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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

アメリカを知る、アメリカ映画に期待させる  ノマドランド

2021-04-01 | 映画

定住地を持たず流浪する民の呼び名は数多ある。イスラエル建国まで祖国を持たない、あるいはそれ以外の地に生きるユダヤ人を代表するディアスポラ。かつてはジプシーと呼ばれたが現在はロマ、あるいは地名由来のボヘミアン。マッチョな人気ダンス・ヴォーカル・グループ名でなく本来の意味は逃亡者、亡命者のエグザイル。そして遊牧民や流浪する人をさすノマド。

私はホームレスではなくハウスレス。財産としてのハウスはないが、居場所としてのホームはある。夫を亡くし、企業城下町だったネバダ州のエンパイアは街から企業が去ると、ファーンも住居を失い、キャンピングカーでの生活となるが、昔の教え子の子どもから「あなたはホームレス?」と訊かれ毅然と答える。教員まで勤めたファーンは別に家を探せばいいのではないかと思えるが。ファーンには豊かに暮らしている妹やファーンに好意を抱きノマド仲間だったが、息子と和解し大きな家に住まうデイヴィッドも彼女に部屋を提供しようとする。が、ファーンはもう車以外のベッドでは眠れない。そしてそのような困難な生活にあっても働くことを諦めない。ファーンが季節労働で雇われるアマゾンの巨大な配送センター。多くのノマドも働くのは雇用中は駐車場が保証されるから。テーマパークの食堂、モールの掃除。細切れの労働では多くの収入は得られない。しかし、ノマド仲間の多くは、安定した職を得てハウスに住みたいと考えているようにも見えない。そこには一言では言い表せない過去を引きずり、資産の象徴たるハウスを持つ束縛からは解放されたいと考えるから。

原作は『ノマド 漂流する高齢者たち』(ジェシカ・ブルーダー)で、著者は実際にノマドと3年間暮らし、数百人のノマドに取材したルポを著した。ファーンを演じるアカデミー賞俳優フランシス・マクドーマンド以外の登場人物はほとんど実在のノマドである。ハウスの束縛から解放されたい人たちと前述したが、実際の暮らしは厳しい。車ゆえの厳しい環境。冷暖房、食事、洗濯、排泄、病気になった時など生活の基本条件から、駐車場、車のメインテナンスと現金収入は不可欠だ。だからノマドは気楽な「遊牧民」ではなくて、流浪を余儀なくされた資本主義社会ゆえの「垢」なのだ。

ファーンが妹の家族に世話になった際、集った者が不動産で儲ける話をすると「借金させて家を売りつけるなんて」と反論する。そこにはリーマンショックの影が見える。そして画面をクリックすればすぐに商品が送られてくるアマゾンの仕組みもこういった期間労働、使い捨て労働によって成り立っているという事実を見せつける。そう、本作は優れてアメリカの現実を描いているのだ。持てるものと持たざる者。そこで表面的には描かれていないかに見えるのは、弱肉強食、格差社会という世界最強・最大の資本主義国アメリカの本質であって、個で抗えるものではない。だから、心の中だけでもファーンは自由であり続けるのだ。それを支えるのがキャンピングカーという小さなお城しか失うものを持たない寄る辺なきノマドの仲間たちである。いや、ファーンは言う。自分は心残りを引きずり、それを乗り越えられないからノマドを生きるのだと。自立して誇りあるノマド、に見えるファーンとて不安と戦い続ける高齢者(劇中では61歳)に過ぎないのだ。

ファーンと実在のノマドたちに密着したカメラは、社会の矛盾を直接的に突く構成とはなっていない。その点を、さこうますみは「ケン・ローチだったとしたら、また別の描き方をしただろう」と指摘する(『週刊金曜日』1321号 2021.3.19)。確かにケン・ローチなら格差社会に壊され、時に命を奪われる主人公にしたかもしれない。しかし、「ミナリ」の脚本・監督のリー・アイザック・チョンといい、本作のクロエ・ジャオといいアジアがルーツの監督ではアメリカ映画も見せるものがある。ハリウッドへの偏見?を捨てて今後も期待したい。

