルクを再び訪れることなどあるだろうか。
寒かったベネルクスの旅も終わりである。
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ベネルクス美術紀行3 ブルージュ、ゲント

2006-02-12 | 美術
日本人観光客も多く、中世のヨーロッパを感じられるブルージュも1月には人もまばら。美しい運河クルーズもお休みで、冷たい石畳を歩くしかない。日が暮れるのも早く、町のシンボルであるひときわ大きな鐘楼が夜空に浮かぶのも早い。しかし魅力は古都の町並みだけではない。ドイツ人であるメムリンクの定住地のこの町にはメムリンク美術館、そして初期フランドル絵画の宝庫であるグルーニング美術館があるからだ。
15世紀末ブルージュに移住したメムリンクはこの地で画家として成功し、銀行家や商人などブルジョア層からの依頼で多くの作品を遺し、この地で没した。メムリンクの祭壇画、肖像画は写実的でありながら理想化されたものであるとの解説がよくなされる。なるほど祭壇画に多く登場する神に使える者、寄進者らの服装、表情はおそらく実際よりは洗練されていて上品さが漂っている。そして非常に細かな描写は、イタリアの後期ルネサンス画家らからも絶賛されたほどフランドル絵画の技術の高さを証明している。アントワープを中心に商業都市として成功したフランドルには教会、貴族とともに画家を支援する十分な富裕層が育ち、また画家らもそれにこたえるかのようにじっくり鑑賞に耐えうる鮮やかそして優美な作品を多く遺している。そしてそれらが今日まで保存されている本質的基盤も。
グルーニング美術館は外からはわかりにくいがとても大きな規模でメムリンクほかフランドルの巨匠の一人とされるヘラルト・ダヴィットの作品も多く、ボスの「最後の審判」、近代絵画までカバーしている。ボスの作品は「快楽の園」(プラド美術館)、「七つの大罪」(同)、「最後の審判」(別バージョン、ウィーン造形美術アカデミー)なども見たがいつもその想像力、奇怪な様に圧倒される。やはりそこまで行って見る価値のある画家だ。
ブルージュより無名の小さな町ゲントに足を伸ばしたのはヤン・ファン・アイクの「神秘の子羊」を見るため。1432年5月に6年の歳月をかけて完成されたという本作は、主題の意味も謎の部分があるらしい。祭壇画は、一時はパリに持ち出されたり、火事にあったりドイツへ持っていかれたりとまさに歴史に翻弄された。主題のすべてがわからなくとも、信仰がなくとも祭壇画を一目見ればその美しさ、完璧に均整のとれた構成に圧倒される。聖バーフ大聖堂に入るのは無料だが、この祭壇画だけ有料の別室に設えられている。ゲントはブルージュと並ぶ運河のたなびく古都。ブリューゲルの作品も多く擁するゲント美術館は残念ながら休館中だったが、この作品に出会うためだけでも行くことをおすすめする。
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ベネルクス美術紀行2 アントワープ

2006-02-05 | 美術
 日本人にとってアントワープと言えば「フランダースの犬」。結構観光客も訪れるらしい。ものの本によれば日本人があまりにもネロとパトラッシュのことを訊ねるので、現地の人にとっては何の関心もなかったのについには銅像ができたとか。「フランダースの犬」はカルピス劇場のおかげで有名になったが、アントワープは紛れもなくルーベンスの町である。
 ネロが事切れるノートルダム大寺院(聖母大聖堂)にはルーベンスの絵が「キリスト降架」「キリスト昇架」「聖母被昇天」など5メートルはあろうかと言うパネル画がいくつも堪能できる。ノートルダム大寺院はルーベンスの作品だけでなく、ステンドグラスの美しさ、細部にこだわった教会彫刻など見飽きない世界が広がる。ただ、現役の宗教施設であるから非信者には近づけない場所もある。礼拝中の信者の邪魔にならぬようじっくり見て回るのがよい。
 アントワープのお目当て一つはマイエル・ヴァン・デン・ベルグ美術館にあるピーター・ブリューゲル(父)の「狂女フリート」。悪女フリートが爆発せんばかりの勢いで地獄と相対する様には一瞬引きそうになる。単なる地獄絵とも違うブリューゲル初期の傑作を見に、ここまでやって来たのだ。この美術館は規模は小さいが他にも初期バロック彫刻の逸品「キリストにもたれて眠る聖ヨハネ像」もあり静謐な空間を演出している。
 王立美術館のルーベンス・コレクションはすばらしい。ルーベンスの時代には王侯貴族お抱えの画家が大きな工房を持ち、大作を共同作業で制作していたという。それだけ大きな作品が所狭しと一部屋に並ぶ姿は壮観だ。それにルーベンスのキリスト画は大きさに見合った迫力だけではもちろんない。聖者ら一人一人の表情が時に険しく、厳しく、あるいは悲哀に満ちているから見とれてしまうのだ。フランドルの画業ここにありである。
 アントワープ郊外のミデルハイム野外彫刻美術館もおすすめである。広大な公園の一角に400点以上の作品が展示され、ムーアをはじめ現代彫刻の数々をゆっくり鑑賞することができる。ただ冬に行くものではない。そこが残念。
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ベネルクス美術紀行1 アムステルダム

