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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

ハプスブルク3国美術紀行2 ウィーン1

2011-08-31 | 美術
ウィーンは2度目である。前回行ったのは1月。冬の真っ盛りで夜12時近く遅くにウィーン中央駅に着いた時、1メートルくらいだろうか雪が積もっていて「えらいとこに来てしもた」と最初思った覚えがある。しかし滞在中は特に積雪もなく、難儀することもなかったがとにかく寒かった。完全防寒で写真を撮るたびに手袋をはずしたおぼえがある。
ヴェルヴェーデ宮殿は上宮と外宮のあいだを素晴らしい庭が広がっているのだが(それが分かったのも今回の旅行でだ)、たんに一面白い世界で、この雪道をあそこまで歩くのか!と思った覚えがある(というのも、観光シーズンでなかったため、外宮にたどりつくのも雪道をかきわけて苦労したからだが)。
夏のウィーンがこんなにも観光しやすいとは。まあ、ヨーロッパ、それも南欧を除いて、多くの国は夏が短く、観光シーズンは限られているので、太陽がさんさんと輝く短いこの季節に観光客(自分もだ)が押しよせるのだけれども。そして英語が通じる。ドイツは都会では英語にほとんど不自由しないが、ドイツ文化圏とはいえこのウィーンも、その前のプラハもブダペストも英語力が思いのほか高かったのは幸いした。それはさておき、ウィーンでの美術館といえばまず訪れるのが美術史美術館。規模は中堅どころと思うが、コレクションがすごい。特にブリューゲルは「雪中の狩人」をはじめ「農民の婚宴」「農民の踊り」、そして「バベルの塔」とすばらしい蒐集が続く。ほかにもクラナッハ、デューラーなど16世紀を中心とする北方ルネッサンスのコレクションが充実しているのは、ハプスブルク家がイタリア・ルネッサンスの影響を受けたからといわれる。イタリア・ルネッサンスの蒐集はもちろん(ラファエロの名品「草原の聖母」もある)もともとフランスはブルボン王朝との対抗関係から、ドイツに接近していた事情(だからスペインと近かったハプスブルク家なのでもあるが)、ハプスブルク家の出自がドイツ系であったなどの経緯もあるらしい。とまれブリューゲルのコレクションだけでも堪能するのに、他の作品もいちいち見ていたらこれはもう特大規模である。アルチンボルドの不思議な肖像画!は、現代のだまし絵と遜色ない。いや、CGやコピー機械もなく、トリミング、マスキングにも現代よりはるかに労を要した時代、やり直しのきかいな油絵にこれほどまでに完成度の高い造形があっただろうか。
今回は部屋を改修中で間近には見られなかったベラスケスの「青いドレスのマルガリータ王女」はハプスブルク家のスペイン王室との近接を思いこさせるし、なぜかあるフェルメールの傑作「絵画芸術の寓意(画家のアトリエ)」は、ハプスブルク家の蒐集力を垣間見せる恰好の作品である。
ところでヨーロッパの美術館はもともと宮殿であったものを美術館に転用した例は多いが、美術史美術館は最初から美術館として使用するために建てられた宮殿であるという。ちょうど没落のハプスブルク家の600年にわたるコレクションを収蔵する必要があり、それが、向かいの自然史博物館とともに一対として建てられたのが1889年(美術館が91年)。まだ100余年しかたっていないが、その重厚さはどうだ。そしてその重厚さに耐えうるコレクション。建物を楽しむ、作品を楽しむ、そしてそれらを擁した歴史を楽しむ。美術「史」に触れるにふさわしい空間がウィーンの一等地に鎮座する贅沢を心ゆくまで楽しもう。
(クラナッハ 「アダムとイブ」)
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ハプスブルク3国美術紀行1 チェコ

