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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

「私は政権に仕えているのではない。国民に仕えている」  オフィシャル・シークレット

2020-09-13 | 映画

イラク戦争の開戦要件の疑惑については、たくさん解明、論述されているのでここでは触れない。ではない。大量破壊兵器がなかったことをブッシュ政権も認めているし、イギリスも真相解明が進んでいる。しかし、アメリカが主唱した有志連合の一角を占め、自衛隊を海外派兵した小泉純一郎政権の判断に対する検証は一切行われていないからだ。今となっては、小泉首相の「自衛隊が活動している所は非戦闘地域」という迷言くらいしか残っていない(ただし、筆者も原告に参加した「イラク派兵違憲訴訟」では、違憲との名古屋高裁判決が確定している。2008年)。

イラク派兵の理不尽さは、当初から明らかであった。その理不尽さの一端を明らかにしたのが、イギリス諜報機関の一職員が見つけたアメリカのNSA(国家安全保障局)から送られた一通のメールであった。メールには国連でイラク派兵の可否が論議されている中、非常任理事国メンバーを盗聴するよう求めるものだった。これはアメリカが主導し、イギリスがそれに続くが、中国、ロシアは反対、フランスは保留とするイラク派兵への国連決議を左右する非常任理事国の動向を把握し、場合によっては圧力をかける政治的駆け引きの産物で、実際に攻撃を受けるイラク市民の現状を想像した上での判断ではなかった。イラク攻撃が国連決議されれば、無辜の民が殺される。その決議をこんな風に歪めて取ろうとしていることを知った一諜報部員は、そのメールをマスメディアに託す。困難を経て、英大手オブザーバー紙にメールは暴露されるが、待っていたのは諜報部員の公務秘密法違反の罪であった。

事実である。映画は、イラク戦争の是非ではなく、一職員の葛藤にスポットを当てる。

結局、彼女の勇気ある行動は有志連合軍によるイラク攻撃を止めることはできなかった。しかも、彼女が公務秘密法違反に問われた場合、抗弁する手立てはないという。戦争で多くのイラク市民の命が奪われていく上に、法的に彼女を助ける手立てもない。英国当局は、彼女の配偶者がクルド系トルコ人で永住権を求めていたことを逆手にとって、いきなり強制送還しようとさえする。大量破壊兵器の存在という不確かな情報だけで、イラク市民が殺されていくのを許せないと思った彼女の素朴な正義感も揺らいでいく。ところが、彼女の弁護を引き受けた人権派弁護士が、彼女の行為は「不法な戦争を止めさ、人命を救うための、止むなき事情がある」とする答弁を主張、さらに、彼女のリーク記事を載せた記者が、開戦直前に渡米し、イラク攻撃は不法としていた司法長官がその意見を180度変えたことも突き止める。起訴された第1回公判廷で検察は「裁判を続けることは税金の無駄遣い」と言って起訴を取り下げてしまうのだ。自由の身になったキャサリン・ガンの胸の内は晴れない。

雑感が2点。イギリスには明文憲法がないため、違憲訴訟というのは考えにくいと思っていたら、このような戦い方があるのだなと感心したのがひとつ。一方、「恥ずかしい憲法」だから「改憲」と騒いでいた安倍政権の退陣は決まったが、そのコピペである菅政権。こんな政権下であるからか、いや、日本の裁判所は違憲判断について極めて抑制的であることからか、自衛隊や在日米軍などに関わる訴訟で原告側が「平和に生きる権利」(平和的生存権、憲法前文)を理由に求めてもほとんど認められたことはない(先述のイラク派兵違憲名古屋高裁判決と、長沼ナイキ事件一審判決のみ。)。憲法のないイギリスの方が進んでいるようにも見えたのがもう一つ。

安倍晋三首相の内輪優遇、私利私欲優先の典型と思われる森友学園疑惑では、近畿財務局が公文書を改ざんし、その作業に携わった赤木俊夫さんは自死をもって、その事実を訴えた。しかし、赤木雅子夫人が財務省に再調査を求めているのにも、菅新首相はしないと明言。公務員の倫理とは何か、内部通報者の保護と取材源の秘匿、論点は多岐にわたるが、キャサリン・ガン氏の言「政権は変わる。私は政権ではなく、国民に仕えている。国民に嘘はつけない」は、赤木俊夫さんの「僕の雇用主は国民です」と相通じるものがある。しかし、ガン氏は生きながらえ、赤木さんは亡くなった。事実を葬り去ろうとするこの国の闇は深い。

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民主主義の最後の砦 「パブリック 図書館の奇跡」

2020-07-24 | 映画

public(名詞)1 一般の人々、一般大衆2 〜界、仲間(研究社「新和英中辞典」)。日常的に使っている辞典だが、使いこなしていない。publicにはその後にいろんな単語がついてその見出し語30超。あるいはこのブログでも紹介したが、美術の世界だがメトロポリタン美術館では所蔵作品の知的財産権の期間が切れた(70年)作品の画像は自由に使用していいとなっている、これもpublic domainというが、「共有財産」と訳される。