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誰もが開かれた空の下に  「すばらしき世界」

2021-03-21 | 映画

日本で死刑が廃止されない理由に政府があげるのは「国民の理解が得られていない」というのがある。しかし、安倍政権下で成立した様々な法制、秘密保護法、安全保障法制、共謀罪などについていずれも「国民の理解が得られて」いたわけでもないのに強行成立させた。一方、夫婦別姓制度については、世論アンケートによれば十分に「国民の理解が得られている」が一向に着手しようとしない。死刑制度とも関連するが、刑事法制やそれに関連する社会政策全般についてはどうか。

元受刑者の社会復帰を描いた佐木隆三の短編小説「身分帳」を原作とする本作は、ある意味かなり地味な作品である。人を殺め、服役した三上はヤクザとして生きてきた期間がとても長く、カタギとしての生活経験がない。13年の刑期を終え、シャバに出てもうムショには戻りたくないと、古いアパートで普通の暮らしを始め、職探しをするが、それほど劇的な出来事があるわけでもない。運転免許も失効し、就職に難をきたす。元殺人犯の社会復帰に悪戦苦闘、成功する三上を撮ったらおもしろいだろうと元テレビマンの津乃田は野心的なプロデューサー吉澤にけしかけられてカメラを回し始めるが。

登場する人物はそれほど多くない。三上の身元引受人の老弁護士夫妻、一度は三上を偏見から万引きを疑ったが、その人柄を認め支えるスーパーの店長、当初冷たな感じも受けるが、担当者として誠実に向き合うケースワーカー、旧知の九州のヤクザの親分一家。「身分帳」から時代設定を35年後にした本作では、三上はスマホを持ち、九州のヤクザのアネゴは「銀行口座は作れん、子供も幼稚園に入れられん」と嘆く。それはそうだろう、13年ぶりに出所した人間がすぐに広い、豊かな人間関係を持てる方が非現実的だ。だから本作はとてもディテールにこだわり、三上を演じる役所広司の「演じて」はないように見える姿といい、現実を晒す。必要最小限のものしかない三上のアパート、電話に追われて三上との対応もままならない役所の窓口、視聴者に受けないと見ると簡単に企画を放り出すプロデューサー、そして三上がやっとのことで就職した「理解ある」介護現場。そのいずれもが三上を恐れ、あからさまに忌避することはない。しかし、ヤクザなりにまっすぐに生きてきた三上にはズレがある。そのズレをズレと感じないことで生き抜けるなら、それは本当に三上の姿なのだろうか。

映画は、このリアリティーを撮りあげた西川美和監督の視点と、それを支えた豪華な俳優陣や制作スタッフなどと、西川監督の美学をかたちづくる様々なコンテンツの集大成と紹介される。であるから、例えばシナリオ全文まで掲載された映画のパンフレットにおいても、日本の刑事司法や社会政策の現状に触れてはいない。しかし、三上の日常を丹念に描くことで、その後進性や停滞性を問いかけていることは明らかだ。生きづらいと感じる人が少なくなればなるほど、生きづらくはない、あるいは生きていこうと思う人が相対的に増えるであろうことは言える。幸福追求権はすべての人に保障されなければならない。

死刑廃止が加入要件のEUの国々では、必ずしも「国民の理解が得られて」いたわけでない。しかし、被害者や遺族の福祉の権利とともに、加害者(家族)の権利も擁護する法整備を政策・立法者はときに英断しなければならない。権力者がその好悪を元に「英断」を使い分けるこの国の現状を、今一度自覚すべく貴重な作品である。そしてその「英断」をする、しないをなんとなく支持する空気こそ、武田砂鉄の指摘する世の中の分断や不寛容を後ろ押しすることに他ならないのだろう。