2006-02-04 | 美術
 やはり1月のこの時期にベネルクスを訪れるものではない。閉館中、模様替えで一部閉館、改修中の美術館が多く、展示を十分に見ることができなかったからだ。今回ベネルクスを選んだのは、前回訪れたときパリでの乗り換えのトラブルもあってブリュッセルに着いたときとても疲れていて十分に見られなかったことがあったからだ。そしてアムステルダムでも国立ミュージアムはあまりの人の多さに辟易してしまい、レンブラントの「夜景」もゆっくり見られなかった。
 そして今回。国立ミュージアムはそれこそ見学者もまばらで「夜景」はじっくり見られたが、同館は大規模な改修中でほんの一部の仮設展示のみ。つまり狭い部屋に「夜景」を押し込めた以外ほとんどの作品が見られなかったのだ。とても残念。正直言って前回訪れた時はネーデルランド、フランドル美術のことをあまり知らなかったために人の多さくらいで見るのをあきらめてしまったのだ。それが今回あの時よりは知識も溜め込んで、勢い込んで行ったのに。もちろん「夜景」以外にもフェルメールの「手紙」「ミルクを注ぐ女」などの超有名作品は見られたが、圧倒的に数が少なく「堪能」とまではとても言えなかった。返す返す残念。国立ミュージアムはレンブラントなどバロック絵画はもちろんのこと、近代/現代美術も充実しているのに今回は一切展示なし。こういうこともあると気をとりなおして隣のゴッホ美術館へ。
 こちらは改修中ということもなく、普段通りに開館。であるから1月だというのに来館者も結構多かった。ゴッホについては多くのことを語るまでもないし、以前書いたこともあるが(「狂気」だけではない等身大のゴッホ 
http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/ac3e00544965b7189cd1d0507e6e4476)「狂気の」ゴッホ像ばかり喧伝されている多くの日本のゴッホ展にあって、ゴッホの「全体」像を知るにはやはりゴッホ美術館である。信仰に生きようとあがき、パリで多くの画家仲間に触れ、影響を受け、ゴーギャンとの出会い、同居そして破局。精神を病んだゴッホはサン・レミの施療院で初めてかもしれぬ心穏やかに自然と向き合うだけの画題に出会うが結局は自死。とこんな風に解説されることも多かろうゴッホの足跡を丹念にたどることができるのがここ。彼の死後、それも弟テオの死後評価されたためか作品は散逸しており、必ずしもアムステルダムに有名作品が多いわけではないが、静かにゴッホの画業と向き合える。
 最後に今回も訪れたアンネ・フランクの家。展示が以前(前回はナショナリズムとは?を訪れた各国各人に問いかけるすばらしいものであった)と変わり、ちょっと意外だったがわずか13歳でナチスによって囚われ命を落としたアンネの生活を体感するのには十分な空間。シーズンは早くから並ばないと入館できない混雑さだが、今回はもちろんすぐ入れた。
 アンネ・フランクの家には来館者が自由に思いを綴られる雑記帳がある。「過去への想像力が問われている」と記した。(写真はゴッホ美術館)
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ケーテ・コルヴィッツ展(姫路市立美術館)