2011-08-25 | 美術
昔東欧とくくられていた地域が現在ではオーストリアを含めて、チェコ、ハンガリーとともに中欧と呼ばれるらしい。チェコは、チェコスロバキアから分離したことはもちろん知っていたが、そのプラハの春以外になんの知識もない(「プラハの春」も実はよく知らない。加藤周一の「言葉と戦車(を見すえて)」を聞きかじっていたくらいである。)
今回そのチェコ、オーストリア、ハンガリーを訪れたのでその報告を。言うまでもなくハプスブルク帝国の3国であり、チェコはボヘミア国王フェルナンド1世の時代から(16世紀)20世紀の独立まで500年間の支配を経ているが、ハンガリーほどハプスブルク家人気(正確には皇妃エリザベート人気)はないようである。むしろ、ボヘミア王国が西欧列強の支配から逃れる、チェコ(スロバキア)が、独立していくその重みと民族の独立性が謳歌されていたに違いない。その典型がスメタナの「わが祖国」であろう。
生半可な歴史知識はさておき、美術の世界でいうと、近代の成功者はやはりミュシャ(チェコ語では「ムハ」)。ムハ美術館はとても小さい。ミュシャは言うまでもなく、パリに出て女優サラ・ベルナールのポスターを描いて大成功、その象徴主義の技法は、ムハ美術館に所蔵する原画等で垣間見えるが、如何せん規模は小さい。ミュシャは挿絵画家なのであるから、「画家」とは言っても、たった一枚の画布に己の筆をたきつける人ではなく多くの場合その作品はリトグラフである。から、原版をもとに多くの印刷物が出回り、ムハ美術館に行かずともミュシャの作品には多く触れることができてきた。
もっとも、熱烈な愛国者であったミュシャは、チェコスロバキア独立(1918年)のために多くのデザインをチェコスロバキアのために制作したそうで、ムハ美術館にもそのあたりの展示があったやもしれぬが、展示の貧相さと英語説明を読む力量、根気がなく流してしまったので詳しくは分からず仕舞い。ミュシャはあくまでパリで成功したのであり、チェコ(スロバキア)で活動したのではなかったし、作品がチェコに留め置かれたのでもないから、ミュシャの生涯の作品群に触れるのは難しかったのかもしれない。その点、パリのロダン美術館などとは違うと思うが個人美術館の成功あるいは不成功事例を検証してみるのもおもしろい試みかもしれない。
チェコは王宮の一角に国立美術館は設えられてはいるが、規模も小さく、目立った作品もなかった。聞けばチェコは信仰率がとても低く、最大のカトリック信仰が26%ほど、無宗教が50%を超えるという。近代以前の絵画はキリスト教である。その基盤がないとなると筆者が興味を持つような作品も、作品群を収める美術館も発達しなかったのかもしれない。王宮の聖ヴィート大聖堂などのステンドグラスはもちろん美しかったのだけれども。これから訪れるウィーン、ブダペストに期待しよう。
美術とは関係ないが、ビール、ワインはとても美味しかった。
(聖ヴィート大聖堂)
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短かな時間の濃密な激烈さ   カンディンスキーと青騎士展

2011-05-08 | 美術
レーンバッハ美術館は、ミュンヘンの中心部、アルテピナコテークなどのそばにあり、ベルリンのブリュッケ美術館よりはるかに便利である。今回、レーンバッハ美術館展が開催できたのは美術館が2012年まで改装、休館することになったことによる。ただ、「カンディンスキーとクレー展」など昔あったような展覧会名ならもう少し人が来たかもしれないが「青騎士」となると知っている人がどれくらいいるか。
ドイツ表現主義と一括りにされることも多いが、青騎士とブリュッケではかなり違うようだ。キルヒナーやノルデが参加したブリュッケは、1905年結成から数年間は活動しているが、青騎士はそもそもカンディンスキーが1908年に結成した「ミュンヘン新芸術家協会」の中にあって内紛を重ね、カンディンスキーが1910年結成、11年の2回だけ展覧会を開いたものの、メンバーが第一次大戦に従軍、戦死するなどしてわずか2年の活動を余儀なくされたからである。カンディンスキーはロシア人であったこともあり、従軍していないが、カンディンスキーと意気投合し、青騎士の結成にも奔走したフランツ・マルクも36歳で戦死、マルクに師事し、クレーともチュニジア旅行を経験し、将来を嘱望されたが27歳でアウグスト・マッケもこの戦争で逝ってしまった。
毒ガスや塹壕戦などそれまでの戦争の姿を一変させた第一次世界大戦。ドイツはこの戦いで敗戦国となり、賠償に苦しみ、ナチスの台頭をゆるしていくが、失ったもののなかにはマルクらドイツ表現主義をけん引した若き画家たちも含まれていたのである。そして、生き残ったカンディンスキーらは青騎士の後、バウハウスに招請され、後進の指導にあたったが、その営みもナチスによってつぶされていく。バウハウスに移ってからのカンディンスキーはお馴染みのシュルレアリスム色が強くなっていくが、青騎士の頃はむしろ肖像画や風景画に力をいれているように見える。それもそのはず、ミュンヘンで11歳年下の教え子ガブリエーレ・ミュンターと出会い、当時妻がいたカンディンスキーは妻から逃れるようにずっとミュンターと過ごし、海外放浪も重ねていたからだ。そして、肖像画はミュンターなどを描き、風景画はミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンとアルプスのふもとムルナウに滞在し、アルプスの情景を徹底的に描いているからだ。カンディンスキーはミュンターにムルナウに家を買うようすすめ、結局カンディンスキーと別れたミュンターがムルナウに住み続け、ナチスによって退廃芸術の烙印を押され、作品が散逸したのにも関わらず、カンディンスキーの作品を守り続けたのだから歴史とは分からないものだ。そのミュンターがカンディンスキーの作品をミュンヘン市に寄贈したことによって、レーンバッハ美術館が青騎士の美術館として充実したものになったのが本展で紹介されている。
カンディンスキーらがムルナウで制作に励んでいた1909年ごろ、彼らの芸術的方向性は決定的となり、ミュンヘン新芸術家協会から分離、青騎士結成に至るのであるが、戦争で絶たれたこの短い活動は、バウハウスはもちろんのこと、ヤウレンスキーの形体主義はロトチェンコらのロシア構成主義へ、バウハウスで教鞭をとった後ドイツを追われたクレーも独自の世界を切り開いていくである。これが20世紀初頭の画壇を代表していくのであるから決して「短く」はなかったのだ。
冒頭記したように本展が「カンディンスキーとクレー展」などという催しであったなら、カンディンスキーとミュンターとの関係や、ヤウレンスキーとヴェレフキンのことまで知ることはなかったのではないか。そして早世したマルクやマッケのことも。
わずか2年弱を駆け抜けた青騎士の色遣いの激しさは、大戦という時代が流転する激しさや彼らの離合集散、出会いと訣別の激しさも内包していて有意義な本展であると思う。
(ガブリエーレ・ミュンターの肖像  カンディンスキー)
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常設展の豊穣     伊藤財団寄贈作品と「具体」展(兵庫県立美術館)