原題の「public」には「公的」と感じる意味以外に様々な意味や概念、社会、集団そしてそれらを構成する人たちの理念などが包含されている語だ。そしてpublicの前に、当然だがTheという定冠詞がつくところがミソだ。

おそらく原題だけでは伝わらないので日本題「図書館の奇跡」とついたのは故なしではない。図書館には奇跡をもたらす何かがあるのだから。自分では買えないような本も図書館では借りられる。出版されたことをそもそも知らなかった本に出会える。新聞をいくつも読み比べられる。そして小さな子どもから老人まで色々な人が出入りしている。そして無料だ。

シンシナティの公共図書館の館員スチュワートは地味で実直。図書館で昼間過ごし、閉館後は道端に帰っていく顔なじみのホームレスにからかわれながらも充実した日々。大寒波が襲った夜、馴染みのホームレス、ジャクソンが「帰らない。ここを占拠する」と告げる。街では凍死者が続出しているのにシェルターが満杯なのだ。無策の市政にうんざりし、これ以上犠牲者を出さないため約70人のホームレスとともに図書館にこもることを決めたスチュワートと同僚のマイラ。市長選に出馬する検察官ディヴィスは人気取りのために強硬策を主張し、息子がホームレスとなって探している市警察の幹部ラムステッドが交渉役に。視聴率を取りたいメディアは「人質事件だ」「武装しているかも」とどんどん煽る。最初はスチュワートに冷たかった館長のアンダーソンも同意して立てこもりに加わる。地味なスチュワートが思い切った行動に出たのは、自身が若いころ、酒とドラッグに溺れ、ホームレスとなり逮捕歴もあったが、本に救われ、立ち直り図書館に雇われたからだ。雇ったのがアンダーソンだった。いよいよ警察が強行突入してくると察したスチュワートらの行動は。

おとぎ話である。アメリカらしいといえば、らしい。しかし、そのらしさを見習わなければならない部分がある。図書館の役割だ。図書館は本を貸し出し、ネットが使えるだけの場所ではない。市民に情報を届けるだけではない、どんな情報を欲しているのかを手助けし、時にはビジネス支援までするという。ビジネス支援というのは、あるホームレスが図書館のパソコンでビジネスを始めたのを禁止するのではなく、必要なサポートをするというのだ。「彼がホームレスのままでいるより、自立した方が彼にとっても市(社会)にとっても有益だ」ニューヨーク公共図書館の話だ。市民のニーズは書籍やネットだけではない。そこから広がる知見や希望に寄り添うがのが「公共」の役割というのだ。

ニューヨークは毎年の冬、多くの凍死者の報道がなされ、そもそもホームレスの数が日本などおよびもつかないほど多い。しかし、冷たさという点では2019年、台風19号が首都圏を襲った際、東京都台東区がホームレスの避難所への受け入れを拒否した。「公共とは、誰かを排除するものではなくて、誰であっても受け入れるという考えに基づかなければならない」(武田砂鉄)。そして「図書館は民主主義の最後の砦」(館長のアンダーソン)なのだ。

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赦しと和解の物語 古き友や時代は忘れない 「在りし日の歌」

2020-06-26 | 映画

「赦し」と「和解」の物語である。中国映画が描く個人史のスパンは長い。スターリンの死から文化大革命までを描き、高い評価を得たが中国での上映禁止となった「青い凧」(田壮壮監督 1993)、レスリー・チャンが美しかった陳凱歌監督の「さらば、わが愛/覇王別姫」(1993)、個人史とは言い難いが、時代はそれらより古く中国ではなく香港・日本合作の「宗家の三姉妹」(メイベル・チャン 1997)もある。「青い凧」のように有名人ではない一介の市民の目から通して中国という巨大な帝国、その歴史的変転の目撃者足り得たのが本作だが、本筋はそこにはない。あくまで組織の論理と時代の変化、都会と地方、貧しいままの人と成功して裕福になる者、の人生のタームを描いたところに3時間の長尺を感じさせない魅力がある。人は厳しく、ときに非道で、また忘れ得ない存在で優しいものだと。

1980年代、北方の町の国有企業で働くヤオジュンとリーユンの夫婦に子どもが授かる。全く同じ日に子どもが生まれたインミンとハイイエンの夫婦も工場の仲間。家族ぐるみで皆が楽しく、助け合っていた時代。しかし、「一人っ子政策」の時。リーユンの妊娠が分かると工場の計画出産委員会の幹部になっていたハイイエンにより強制的に中絶させられ、しかも医師のミスでリーユンは2度と妊娠できない体となってしまう。そしてリーユンらの子シンシンとハイイエンらの子ハオが危ない沼遊びをしていてシンシンは溺死してしまう。市場経済が勃興する90年代、工場の縮小化でリストラされたリーユン夫婦は遠い南の小さな海辺の町に居を移し、養子を取り、シンシンと名付けて育てていたが、自分に死んだ息子を重ねる養親に反発し、成長したシンシン(本名はヨンフー)は家を出て行く。その頃、工場時代にヤオジュンを兄のように慕っていたインミンの妹モーリーが海外に行くからとヤオジュンにわざわざ会いに来る。夫婦の関係にヒビを感じるリーユン。好調な経済で海外膨張を続ける中国では先進国に渡る者が急増した2000年代。そして成功し、富裕層となったインミンとハイイエン、立派に医師となった息子ハオはもうすぐ子どもができる。しかし余命を自覚したハイイエンはリーユンとヤオジュンに会いたいと言う。死の床にあるハイイエンの元をリーユンとヤオジュンが20年ぶりに会いに来る。時はもう世界第二の経済大国となった2010年代。