2005-11-20 | 美術
実はベルリンに行った際にケーテ・コルヴィッツ美術館にも行ったのだが覚えていなかった。というのは、ベルリンに行った時にはケーテ・コルヴィッツのことを全然知らなかったこと、ベルリンは現代美術の発信地であり、それに惹かれて訪れたことなどが理由だ。だが、知らなかったことはやはり恥ずかしい。
ケーテ・コルヴィッツは第1次世界大戦でまだ16歳だった次男ペーターを失い、「死」を見つめた作品を生み出していく。しかし、ケーテは息子を亡くす以前から労働者の悲惨な状況を描く作品を発表しており、人の生死にまつわる制作活動を続けていた。そして農民/労働運動や労働者の悲惨な姿をありのままに描いたため、作品の発表を妨げられたりもしたが、その実力からドツ女性として初めてアカデミーの会員、教授にまでなったが、やがてドイツにはナチの影が広がり、反戦思想を持つケーテは職を追われる。70歳になったケーテはそれでも制作を止めなかった。版画家として出発、成功したケーテが彫刻に本格的に取り組むのもこの頃である。しかし、孫のペーターまでもが第2次世界大戦で戦死。その前年遺作的版画「種を粉に挽いてはならない」でどんなことがあっても子を守る大きくたくましい母親の姿を彫ったのは、ケーテなりの理不尽な死(戦争はその最たる出来事)に対する深い悲しみ、慟哭そして反旗ではなかったか。
1945年に亡くなったケーテの版画は戦後、日本共産党や労働運動の中で機関誌などの表紙絵によく使用されたと言う。ケーテ自身は反ファシズムであってもコミュニストではなかったようだが、ケーテの作品がそのような使われ方がなされたことに宜なるかなという気がすると同時に、貧しさや死に対する本源的な怒り、悲しみ、告発といったケーテのテーマは大きな母こそ踏みとどまらなければならないとする共産党などとは関係のない普遍的な価値をも見いだすことができるだろう。そうであるからこそ、銃後の母像として戦後日本の左翼陣営が使いやすかったのかもしれない。
1919年暗殺されたカール・リープクネヒトはローザ・ルクセンブルグらと社会民主党最左派として活動していた。彼の思想より人柄に惹かれたいたというケーテが制作したのが、本ブログのカット「カール・リープクネヒト追悼」である。
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日常から跳躍してみよう、横浜トリエンナーレ

2005-10-24 | 美術
2回目となる本トリエンナーレのコンセプトは「アートサーカス(日常からの跳躍)」。総合ディレクターの川俣正は「ポリティカルでシステム論的な動向の改変を大前提に展覧会を組み立てて行くことをあえて拒否し、アートそのもののもつ根源的な喚起力を、どうすれば見る側、参加する側(観客)に受け止めてもらうことができるか、この設定にこだわりたい」と述べる。そう、今回のトリエンナーレでは観客は見ているだけでは済まされない、参加が前提なのだ。
アートの可能性は無限である(多分)。「美術」の時代は、観客は見るだけ、制作者の技量、技巧の巧緻に感嘆しておればよかった。が、「アート」になり、観客は観客で済まされなくなった。川俣は本展の切り口として「モノローグからダイアローグへ」、「参加する(パーティシペーション)」「人とかかわる(コラボレティド・ワーク)」「場にかかわる(サイトスペシフィック・ワーク)」「運動体としての展覧会(ワーク・イン・プログレス)」をあげる。なるほど、実物大?のサッカーゲームはゲームとは言え、ほとんど本当のスポーツばりだ(「参加する」たとえばKOSUGE 1-16+アトリエ・ワン+ヨココム)。他にも、ブランコを漕げば発光したり、自分でぬいぐるみを裁縫したり。「かかわる」という本展の狙いはほぼ達成されたのではないか。しかし、アートは若い人、活動的な人、「健常者」ばかりがかかわるのではない。「見(てい)る安心」というものもありはしないだろうか。
「安心」ではないが、惹かれた作品の一つに南アフリカ出身のロビン・ロードの映像作品がある。裸の男がシャワーをひねると浴びるのは黒い水。見る見るうちに黒く染まる白い裸体は、シャワーは汚れを落とすものという固定観念を砕き、アパルトヘイトの国で黒人が味わった歴史への逆説的表現、そしてシャワーを浴びることによって生が危機に晒されるというのは、まぎれもなくアウシュビッツを表している。
他にも、社会問題提起としての現代アートの役割はいくつも果たしている。カンプチアはポル・ポト派の時代の衣類考察、様々なビデオインスタレーションなど。しかし、多くは参加型の展示は、今まで「美術」は触れてはいけない、声を出してはいけない、ましてやそのものの原型を変えてはいけない、といった堅苦しさからの解放としての日常から「跳躍」させてもらえるところにとどまる。いや、「跳躍」した後に残らないことを目指しているのではないだろう。
ああ、面白かった、では済まされない何かを個々の作品は追求してるように見えるのだ、それぞれの作者の意図はさておき。そう、これはサーカスなのだ。サーカスは余韻を残すが、いつまでも残るものではない、けれど、忘れてしまうものではない。
日常からの跳躍とは結局、非日常のことだ。しかし、非日常も想像力の幅を拡げれば日常になりうる。気づかなかった、思いもよらなかった問題提起。アートにおけるグローバリズムとは、踏み越える勇気と踏み越えた先への理解、そして踏み越えた後の承認を同時に欲する欲張りな思想なのかもしれない。
その場限りで楽しかった、なんて川俣は多分発想しない。なにせ、彼のワークは廃材を使った自然環境との共生などおよそ刹那とは対局にある仕事をこなしてきたのだから。インスタレーションであっても参加することによって身体のどこかに刻まれる記憶。問題提起のありかたはいろいろあるなと考えさせられた。

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