2011-04-05 | 美術
日本の美術館にはルーヴルやメトロポリタンのような巨大な規模のところがない分、多くの場合常設展より企画展に力を入れ、また、それで集客している。国内で数館しかない国立の美術館のうち、上野の国立西洋美術館でさえも常設展はそれほどの規模ではない。
しかし、多くの美術館はそれなりに自慢の収蔵作品を持ち、国立新美術館のようなところを除いて、収蔵作品を展示する自前の常設展に自信を持っている。関西でいえば、伊丹市立美術館は、ドーミエの版画を多く有しているし、姫路市立美術館はベルギーの近代絵画、滋賀県立美術館は小倉遊亀といったそれぞれ特徴のあるラインナップである。
兵庫県立美術館は、常設展示室としては神戸の画家、小磯良平と金山平三の常設室を有しているが、それ以外にも西洋、日本の近代絵画を中心によい作品を多く持っていて、阪神・淡路大震災後に開館したこともあり、常設スペースも広い。
今回、入れ替えた常設展は「伊藤文化財団設立30周年 寄贈作品の精華」展。伊藤財団とは伊藤ハム株式会社が設立した文化寄贈財団であり、創業社長の伊藤傳三が兵庫県立近代美術館(兵庫県立美術館の前身。阪神・淡路大震災で破損した同館が手狭なこともあり、現在の美術館が2004年に開館したもの)に寄贈した作品を回顧するもの。小出楢重や安井曾太郎のスケッチや水彩画などの後の巨匠の足跡を知るすばらしいコレクションも魅力であるが、伊藤傳三の蒐集は現代美術、つとにアプレゲール、すなわち戦後美術にも造詣が深く熱心に集めたことに関心が向く。
日本の戦後美術は戦争に対する姿勢や距離、評価からはじまった。猪熊弦一郎や藤田嗣治に対する画家の戦争責任追及は有名であるが、それより後、1954年に結成された「具体美術協会」の精華ならぬ成果は現在とても新しい。
本展に展示されているのは「具体」の創設者、吉原治良をはじめ物故者の白髪一雄、田中敦子、そして存命の元永定正などであるが、吉原の「人の真似をするな」は「具体」の面々の作品群に十分現れているし、真似をしないまま50年後も古びかない作品群として息づいている。
白髪の足を使った描画法、田中の電気服、元永の単純かつ大胆なドローイングなど、現在でも度肝向かれる発想は、50年代から60年代のその頃は、最初、奇天烈加減を競ったほんの一部の好事家にしか受けなかった「キワモノ」であるまいか。それらを熱心に集めた伊藤傳三も先見の明があったというよりほとんどゲテモノ好きにすぎない。しかし、近年「具体」再評価を見ても分かるように、アプレゲールさは平和をこれからつくる「戦後」を実感するものとして出現する必然性があったし、高度経済成長を迎える上げ潮の日本社会を象徴するものとしてあったに違いない。
バブルに浮かれた1980年代後半、ゴッホのひまわりを当時の最高額で落札しただの、メセナの名もとに今から思えば「薄っぺらな」「当時の」現代アートに多額の、いや、身の程以上の高値をつけ、もてはやした虚妄が、50年後の「具体」再評価によって忘れ去られている実感を伊藤傳三の目利きによって簡単に覆されるとすれば、それはそれで悲しいものがある。しょせん、バブルでなく持つ者がその矜持を体現したものとして。
けれど、伊藤財団の太っ腹に感心している場合ではない。阪神・淡路大震災を経験した神戸人が兵庫県立美術館の提供するアートの役割を自覚するように、東北・関東大震災を経験した人々もまたアートを欲する時期を想像できるように、寄贈する人も、美術館も、そしてまた訪れる私たちも、現代とアートは無縁ではないと再確認するべきなのであろう。
「具体」の遺した問題提起は、脱構築ともいえるが、実は、できるところから始めよう、というアーティストと市井の人とをつなぐ処方箋を「バブル」でもなく、美術は難しいものという一般概念に疑問符をつけてくれたことではないか。
美術は今すぐに見ている人を豊かにす力も、現時点で美術を楽しむ余裕ない人も豊かにする力はないが、明日を語る、明日を描く人にとっては希望の一断面足りえるのではないか、でないと寄贈も鑑賞もあり得ない。
(元永定正「ポンポンポン」)
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平面が躍動する!  パウル・クレー おわらないアトリエ展