自己を振り返っても悔いが残り、きちんと謝っておけばよかった、償っておけばよかったと思い出す出来事や人間関係はある。あるいはそもそもそういった悔恨が生じるような関係性、生き方をその時選んだ自分を恥じる思いもある。しかし、起こったこと、なしたことは取り消せないし、その上で未来の自分がいかに生きるか、他者との関係性を持って行くかが大事と問われる以上、人はその存在が消えるまで抱え込まないといけない業みたいなものだと理屈では分かる。リーユンとヤオジュンの夫婦もハイイエンとインミンの夫婦も、そしてハオもその葛藤と20年以上並走してきたのだ。物語はリーユンとヤオジュンの生き方を時空を超えてオムニバス風に描かれるが、その行きつ戻りつする彼らの姿に違和感はない。いや、20年を超える彼らの心情を描くには時系列ではかえって現実感がない。

息絶え絶えのハイイエンは、手を握るリーユンに最後「ごめんね」。この時分かった。もうリーユンは赦していたのだと。中国語の原題「地久天長」はスコットランド民謡の「オールド・ラング・サイン」のこと。日本では「蛍の光」で卒業式の歌として定着しているが、本来は永久の友情のために酒を酌み交わそうとの意。効果的に流れるメロディをバックに「友情は天地の如く長久(とわ)に変わらず、古き友よ、良き時代をいかに忘れられようか」と歌われる。国家に翻弄されても人と人の繋がりこそ断ち難いものであると。

私は忘れないつもりだけれども、私が傷つけた人たちはもう赦してくれるだろうか。

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課税の構造を変えて格差をなくす試み 「21世紀の資本」

2020-06-18 | 映画

れいわ新撰組党首の山本太郎氏が東京都知事選への立候補を明らかにした。その山本氏が本作の宣伝を無償で買って出た。「720頁の本を僕も読んでいません。でも映画はオススメです」。恥ずかしながら私もトマ・ピケティの原書は読んでいない。竹信三恵子さんの『ピケティ入門 「21世紀の資本」の読み方』(2014年 金曜日)だけである。

簡単に言うとピケティの主張は、現在の資本(主義)の実態は、世の中全体の儲かり方より金融資産を多く有する大金持ちの儲かり方の方が多いから、それを正して「健全な」資本(主義)にしようというものである(間違っているかも?)。確かにウオール街を占拠したオキュパイ運動では「(あんたら1%の人間が富を独占し、一方)我々は99%だ!」との主張だった。1%の人間が富を独占しているというのはこの映画でも示される。世界の金持ち上位50人の内訳はアメリカ22人、中国8人、日本1人だとか。それをもって映画のパンフレットで高橋洋一嘉悦大学教授(数量政策学者)は「日本の実情を見る限り、格差は他の先進国ほど酷くないし、格差是正のための税制も完全とは言えないものの、他の先進国よりまし」であり、「日本は世界の先進国の中では比較的平等な国であ」り、「日本でよかったとも思うだろう」「日本のような高負担の相続税や資産課税は、本作では言いたいことを既に一部実践していることを誇らしく思うだろう」と日本エライ!である。が、本当にそうか。

格差が日本よりひどい国として想定されているのはアメリカと中国か。実態としてそういう部分もあるかもしれないけれど、「比較的平等」なら生活保護を受けられないで餓死するとか、今回のコロナ禍で働く場やつながりを失い、自死する人はいないのではないか。まあ、数量政策学者の人が見る「数量」にはそういう数量に入らない人は無視していい存在なのもしれないが。

産業革命を経たヨーロッパでは労働者の賃金を抑えて搾取しまくりの政策が破綻し、労働者の賃上げ要求とともに物価もどんどん上がっていく。そういった労賃や物価といった目の前の変動する資本と無関係で財産を溜め込み、受け継げたのが、領主や金融保資産有層である。フランス革命で王制は倒れたが、労働者が解放されたわけではない。さらに労働者の国を目指した共産主義思想はソ連やベルリンの壁崩壊で潰えた。中国は共産主義ではなく「国家資本主義」である。