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「確信」の危うさを突きつける   「私は確信する」

2021-03-08 | 映画

フランスの刑事司法制度には詳しくないが、アメリカのような陪審制度と違って裁判官の裁判に市民が参加する参審制度だと以前読んだことがある。しかし、映画では陪審制度として描かれていた。しかし、アメリカのように市民たちだけで決するわけではないのでやはり制度としては参審で、映画ではわかりにくいので「陪審」と呼ばれていたのだと思う。それなら法廷で3人の裁判官の両側に3人ずつ並ぶ形といい、日本の裁判員制度に似ている気もするが、大きく違うところがある。控訴審でも参審制度だということだ。

だが、映画ではその「陪審」であるからかどうかは重きを置かれていない。むしろ、人間はどこまで「確信」を持てれば、人を有罪にできるかという刑事裁判に関わる全ての者、裁判官や参審員はもちろんのこと、捜査に当たった警察官や公訴を提起した検察官、そしてその事件・裁判を見守る市民とメディアに突きつけた問いである。そこには本源的な陥穽がある。フランスに限らないだろうが、逮捕・捜査した警察官は犯人だと思い、取り調べをするし、有罪が欲しいから起訴したのは検察官だ。彼らはすでに「確信」を持っている。そしてメディアは疑惑が大きいほど報道価値があると考え、結論に至る過程が混迷を深めればよくその帰趨にはあまり興味がないようにも見える。そして、メディア以外に情報がない市民はその報道に踊らされるし、「確信」までは至らない。では、法廷の傍聴者と、最終的に判断をしなければならない参審員はどうか。

主人公のノラは一審で参審員をつとめ、判決に疑問を持ち、控訴審で敏腕弁護士に頼り、自ら膨大な関係者の会話記録を分析して、被告人以外の人間への疑惑を暴く。それは被害者とされる女性が突然3人の子どもを残して失踪し、夫により殺されたと裁判になっているが、夫がその犯人との確信が彼女には持てなかったことにある。一審に関与した参審員が控訴審の証拠収集に関わってもいいのか、採用していいのかという素朴な疑問もあるが、フランスの司法制度では公判が始まるまで相当な予審に時間を費やすこともあり、可能なのかもしれない。それとは別に、作品が問いたかったのは、「確信」が100%持てなけれれば推定無罪を貫かなければならないことと、ノラも失踪した妻の愛人を犯人と「確信」する正義(感)が持つ危うさだ。

 刑事裁判の原則は、絶対に冤罪を生み出さないことにあるはずだが、強い正義(感)こそ確信を後押しし、それによって新たな冤罪を生み出しかねないという現実とパラドックスが、私たちをして人を断罪する時に求められる迷いや揺らぎの必要性を自覚させる。

 そもそも一審で無罪になった者をまた公判に引きずり出していいのかという、古典的には二重の危険を考える視点もあり得よう。日本でも一審で無罪だったのに、高裁、最高裁と有罪になり、再審で冤罪をやっと晴らせた東電OL事件のような例もある。東電OL事件の時はまだ裁判員裁判は始まっていなかったが、現在では市民がそういった場面に関わっている。覚醒剤事件の事案では一審無罪なのに逆転有罪の例もある。

 「確信」を確信することこそ危うい。スリリングな裁判劇は法廷に止まらない緊張と魅力にあふれている。

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近代化の波とともにフェミニズムも行き渡る  羊飼いと風船

2021-02-25 | 映画

「女三界に家なし」はもう言わなくなったけれど、実態はまだ残っているのではないか。つい最近も森喜朗東京五輪組織委員会会長が「女性がたくさんいると理事会(の会議)が長くなる」「女性は競争意識が強く、発言しなくてはと思う」旨、のたまってその女性差別意識、あまりにも古い価値観が露呈したばかりだ。では、一人っ子政策の下にありながら、「転生」を大事な価値観とし、中絶を許さない環境である、女性の選択権を奪われたチベットではどうであろうか。