2011-03-21 | 美術
スイスはベルンのパウル・クレー・センターを訪れた際に案内してくださったのが学芸員の奥田修さんであった。(訪問記はスイス美術館紀行1 パウル・クレー・センター http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/2153641dd289d83dce671f4d8a6ef28a)その際クレーのすさまじい収集癖、記録癖を垣間見たものだが、今回の展覧会で知ったのはクレーが自分の作品をすべて、いつ、どのような技法で、どんな画材で制作したかすべて記録していたというから驚きだ。普通、天才肌たる芸術家は自分の作品を整理していないことが多く、後世の学者らがレゾネ(全作品目録)を作るのに苦労するものだが、クレーの場合、「センター」ができるほど、その足跡調査が可能であったわけである。奥田さんも今回の展覧会でクレーがベルンのアトリエで過ごした際の考察を寄せている。クレーに関する書簡研究の第一人者を自負する奥田さんであるからこそ、可能な今回の展覧会であり、またクレーに対する興味がより深くなる展示の仕方であった。
今回の展示の意図を主催者は「クレー作品が物理的にどのようにつくられたか」を観点とすると宣言する。制作プロセスでの分類、クレー自ら「特別クラス」と名付けた作品群を6つのセクションで構成し、それぞれ油彩転写、切断・再構成、切断・分離、両面などとクレーの使い分けた技法によって作品を分類、展示する試みはその足跡をたどるうえでとても有効だ。というのは、クレーの絵はぱっと見たところとても単純、明快に見える。線画も多く、幾何学的な模様に終始しているように見える作品も多いが、そこに至る過程が実はとても複雑かつ綿密に計算されていることがよく分かるからだ。クレーは通常、20世紀美術の中でシュルレアリズムに分類、紹介されることが多いが、中でもキュビズムとの近接も語られる。しかし、ピカソやブラックなどのキュビズムがどこか、3次元たる立体(キューブ)をなんとかして絵画世界である2次元で表わそうと苦労したのに比して、クレーの絵は、2次元であるのに3次元に見えることに成功しているように思えるからだ。
たとえば、クレー独特の曲線がいくつも描かれていて、その間をいろいろな色がさまよい、跳躍しているような作品。その躍動性が現代の3Dではないが、どこか立体を感じさせるのだ。そして近代以降の絵画は著名作品は油彩が圧倒的に多いが、クレーは水彩画を多く残し、あるいは糊絵具なども多用しているのも面白い。さきに掲げた熱転写は、スケッチを線画の部分だけ油彩で転写し、色彩は水彩で描くことにより、よりスケッチに忠実なカラー版が誕生できたのだ。コピー機のない時代、版画ではなく、彩色画にこだわったクレーが編み出した技法は、その制作過程を知る貴重な方法論となり、また、クレーの興味を跡付けることができる。
抽象画とまみえるクレーの諸作品も制作過程と技法を知れば知るほど、その具象性を感じ取ることができ、クレー作品独特の楽しさや、優しさと言ったらいいだろうか、その音楽性に触れることがますます可能になった。バイオリンの名手であったクレーの才能は、2次元に止まらず、空気をも超越、変えていたのだ。線や幾何学を多用するその作品群が妙に「人間的」に感じられた新しいクレーの発見である。
(花ひらいて)
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古い物語のなかの新しき試み  「ラファエル前派からウィリアム・モリスへ」展