米アマゾンCEOの離婚に伴う財産分与が7兆円であるとか、日本ではネット通販大手の社長が月旅行を募集しているとか。ホンマかどうか分からない部分も含めて、世界の金持ちはとんでもない財産を有していそうだが、本作で厳しく追及されるのはタックス・ヘイブンである。パナマ文書はそういった世界の富裕層(企業)が、課税のない(やわい)国に本社登記をなし、税を逃れてきた実態にも言及し、ピケティは「本社登記地ではなく、売り上げをなした場所それぞれの売り上げに応じた課税を」旨、グローバルな課税連携を主唱する。それはある意味、世界それぞれの地域で富を貪る資本主義とは相容れず、むしろ国際的な社会主義とも見えなくもない。また不動産や株、投資などの金融資産への課税強化も訴える。

このような現代の極端に富が集中する世界は80年代のサッチャリズムとレーガノミクスによるものが大きいとの前提も解説された。それに乗っかったバブル期だった日本は「失われた」世代を生み出し、いや国そのものが「失われた」時代を生き続けている。国の借金はもう誰も見たくない、考えたくない額に達している。アベノミクスは浜炬子同志社大学教授によると実態経済の伸張や国民の富は全然増えていないという意味でアホノミクスなそうな。ピケティの矢は日本にも届くであろうか。

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COVID19の世界でもシリアを忘れないでほしい 「娘は戦場で生まれた」

2020-05-27 | 映画

シリアで内戦状態が始まってもう9年。しかし2020年は新型コロナウイルス禍が世界中を席巻し、もう忘れられたかのようだ。まだ国内外避難民は1000万人を超えるというのに。

「娘は戦場で生まれた」は、主人公ワアドがアレッポで過ごした2011年から2016年までを描く。特に見る者を圧倒するのが、2016年1月に娘サマを授かり、政府軍やロシア軍の攻撃に晒され、孤立無援となったアレッポ最後の病院を明け渡し、アレッポから退避する12月までを映す映像だ。命がいとも簡単に奪われ、さっきまで一緒にいた友人らが倒れていく。病院に運ばれる遺体、血まみれの人、人、人。始終病院を揺らす爆撃。小さな子どもは保育園や学校に通えないが「クラスター爆弾」や「たる爆弾」という言葉は知っている。兄弟を殺され泣きじゃくる子ども、我が子を失った母親は正気ではない。閉鎖されたアレッポに医療は追いつかない。なぜそのような時期、場所で子を産み育てようと思うのか。なぜ、早い段階でアレッポを出ようとはしなかったのか。それはアレッポがシリアにおけるアラブの春の象徴であり、アレッポこそが「私の街」であるからとワアド。

シリア情勢に限らず、諸外国の「内戦」は複雑で理解できないから知ろうとしない。知らないからといって日々の日常生活が影響を受けるわけでもない。筆者も含めて、そう知らずにいることを正当化し続けてきたのではないか。しかしシリアでの諍いは、「アラブの春」の民主化運動が2011年の春にもシリアにおよび、アレッポ市民も平和的な反政府デモを行っていたことに始まる。しかし、シリア政権は市民に銃を向け、市民やその家族を拘束、拷問した。平和的デモを続ける市民とは別に、シリア政権軍から離反した司令官が「自由シリア軍」を作り、武力で政権と対峙するようになる。そして、自己の勢力を拡大したいイスラム原理主義の武装勢力、ヌスラ戦線やイスラム国もシリアに入り込んで「内戦」になってしまったというのが経過らしい。

言うまでもなくイスラム国(IS、ISISまたはISIL)は、ありもしない大量破壊兵器の追及を理由にイラクに侵攻し、フセイン政権を無理やり倒したことで、シーア派が政権を獲り、スンニ派の武装勢力が過激化したのがその誕生の発端で、また、ヌスラ戦線はもともとアルカイーダ系で、アルカイーダはアフガニスタンに侵攻したソ連に対抗するため、アフガン政権軍に対抗する北部武装勢力が過激化したグループだ。いずれもアメリカが作り出した鬼っ子といって差し支えない。しかし、「子」ではない。

さらに、アレッポの市民にはシリア政権に肩入れするロシア(ソ連だ)がイスラム原理主義武装勢力を掃討するという理屈で空爆を繰り返す。空から爆弾を降らせて、武装勢力だけを掃討できるとは誰も思わないだろう。しかし、それが許されるのが現在の国際社会だ。そして国際社社会の説明には、トルコとの関係が、トルコ政権と対峙するクルド勢力が、ロシアに対抗したいアメリカがクルド勢力に肩入れをと、どんどん「知らない」で済む要素が増えていってしまう。複雑だからと知らないままでいるのは無責任だろう。それはフォトジャーナリストの安田菜津紀さんが、戦地で誘拐された記者や旅行者らに「自己責任」というレッテルを貼り攻撃する日本の心性に危惧を抱き、「知る責任」に向き合うべきと訴える視点に繋がる。

なんとかアレッポを脱出したワアドは、医者で夫のハムザ、逃避行中にお腹にいた子、そしてサマと現在イギリスで暮らす。「娘は戦場で生まれた」は分かりやすい邦題だが、原作は「For Sama」。ワアドの撮影と語りは全てサマのためだったのである。

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小さな国の大きな満足 ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像