牧羊に従事し、羊の扱いに慣れた父タルギェは雌羊に種付けするため、強い雄羊を借りてくる。猛々しい雄羊の姿を見て、妻であり、3人の男の子の母であるドルカルは「あんたみたい」。だから二人の性生活には無償で配布されるコンドームが必須なのに下の子らが膨らませて風船として遊んでしまうのだ。寄宿舎に入っている長男を迎えに行って、ドルカルの妹で尼僧のシャンチュが帰ってくる。シャンチュは恋に破れて尼僧になったようだ。一つしかなかったコンドームをまた子どもが遊んで使ってしまい、ドルカルは4人目を妊娠してしまう。ちょうど祖父が突然亡くなり、その「転生」を高僧より告げられたタルギェはドルカルの妊娠に「産んでくれ」。少数民族ゆえ3人までは許される子どもも4人目には罰金が課せられる。それに妻、母、羊の世話と、働きづめのドルカルはもういっぱいいっぱいなのだ。

映画ジャーナリストの久保玲子は「羊飼いの暮らしの中にもフェミニズムの波が押し寄せ、女性が目覚め始めていることを鮮やかに描き出して見せた」と評する。

ドルカルを窮地に追い込む3界。1つは、少子化政策という国家が産児制限するという問題、家父長的価値観の下、家事は全て女性がするものと考え、また避妊に非協力な夫、そして「転生」の思想のもとに自分を一番理解してくれていると考えていた妹にまで中絶を反対される宗教的因習。どれもがフェミニズムが問題にしてきた克服すべき課題であるが、それは社会的に解決を目指す課題であるとともに個人の生き方がどうか、という極めて個人的な課題でもある。「個人的なことは政治的なことである」は、フェミニズムの目指す道とその必要性を象徴するスローガンだが、この映画では、その3界がドルカルを追い詰めていく様を羊が群れなす高原という一見牧歌的に見える風景の中で緩やかに静かに描く。しかし、羊を運ぶのは馬ではなくバイクで、テレビや携帯電話、住居もテントではなく建物である。近代化の波は確実にチベットの地にも及んでいる。だからフェミニズムという言葉を知らなくても、ドルカルの心にも確実に選択権や自己決定といった個の尊厳を担保する自立心が芽生えているのだ。

チベットといえば、中央政府によるその民族圧迫、人権蹂躙状況がある。欧米側の人権感覚から中国を非難しているが、中国は内政の問題として頑としてその批判を受け付けない。アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体が、少数民族の故なき収容・思想改造を発表していることからも、その人権抑圧状況は事実であろう。ペマ・ツェテン監督も小説を書き上げた当時は検閲を通らなかったという。それで、映画化にあたっては登場する人たちそれぞれの思いを赤い風船に託した叙情的、シュルレアリスム的とも言える風景に落とし込んだそうだ。

DVまでする夫を見限り、とりあえずシャンチュの僧院に身を寄せることにしたドルカルはこの後、どのような選択をするのだろうか観客の想像に委ねられている。このエンドも曖昧な脚本でしか、映画化が通らなかったのかもしれない。中国の映画人の苦労と工夫がしのばれる。

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聖と賤、善と悪。内包する両面に困難さを描く  「聖なる犯罪者」

2021-01-29 | 映画

キリスト教文化圏においては、聖書の登場人物の名がつけられることが多いのはよく知られるところだ。ダニエルは旧約聖書に出てくる四大預言者の一人で、ライオンの洞穴に投げ込まれたりするが、7日間生きながらえて、見つけた者が神の力を知る(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』)。四方田犬彦によれば、美術ではライオンに取り囲まれ半裸で両腕を高々と上げる姿で描かれることが多いという。偽の司祭ダニエルが信者らに自らの身分を明かし、去っていくクライマックス・シーンである。