2011-02-27 | 美術
自慢ではないが、引っ越しした際にカーテンを新調し、ウィリアム・モリスの「フルーツ」をしつらえた。季節を問わず、派手すぎることもなく結構気に入っていて、客人が来た際には見せびらかしている(かかっているだけだが)。モリスが主導したアーツ&クラフト運動が、柳宗悦らの民芸運動に連なったのは有名だが、モリス以前はどうか。
ラファエル前派は、当時アカデミー画壇が信奉していたイタリアルネサンス盛期のラファエルより初期ルネサンスの美に価値を置く意味で名づけられた。ジョン・エヴァレット・ミレイ、ウィリアム・ホルマン・ハントそしてダンテ・ゲブリエル・ロセッティらの若者が活動を始めた。その思想的支柱、彼らを支えたのは文芸家、批評家のジョン・ラスキンである。
ゴシックを礼賛したラスキンだが、ロセッティらを強力に推挙した。ラスキンの支持を得たラファエル前派は、アカデミーの古い歴史絵巻や、当時フランス画壇で中心をなしていたロマン主義とも一線を画し、人気を博していく。だが、ミレイがラスキンの妻と恋仲になり、ラスキン夫妻の壮絶な離婚劇など、ラファエル前派は長続きしない。前衛的な試みに憑かれた若者ゆえに離散するのも速かったのかしれない。「前衛的な試み」と記したが、ラファエル前派の画題や方法論は実は前衛的ではない。
フランス画壇がロマン主義から、屋外に出て絵を描きだした時代。実写を旨とするバルビゾン派からやがて印象派と連なる時代に、ラファエル前派が好んだ画題はシェイクスピアをはじめとする旧い物語の世界である。さらにパリ画壇では印象派も古く、後期印象派やポスト印象派と言われるセザンヌをはじめキュビズムの萌芽の時代、ラファエル前派の画題は聖書までさかのぼる。もっとも、フランスとてみんながみんな印象派に流れたわけではないし、アカデミーの権威がなくなったわけでもない。そして、イギリスでは印象派以前にターナーといったすぐれたロマン主義の画家がいたし、ラファエル前派からアーツ&クラフト運動のデザインと親和性があるヴィクトリア美術は、イギリス画壇の中心を常に占めていたわけではない。要は、王制を廃したフランスと王制を存続したイギリスとの違いも含めて、アカデミーをはじめとする中央画壇が、ラスキンを代表する革新への理解を欠き、また、どちらにもに対するそれなりの支持が拮抗していた近代市民社会の揺籃が、劇的に発する時代を明確に示していた、ということなのであろう。
今回、驚いたというか、新鮮であったのはラファエル前派の作品の多くが水彩で描かれていたということ。印象派がカンバスに油彩という絵画の、いわば「定型」を墨守したのに比べて紙に水彩とはあまりにも弱弱しい。しかし、考えてみれば、バルビゾン派が自然を描くとき、戸外に出ることはあってもどこかアカデミー的な屋内絵画であったのに比べて、イギリスではターナーの時代から「写生」の文化が根付いていたのも知れない。ラファエル前派が歴史物語を描く際もどこか「写生」的である。
アカデミーに干されたことを恨み、結局はラファエル前派と距離を置き、最終的にはアカデミーの会長におさまったミレイと違い、歴史物語を描くことにこだわったラファエル前派の後期後継者エドワード・コリー・バーン=ジョーンズの描く細密な姿絵は、どこかカナレットなどロココの筆を彷彿とさせる。
その細密さはモリスのデザインにも受け継がれていくが、それは、ロココのそれではもちろんないし、スーラなどの科学的、幾何学的な分析ゆえの非人間的のそれでもない。どこか、あたたかい風合いは、雨の多い容易ならざる自然との親和性との解説も可能だが、ここはラファエル前派には属しなかったがその最強の後継者とされるウォーターハウスの神話画がどこか人間的であることをもってして、ラファエル前派の遺産を喜びとすることにしよう。(ロセッティ「祝福されし乙女」)
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イギリス美術ぶらり3(2011年冬)