2020-03-19 | 映画

映画で取り上げられる画商というとナチスが「頽廃芸術」とのレッテルを貼った20世紀の表現主義的絵画、キュビスムやシュルレアリスムなどの作品を売り捌いたり、隠し持ったりしたマイナスイメージで描かれることも多い。あるいは犯罪や訳アリ、スキャンダルと無縁でないダークな面とか。その画商が関わるオークション・ハウスも闇にまみれた部分、裏社会の資金洗浄などこれも平和なシロートには預かり知らない部分ばかり。しかしこれらのイメージはそういった面の方が映画になりやすいから、ドラマチックであるからであって、小国フィンランドの小さな画商が主役で、ヘルシンキのオークション・ハウスごときでは犯罪は縁遠く、画商自体も真っ当に違いない。しかしそこにも物語はある。

年老いた美術商オラヴィはオークション・ハウスで見かけた1枚の絵に目を奪われる。しかし絵には署名がなく、作者不明。折しも音信のなかった娘から問題児の孫息子を職業体験のため預かることになる。なんとか晩節に大きな仕事をしたいオラヴィはあの作品を競り落としたいが資金がない。なんと孫息子の進学資金にまで手を出し、娘との仲は決定的に悪くなる。「お父さんはいつも自分のことばかり。私たちを助けてくれたことがあるの?」孫息子の働きにより、作品がロシアのロマン派画家の巨匠イリヤ・レーピン作と証明でき、無事競り落とすが予定額を大幅に超える1万ユーロ(約120万円)。レーピンを欲しがっていた旧知の富裕層に10万ユーロで売れそうになるが。

犯罪に無縁のと記したが、作品の出所を探る様はスリリングそのもの。アナログな老画商に対し、孫はタブレットであちこちに繋げる。レーピンの「キリスト」は結局売り抜くことができず、店を畳み譲り渡した金員で孫の学資も返済するが、本作は絵そのもの出自を追う物語であるとともに、仕事ばかりで子どもに応えられなかった父と娘の和解の物語でもあるのだ。そして、レーピンがサインを遺さなかった理由も明らかになる。

北欧フィンランドというと国民性はシャイで、思い浮かぶのはムーミンかマリメッコやイッタラなどのブランド。誠に貧しい知識しかないが、その小さな国の小さな物語が美しい。そして名画をめぐる謎解きも親と子、孫との関係も国の大小に関係のない普遍的なテーマに違いない。老画商はヘルシンキの街中で営み、住まいも近いが、シングルマザーである娘親子は新興住宅地に住む。ヘルシンキの古き良き伝統とそこには暮らせないより若い層。フィンランドの文化や日常も織り込まれて、最後まで目が離せない。どこぞの大統領は政治も外交もなんでもかんでもディール、ディールと喧しいが、こんなラスト・ディールなら素敵だ。

レーピンがサインを遺さなかったのは絵画ではなく「聖画(イコン)」として描いたから、というのがスウェーデンの美術館の見解。納得の答を得て、老画商は孫に名画を託し、逝く。悲しいが、後味も素敵なフィンランド映画である。ちなみにロシアのロマンティック絵画については以前認めた。(近代ロシア美術を満喫 「ロマンティック・ロシア展」

https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/afa4419f5ed60c0e87d2ea4173ddb1ea

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人は人の中で生き直すことができる 「プリズン・サークル」

2020-03-09 | 映画

ずっと購読している『くらしと教育をつなぐ We』誌2020年2/3月号で坂上香さんの関西での上映がまだの「プリズン・サークル」を取り上げてもらってとても嬉しかった。坂上さんのリストラブ・ジャスティス(修復的司法)を追究する作業は、「ライファーズ」や「トークバック」で何年もかけての取材、制作姿勢で明らかであったとはいえ本作は10年仕事である。実は、日本の刑務所に民間委託ができると聞いた時大きな違和感を覚えた。小泉政権下で進められた「官から民へ」の急激な変化は、規制緩和の名の下に本来民間に任せてはいけないだろうと思われる業界にまで浸透し、不安定・低収入の非正規雇用の増大を生み出し、サービスは官なみ(という表現、実態が正しいかどうかはさておき)に低く、収入は民なみ(の過剰サービスと働きすぎ)に低いという現実を生み出したからである。刑務所など民に任せたら、ますます受刑者の処遇が悪化するのではないかと感じた。しかし、島根あさひ社会復帰促進センターで実際導入されているTCユニット=更生プログラムでの取り組みは、驚くべき実践だ。他者を加害する人間は、幼少時にひどい加害経験を受けた人が多いという研究は知られているが、それを明らかにするとともに自己を見つめ、同じ境遇の受刑者と分かつことで更生に繋げるプログラムは、再犯を防ぐ=犯罪を減らす、という意味でとても有用である。そのプログラムを丹念に撮る坂上監督には一度犯罪者になった者でもそうでない生き方を回復できる、それは修復の力によるものという信念があるのだろし、賛成できる。ただ、島根あさひの受刑者、TCに参加する受刑者は年少者が中心で、死刑囚(は、TCどころか服役中の制限は多い)などの重大事犯はない。「ライファーズ」のように重大事犯にまで広げられるかどうかが今後のTC拡大にかかっている。

とここまでは「プリズン・サークル」を観る前に書いたもの。映像はこの国の刑務所にカメラが入ったというだけでも驚異的であるのに、受刑者の素顔(といっても顔にはブラーがかけれている)と、おそらくは心の底から紡ぎだし、初めて他者に吐露したであろう言葉によって彼らの「回復」が描かれているのが本当にすごい。そう、人には言葉が必要であるのに、犯罪者となった彼らには言葉が奪われてきた。その反対に肉体的暴力を受けてきた。「暴力の連鎖」と一言で片付けるわけにはいかない。自己に対する暴力に無感覚になると、他者に対するそれも無感覚となり、被害への想像力が生まれない。そういった子ども時代の虐待を生きてきた彼らは、居場所も帰るところも、休まるところもなかったし、世の中にそういう場所があることさえも知らなかった。それを語る言葉をやっと得たのだ。

坂上香監督自身が中学生時代に凄まじい集団リンチを受け、親からの虐待も経験、より弱い立場の弟に対しては加害者となった「暴力の連鎖」を体現していたために、なぜ人は残虐になれるのかに関心を持ち、追究してきたという。そしてその粘りによって公開まで10年の歳月をかけたのが本作である。TC受刑者は、再収率(刑法犯を犯して再び収容される率)が受けていない者の半分以下というから、その効果は明らかだ。しかし受刑者4万人に対し受講者できる者はたった40人。島根あさひでは初犯者に受講を限っているが、再犯者やより重い罪を犯した者にも広がってほしい。「人は人の中で生き直すことができる」のだから(『くらしと教育をつなぐWe』誌2020年2/3月号の特集表題。『くらしと教育をつなぐWe』はフェミックス(http://www.femix.co.jp)刊。『ジソウのお仕事』(https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/3511eee03c4e43beccd6466aef756e18)でも紹介した出版社である。)

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決して隠してはならない個の尊厳史と歴史の暗部と 「名もなき生涯」

2020-02-26 | 映画

随分前に読んだ岩波新書に『兵役を拒否した日本人』(1972年 稲垣真美)がある。その副題は「灯台社の戦時下抵抗」。そう、ものみの塔として知られるエホバの証人の信者がその教義ゆえ戦前兵役を拒否した事件を扱っている。最初に断っておくが、現在日本で布教活動をしている「エホバの証人」は戦前のものみの塔とほとんど関係がないし、その連続性をうかがわせるものはない。多分、現在布教活動をしている特に若い世代では灯台社を全く知らないのではないか。

日本で灯台社を創立した明石順三は治安維持法で検挙される。明石の下で布教活動をしていた村本一生も拷問の上転向せず懲役刑を受けるが、戦後やっと出獄する。しかし、明石、村本は戦後、ものみの塔(アメリカのワッチタワー本部)の戦時協力を批判し、除名されるのである。

長々と書いたのは「良心的兵役拒否」日本ではどうだったろうかと思いうかべられる例が他になかったからである(集団的自衛権を容認する自衛隊法に対し、現職自衛隊員が出動命令に対する抗命確認訴訟を提起したが一審で敗訴している)。

オーストリアの山岳地帯で酪農や農業を営むフランツは若いころ、「やんちゃ」であったそうだ。それが敬虔なカトリック信者ファニと結婚し、家畜や畑と向き合い、可愛い子どもらが生まれる中で変わっていったという。無辜の民に銃を向けるこの戦争はおかしい、ヒトラーにひれ伏すことは神に背く行為だと。兵役拒否はすぐに村中に知れ渡り、説得を試みる者、憎悪の感情を見せる者。フランツは自己の信念を神父に相談するが、その上の司教は「祖国への義務がある」。召集された場でヒトラーへの宣誓を拒否したフランツは逮捕され、独房へ。軍事裁判を受けるためにベルリンへ移送される。その頃、ファニも村で孤立していた。お互い助け合うことが前提で成り立っている農作業も、牧畜も助けてもらえない。嫌味や無視、嫌がらせの日々。そこに知らされたフランツの死刑判決。神父とともにフランツに会いに行く。

175分の長尺。これまでも詩情あふれる光の魔術師と言われるテレンス・マリックの映像は、農村にさす光や、青々とした作物や息遣いまで聞こえてきそうな家畜たち、ところどころに挟まれる水の描写と美しいことこの上ない。しかしその平和をひたひたと侵食する戦争と個の圧殺。フランツを支えたのは信仰だったし、作品コメントを寄せた町山智浩によれば幾度も効果的に映し出される光や水のシーンは、宗教的意味を含有するという。光(太陽)は神であり、水は大地の恵み、すなわち神の恵み。教会はフランツを助けないし、支えは愛する妻ファニのみ。フランツとファニの往復書簡を基に初めて映画化された実話である。