2011-01-28 | 美術

ロンドン・ナショナルギャラリ―は3度目である。今回はナショナルギャラリーとテート・ブリテン、テート・モダンをまとめて行った。実は、ナショナルギャラリーの良さは今更言うまでもなく、以前取り上げたことがあるので、しつこく述べはしないが、とにかく大きすぎず、小さすぎず、展示も分かりやすく回りやすい。ただ、今回もそうだが、近代=印象派のあたりは人混みがひどいのでゆっくり見る気もせず流しただけで、結局中世とルネサンス、バロックあたりだけきちんと見て、あとは足早に通り過ぎただけである。
ナショナルギャラリーは反時計周りがよい。入館するとすぐにまっすぐ左のセインズベリウイングまで突っ切ると中世の展示、初期ルネサンスから、後期ルネサンス、北方ルネサンスなどわくわくする作品であふれている。なかでも珠玉はダ・ヴィンチの「聖母子と聖アンナと洗礼者聖ヨハネ」、「岩窟の聖母」。「岩窟の聖母」はルーブル版を描き直したといういわく付きの作品。キリスト教絵画を描きながら、従前の決まり事に反旗を翻したダ・ヴィンチ。決まり事とは聖人は光輪が描かれ、それ以外の登場人物と見分けられるようにされていたのだが、ダ・ヴィンチは描かなかった。それを注文主に非難され、光輪を書き加えたが、書き直す前がルーブル版、書き直したのがナショナルギャラリー版であるというのは有名な話だが、ルネサンス以降、ダ・ヴィンチの描き方は主流になり、ラファエロの聖母に光輪などない。ダ・ヴィンチが無理やり書かされた光輪のないルーブル版の方が完成度の高いのは当たり前で、その違いを楽しむことのできるのはナショナルギャラリー版を見てのこと。
ダ・ヴィンチの作品以外にもヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」は秀逸。600年の時空を越えた美しさに魅了される。そしてホルバインの「大使たち」。メメントモリ(死を思え)の思想が蔓延した中で、裕福さに満ちた大使らを描きながら、中空に不気味なドクロを、それも、正面からは見えず、右斜め方向からしか見て取れないドクロを描いたホルバインの技量と終末期観に驚くとともに、そのまた異様でない様に感動さえ覚えるのだ。
おっと西ウイングまで来てしまった。ここでは後期ルネサンスの逸品から、クラナッハ、グレコなどイタリア豊満系とは違う作品も楽しめる。ここは後期ルネサンス17世紀以前。目玉はいくつもあるが、クラナッハ「ヴィーナスに訴えるキューピッド」、パルジャニーノ「聖母子と洗礼者聖ヨハネと聖ヒエロニムス」、ティツィアーノ「バッカスとアリアドネ」など。キリスト教世界一辺倒から古代ギリシア・ローマ世界への回帰、復興が目指されたとするルネサンスだが、絵画(彫刻)におけるキリスト教世界はもちろん健在で、それらが中世的神話世界からより人間的表現に重きが置かれたにすぎない。
北ウイングは1700年まで。カラヴァッジョの登場、バロックの花咲く世紀。プッサンの歴史大画、ルーベンスの迫力絵巻、レンブラントの登場によって肖像画が画壇の主流として確立される。宗教画と風俗画が混交し楽しめる時代は次世紀のロココ、19世紀のロマン主義、印象派へと連なっていくが、18世紀以降は東ウイングで先述のとおりゆっくりとは回らなかった。西洋絵画を時代に沿ってひととおり楽しめ、かつ、食傷しない展示量であるのがナショナルギャラリーの魅力であることは何度記述してもしすぎることはない。
ちょうど企画展はカナレットをしていたのだが、大勢の人でゆっくり見られる状況ではなかった。カナレットをはじめ風景画にはあまり興味を持てなかった筆者だが、これほどまでに集められるとすごい! 繊細なタッチに思わず見入るが、イギリス人は大きいのでよく見えない。人混みを避けつつ企画展はほどほどにした。
テート・ブリテンでターナーを見た後、体力・時間の続く限りとテート・モダンへ。ゴーギャンが特別展。日本でよく見られるゴッホとの出会い、別れに重きを置くのではなく、タヒチに渡るまでとタヒチ以後を丹念になぞっていて好感。美術館の規模や運搬料などいろいろな条件が影響しているとは思うが、日本の美術館での特別展は概して小さように思える。本気度が違うというか。いや、ゴーギャンならまだしもカナレット展は日本では流行らないのではないか。美術展示の仕方と、美術好き裾野と。考えさせられた今回のイギリス美術ぶらりでもあった。(マルセル・デュシャン「大ガラス」テート・モダン)
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イギリス美術ぶらり2(2011年冬)

2011-01-17 | 美術

今回はイギリス滞在わずか4日だけだったのでリバプールへの移動を考えるとロンドンは2日。なかでもハムステッドヒース、ケンウッドハウスには行きたかったので、かなり駆け足の旅となった。とは言っても、昔とは違い、無理はせず、今回は数か所しか訪れなかった。
 ケンウッドハウスは、ロンドン郊外の広大な公園、ハムステッドヒースの一角にある。規模はそれほどでもないが、映画「ノッティングヒルの恋人」の舞台になったこと、レンブラントやフェルメールなど少ないコレクションの中で逸品があることで訪れてみたかったのだ。
 17世紀に建築されたケンウッドハウスは、貴族の館からはじまって現在はEnglish Heritageとして登録されている。ハムステッドのなだらかな緑の丘に白く建つ館はまるでおとぎ話の様と誰かが言ったとか。確かに、フランスなど大陸の館はヴェルサイユをはじめとして宮殿、お城が中心でこれでもかというくらいの華やかさと雄大さがあるが、イギリスの館はあくまで地方貴族のもので華やかさには欠けるが、そのシンプルさがまたよいのかもしれない。ロンドンに滞在していた夏目漱石もよく通ったとされるくだんの館は、今はギャラリーとして息づいている。中でもレンブラントの晩年の自画像には引き込まれる。レンブラントほどしつこく自画像を描いた画家も少ないそうであるが、晩年のものほど良いように思える。もともと自画像の名手であったが、自己の老いをこれほどまでに直視し、かつ、まだ生きる意欲というか描く意欲がかいまみられる筆致驚きを禁じ得ない。最晩年レンブラントは破産し、家財をほとんど差し押さえられたほど散在を尽くしたのは有名であるが、それほどまでに好奇心が止むことはなかったのであろう。自己を描くということも。
 ケンウッドハウスの逸品の一つ、フェルメール晩年の「ギターを弾く娘」は貸し出し中であったためか残念ながら拝めなかったが、ゲインズバラなどビクトリア朝を彩るロココの佳品が並んでおり、これはこれでなかなかうれしいもの。ハムステッドヒースで少し道に迷い、ようやくバス停を見つけてたどり着いた価値があった。
 
 ハムステッドヒースからロンドンに戻り、時間があったので寄ったのはサーチギャラリー。設立されてまだ割と新しい現代美術ばかり扱うサーチは、実はその存在を知らなかった。これも映画「マッチポイント」で主人公がデートする場所に使っていたので、ああ、こんなギャラリーがあるのかと行ってみたかったのだ。いかにも現代美術でドでかい作品が多く、数は多くなかったがそれなりに楽しめた。サーチギャラリーに行って感動したのは、向かいにアート関係ばかり出版しているドイツTASCHEN社の専門店があったこと。地下には持ち上げられないような大きさの図録もあり、なにか手に触れてはいけない雰囲気も。日本には持って帰れない?ようなエッチなカタログ誌やカレンダーもあり、それはそれで面白かった。(ケンウッドハウス)
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イギリス美術ぶらり1(2011年冬)

2011-01-09 | 美術


今回イギリスに行ったのは昨夏イギリスの田舎を回った際にポンドが余ったこと、田舎回りばかりでロンドンには寄らず、久しぶりにロンドンの美術館に行きたかったことによる。しかし、今回の大きな目的はテート・リバプールに行くことであった。ロンドンのデート・モダンがリバプールに分館を設えてもう随分になるが、結構話題になっていたので行ってみたかった。結論から言うとロンドンに比べると規模はさほどでもない。それよりもリバプール訪れた旅行最終日に体調を崩してしまい、テート・リバプールは半ばアリバイのごとく短時間でまわったのが災いであった。ただ、ちょうど特別展で2006年に亡くなったナム・ジュン・パイク展をしていて、日本ではあまり体系的、総合的にナム・ジュン・パイクを見ることがなかったのでそれはそれで興味深かった。「体系的、総合的」と記したが、もちろん英語説明を読む能力も気力もなかったので流しただけであるが。
ナム・ジュン・パイクはアジア出身(韓国系アメリカ人)で早くから成功した映像、インスタレーション作家ぐらいの知識しかなかったのだが、今回、パイクの多くの作品に接することができて思ったのは、パイクはやはアジアの人であること、作品の根底に流れるエッセンスには多分に日本を意識したものが含まれていることである。もちろんパイク自身、日本以外のアジアに対してその距離(感)に関わらず目を向けていたことは確かで、中国やパイクの出身である朝鮮半島やインドシナへまなざしも強く感じられた。それは、違う文化に対する等距離感覚や、ビデオをはじめとする映像技術は国境をたやすく超えることの証明であるのあろう。しかしパイクの描く世界はある意味コスモポリタニズムでもグローバリズムでもない。ましてやリージョニズムでもない。世界的に活動するアーティストに冠せられる呼称、「普遍主義が見て取れる」などと安易に言いたいのではない。むしろパイクはその逆である。個々の作品はいうなれば「ベタ」である。どこかで見たことのある、あるいはどこにでもいる「オッサン」が妙に叫んでいるのか、喚いているのか。または安っぽいテレビコマーシャルの羅列か。既視感。かなり違うとは思うが、最近ビデオアートの分野で注目している束芋の描く世界も妙にベタで、洗練さには程遠いのを思い出した。しかし、そのベタこそが新しい、見るものの新しいモノ好きを刺激するものがある。パイクの描く今となっては古めかしいビデオインスタレーションも「今となっては」古くない。
テート・リバプールの常設展は彫刻に重きをおいた展示となっていて楽しい。マイヨールやジャコメッティの近代彫刻の重鎮が並ぶ中に、コンテンポラリーアートがころがっているのは素敵な並びである。あわよくばもう少し広ければ。そして、せっかくの収蔵品であるのにテート・リバプールの図録がなかったのが少し淋しかった。もう二度と来る可能性が低かろうから。
リバプールで有名な美術館といえば規模の割にコレクションがいいザ・ウォーカー美術館。となりの博物館が水族館まで併設していて、こちらの方がより楽しめるかもしれないが、あいにく恐竜とか石の標本を見てもあまり興味がわかないので時間をかけなかったが、一見の価値ある博物館であると思う。ウォーカーは古い建物にどこか貴族のマナーハウスにありそうな一部展示の仕方がしぶい。作品の上に作品がと数点まとめられて展示されていてその説明書きも下部に写真付きでまとめて。おかげで、ラファエル前派をまとめて見る機会はテート・ブリテンしかないと思っていたが、なんのなんの、ウォーカーも軽視できない。ラファエル前派といってもロセッティはすぐにそのタッチで分かるがバーン・ジョーンズやミレイの絵はすぐには分からない。また、ラファエル前派ではないとされるが、同時代にビクトリア朝の作品を遺したウォーターハウスなども飾られており、すこしうれしくなってしまう。また、少ないながらレンブラントの自画像やルーベンスのほかに、ホガースやゲインズバラなど英国の重要な画家の作品も並んでいてうならされる。一品一作じっくり見るにはこれくらいの規模が実はいいのかもしれない。
(ロセッティ)
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近代美術の粋   ヴィンタートゥール美術館展