数多あるナチスの時代を描いた映画の中でも異色である。ナチスによる暴虐シーンはほとんど描かれないし、多くの場面を割いているのは穏やかな農村風景。セリフも少なく、劇的な場面もない。しかし、最後まで惹き寄せられたのはフランツの信念に目をそむけたり、逃げたりしてはいけないと、彼の尊厳をかけたたたかいを見届ける責任が見る者をして自覚させるからである。先の町山によれば、ファニは愛称で本名はフランチスカ。そう、フランツもフランチスカもアッシジの聖人フランシスコから取られた名前であるのだ。

フランツの存在が知られたのは往復書簡が見出された1960年代になってからで、カトリック教会によって殉教者と認定されたのが2003年という。まさに「名もなき生涯」であった。ナチス時代を描いた作品の多さに少し食傷するとともに、いつも不思議に思うのが反対に日本での戦争映画や暗い時代を描いた作品の少なさだ。それも暗部と言える負の歴史、大逆事件や関東大震災、天皇機関説、滝川事件などを描く作品がドキュメンタリーを除いて見当たらないことだ。「金子文子と朴烈」も韓国映画であった。

ナチスに抵抗した宗教者としてはマルティン・ニーメラーが有名だが、彼も「共産主義者が攻撃された時関係ないと思っていた。教会が攻撃された時には遅かった」旨、発言したとされる(丸山眞男)。フランツが語った「心の中は自由」が蹂躙されつつある時代に、改めて本作を見る価値は大いにあると思う。

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メディアよ,お前は戦っているのかと問われるのは私たち 「さよならテレビ」

2020-01-30 | 映画

実はニュースはNHKを一番よく見ていると思うが、安倍首相や菅官房長官、トランプ大統領が映ると素早くチャンネルを変えるのであんまり見ていないかもしれない。NHK地上波のニュースや解説番組で安倍首相の動向や安倍政権の狙い(なんてあるのか)で解説員として頻繁に登場するのが岩田明子記者。ひどい。もう官邸の広報担当である。岩田記者はウィキペディアでは「ジャーナリスト」とされているが、政権の広報しているのならそれは第4の権力を担うジャーナリストではない。(ちなみにウィキペディアでは「NHK記者」としての岩田記者という扱いで、安倍政権の政策などについて批判を行ったとの記述があるが、岩田記者が様々になした安倍政権ヨイショ報道(発言)についての記述はない。)

名張毒ぶどう酒事件や死刑弁護を引き受ける安田好弘弁護士などを取り上げてきた阿武野勝彦プロデュースにかかる「さよならテレビ」は東海テレビで放映された後、テレビ業界人に海賊版まで流布したという問題作である。その映画版が全国上映された。

若い世代はテレビをあまり見ないというし、テレビ自体を持たないともいう。テレビは「マスゴミ」の代表格とも思われ、バラエティ番組で刹那の消費だけが役割との冷めた評価もある。しかし、若い人ではない私たちの世代はやはりテレビに頼ってしまうし、速報性、同時性ではまだまだネットに劣っているということはないだろう。だからこそテレビは生き残るために切磋琢磨しないといけないのに現状は?まず現状を、報道の現場をありのまま映し出すのが「さよならテレビ」であって、少なくとも阿武野には「さよなら」の危機感がある。台本もなく、いくつかの約束事を決めて、カメラはまわり出す。視聴率の話ばかりして、報道の中身や質には触れない部長、「撮るな!」と怒るデスク、増員をとの現場の声に押されて採用したのは明らかに経験もスキルも足りない若い派遣社員。ジャーナリズムの使命に燃える正義派のベテランは契約社員。先の部長は、残業減らせという局長のお達しに「数字は上げろ、というのとどう両立するのだ」との現場の反発に「サラリーマンですから」と逃げるばかり。派遣社員の渡邉は案の定1年で首切りに。しかし部長は「卒業」と持ち上げ、契約社員の澤村は「卒業という綺麗な言葉ですり替えて」と怒りを露わにする。カメラはこの不安定雇用2人とメインニュースキャスターの福島の3人を主に捉える。編集のミスに無関係の福島は視聴者に謝罪しないといけないし、渡邊をロクな研鑽も施さずに現場取材に行かせてミスを引き起こす。「共謀罪」の問題点を追及していた澤村には、キー局(フジサンケイ系)が「テロ等準備罪」に統一しているからと書き換えさせられる。報道は戦っているのか、メディアは何をなすべきか、を熱血漢の澤村だけが問うが、どこかよそよしい正社員の部員たち。そして遊軍で仲間の懐に入ってカメラを据えることができた監督の圡方宏史も「(大手マスコミの正社員は)給料が高すぎるんだよ」という澤村の指摘に「(300万では)きついですね」と本音を漏らす。

さて、業界人が取り合うように見た「さよなら」は報道の現場、マスコミの現場に興味のない一般の人にはどう映るだろうか。もともと「さよなら」しているから重視しないかもしれないが、おそらくこれは「テレビ」だけの問題ではない。菅官房長官の天敵、東京新聞の望月衣塑子記者が官邸記者クラブの「前例」「習わし」にそぐわないからと、追い出さないまでもそれこそメディアスクラムで無視を決め込んだのは新聞をはじめとした「大手マスコミ」ではなかったか。しかし「モリカケ」も「桜」も追及が甘いとメディアを攻め立てて、長期政権の理由をマスコミのせいだけにしている、視聴者・読者の私たちの姿が背景にあることには自覚的ではない。

『メディア,お前は戦っているのか』(神保太郎 岩波書店)は私たちにも戦っているのか、と問われているのである。

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83歳のケン・ローチが再び撮った理由  「家族を想うとき」

2019-12-18 | 映画

第3月曜日は新聞、雑誌、段ボールなどの資源回収日なので日曜日の晩から、1階に積み上がる。私も新聞などを結わえてせっせと下ろすのだが、段ボールで多いのがアマゾンの空箱だ。結構小さいものでもアマゾンは段ボール箱で配達されるのではないか。私はアマゾンのヘビーユーザーではないが(年に1、2回?)、宅配の便利さを享受しているので業界にコンシュマープレッシャーをかけているという点では同じだろう。

カンヌ映画祭でパルム・ドールを取った「私は、ダニエル・ブレイク」で引退したケン・ローチがメガホンを再び取ったのには理由がある。「ダニエル」で取材したフード・バンクに訪れていた多くの人がギグエコノミー(雇用者の呼びかけの時だけ従業員に仕事がある携帯)やエージェンシー・ワーカー(インターネット経由で単発の仕事を請け負う労働環境)といった従来の不安定雇用の一言では言い表せない新しい搾取を見たからだ。ネットやメールのなかった時代、ローチが昔撮った「リフ・ラフ」や「マイ・ネーム・イズ・ジョー」に出てくる建設労働者なども不安定雇用には違いなかったが、実働以外は一切支払わないとか、契約違反はすぐ罰金、といった終始時間も身体も管理されている現代よりましただったのではないかと思える。

宅配ドライバーとして登録したリッキーは、フランチャイズで個人事業主。雇われているわけではない。しかし、仕事量は多く、子どもの学校に呼び出されて休もうとしたら「代替を自分で探せ。さもなくば罰金だ」。妻アビーも移動時間は賃金を支払われない、細切れの時間で家庭をまわる訪問看護。いくつもの家庭をまわるのに自家用車を使用していたが、リッキーが持ち込み車両の方が得だとバンを買うため売ってしまう。アビーはバスで移動し、ますます家にいる時間がなくなる。両親が家にいる時間がずっと少なくなり、夕食はいつも子どもの携帯に入れる「レンジでチンして」との留守電。優等生だった息子セブは学校をサボり、警察沙汰に。12歳の娘ライザはおねしょうなども。家族を守るために始めた仕事で家族はバラバラに。そしてリッキーは配達中に強盗に遭い、重症を負う。しかしドライバーを束ねるボスからの電話は「宅配専用端末は賠償してくれ」。優しく穏やかだったアビーもついにキレる。汚い言葉でボスを罵るのだ。直後「介護をしているのにこんな汚い言葉を使って」と嗚咽する。休むと稼ぎはなく、罰金が増すばかりのリッキーは包帯だらけの身で出勤しようとする。家族は止めるが、ボロボロの体でハンドルを回し振り切るリッキー。映画はここで終わる。ローチでおなじみのアンチ・エンディングである。

コンビニエンスストアの店主が自殺したニュース。自殺まで至らなかったが、人手が確保できないと24時間営業をやめて本部に反旗を翻した店主。いや被用者の身でも保険業界や日本郵便、その他さまざまな営業活動で「自爆営業」は当たり前である。しかし、高い営業成績をあげた人に合わせろ、努力や工夫が足りないからだ、と攻め立てる。営業目標に限らない、持ち帰りも含めて残業が多い長時間労働になるのは、その人の働き方、能力に問題があると。営業も含めて労働に関する個人に求められるノルマが高すぎるのだ。古くはOJTもあったが、現在では即戦力ばかり求められる。筆者の友人がなるほどということを言っていた。「冷蔵庫も洗濯機も家電は取説をほとんど読まなくてもすぐに使えるのに、パソコンはなんでこんなに苦労するのか」と。そう、現代人はパソコンの内容を冷蔵庫の即適応力に求められているのだ。冷蔵庫は故障すればすむが人間は電化製品ではない。しかし、それを資本の論理が求めているだけではない。消費者がそれを求めているのだ。ホームセンターで客に罵倒された者が、コンビニでモタモタしている従業員(正規雇用では絶対ない外国人も多い)に対しクレーマーと化していることもあるのだ。

「家族を想うとき」は邦題で、原題は「Sorry We Missed You」。「ごめんなさい、あなた(たち)を愛しく思う」というそのままの意味もあるだろうが、宅配業者が投函する不在連絡票の定型文言でもある。原題のままでよかったのではないだろうか。冒頭「搾取」と書いたが、搾取には資本家が労働者から利益を搾り取るという本来の意味もあるだろうが、ここでは家族関係や人間関係の破壊、収奪も含むだろう。ローチの射程は、取り戻すべき家族(血縁はもちろん関係ない)の修復にあると思える。

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