2010-11-07 | 美術
実はヴィンタートゥールに行ったことがある。ヴィンタートゥールに行ったのは、オスカー・ラインハルト美術館が目当てで半日しかなかったため、ヴィンタートゥール美術館には目もくれずということになってしまったが、オスカー・ラインハルト美術館の新館が休みだとわかった時点で行くべきだった。
ヴィンタートゥールはチューリッヒから列車で30分くらいなので遠い距離ではないが美術好き以外はまず訪れないところだろう。というのもオスカー・ラインハルト美術館があるからだ。新館と旧館があり、先述のとおり新館には行けなかったが、旧館だけ訪れた。旧館は本当に小さな建物で紹介するほどのものでもないが、ヴィンタートゥールには、ほかにもいくつか美術館があり、1日たっぷり過ごすべき価値のある町であったのだ。
スイスは人口あたりの美術館、博物館が世界で一番多いそうだ。しかし、あまりに物価が高いため、なかなか行く機会がなかった。それが行けたのはKLMのマイレージを貯めて、航空運賃がただになったから。また貯まったらスイス行きに使おう、いつになるか分からないけれど。
行けばよかったと後悔したヴィンタートゥール美術館の日本で初めての本格的公開が本展。スイスは宗教改革の先端地でもあって、キリスト教美術は豊かではない。そして、永世立国の立場故、ナチスドイツに敵視された近代美術も多く所蔵している。そしてヴィンタートゥール美術館の魅力はこの「近代美術」である。
近代美術という場合、その多くはフランスの印象派から数えられ、第2次大戦前後の制作を指すことが多いと思われるが、ナチスが嫌ったバウハウスの教授陣、ドイツ表現主義、フォービズム、キュビズムなど輪郭をぼかすことで「自然」を意識した印象派から、より機能的、即物的とも言える簡明さで「近代」を認識させた美術作品を多く有しているのがヴィンタートゥール美術館である。
なかでもモーリス・ドニに代表されるナビ派の作品は秀逸である。ナビ派の成立には後期印象派と象徴主義が大きな役割を果たしていると言われるが、ナビ派の理解には輪郭をぼかすことで成立した印象派と輪郭こそ描かれるべきとしたドイツ表現主義などの間に、いわば、迷いありき落とし子のような形で現出したことが面白い。後期印象派にくくられるルドンは、その神秘性からナビ派の先導的役割に見えるし、一方、ある意味平板なナビ派の描写法はキュビズムとは言わないまでも、象徴主義を先取りしているように見えるのは明らかだ。ただ、クリムトなどの象徴主義は、被写体に直接的対峙したフォービズムやドイツ表現主義などとは別物の耽美主義と解していいだろう。だから、ナビ(ヘブライ語で「預言」)との近接性が伺われて違和感がないのである。
もちろん本展はナビ派だけではない。しかし、印象派と20世紀美術の間にあって正当な評価、あるいは、その抽象性故にぐっとファンが減る(日本だけの事象か?)キュビズムなどの分岐した表現世界を俯瞰できるだけのコレクションであることは間違いない。
先に挙げただけではない。イタリア未来派、日本ではあまり知られていないスイスの近代絵画なども取りそろえている。そして最後を締めているのはスイスを代表する、それこそ抽象主義にも見える具象の彫刻家ジャコメッティの「林間地」である。本展は、近代美術の宝庫としてのスイスを再確認できるのである。
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