少年院から仮退院したダニエルは、訪れた村の教会で「自分は司祭だ」と冗談を言ったため、本当にその役目を担うことになる。説教も自己流だが、これまでにないパフォーマンスで信者を引きつける。しかし、1年前の自動車事故で6人の若者と衝突した運転手の件を洗い出そうとして村人の反感を買う。若者らの遺族は運転手スワヴェクの飲酒が原因、一方的に加害者だと思っていたが、教会の手伝いの娘マルタは兄らが乗車前にひどく飲酒をしていた事実を知っていてダニエルに協力する。スワヴェクの妻エヴァの元には遺族らの罵り、脅迫の手紙がたくさん届いていることも知る。そして、スワヴェクは4年間も禁酒していて検視で陰性だったことも。ミサで集めたお金でスワヴェクの葬儀と墓への埋葬を告げるダニエルの元に現れたのは、ダニエルに信仰の大事さを教えた神父トマシュだった。ミサを止めさせようとするトマシュ(ダニエルが名乗っていた偽の司祭名でもある)から逃れて、教会に待つ信者らの前での行動が冒頭に述べた司祭服を脱ぎ捨て、出ていくダニエルの姿である。

これは聖と賤、あるいは善と悪の物語であろうか。信仰に使え、自己を律しきれるのが聖で、まだ若い子供らを失ったとはいえ、その真実に向き合おうとせず一方的にスワヴェクと妻エヴァを非難、攻撃する遺族たちが賤なのだろうか。あるいは、村人に信仰の大切さと教会へ足を向けさせたダニエルの行いは善ではあるが、そもそも殺人という前科を持つダニエルは悪であるのか。さらに、憎しみは赦しでしか納め得ないという信仰というより、人間が生きながらえる上で編み出した自己保存とその方法論を示した救済の道すじなのであろうか。

答えは簡単には出そうにない。しかし、本作は実際にあった偽司祭の件を元に脚本が書かれたそうで、最後にはエヴァが教会にも出かけることができ、村人もそれを許容する姿が事実なら、偽物がなした行いが、和解こそが癒しにもなるという真実を作り出したことになる。ただ、遺族らもエヴァもその件だけでわだかまりが完全に払拭されることはないだろう。ダニエルの行いに過去を蒸し返すなと横槍を入れる町長など、ことを荒げずに済まそうという力はいつの時代も強い。時間が必要なのだろう、和解と癒しには絶対。

改心するというのはいろいろな宗教で説かれる重要な要素だが、いわば実績をあげたダニエルは決して司祭にはなれないし、かといってトマシュ神父が彼にかけた言葉「なれなくとも他に信仰のやり方がある」もすぐには胸に落ちないだろう。それほど信仰とは実に内面的なものだと思えるのは筆者だけであろうか。本作の原題は「キリストの体」。仏教などと違い、肉体の復活そのものがキリスト教では最重要教義の一つ。スワヴェクの葬儀と埋葬を許さなかった村人らの理由もカトリックの強いポーランドならではの小さな村の姿であったのだ。そしてトマシュは、キリストの死と復活を疑った使徒として描かれることも多いのが意味深だ。素人にも分かりやすく、入り込めやすい優れたキリスト教映画であると思う。

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女性の活躍にインドの思惑と、現実と  「ミッション・マンガル」

2021-01-09 | 映画

惑星探査機はやぶさ2が小惑星リュウグウの地表小片を取得したとかのニュースにはさっぱりその意義も分からないし、その過程も知らなかった。ましてやインドがアメリカやロシアなど宇宙開発先進国に先駆けて火星に到達していたことなど。

国策映画である。描かれるのは低予算で重要視されていなかった宇宙開発部門の技術者らの意気込みと工夫、チームワークで火星到達に成功する物語。インド映画といえばマサラムービーであるが、文脈のよく分からないダンスのシーンもあるけれどそうではない。もちろん技術者らの家族関係における葛藤や技術者同士のラブもあるがほんの付け足し。要諦は後発国インドで成し得た成功物語である。BRICsの一員として「次の」先進国として名をあげたインドは宇宙開発にも力を入れた。有名な数学教育のレベルの高いことはもちろん、知識層は普通に英語を話す。作品中も多分基本はヒンディー語なのだろうが、ときおり英語が混じり、ちゃんぽん語も聞こえる。

主人公の技術者らは貧困層が人口の80%以上を占めると言われるインドにおいてエリート、中間層より上であるのは明らかだ。開発を引っ張った女性の家は広く、子どもらも高等教育の生徒に見えるし、彼女自身車で通勤する。インドの通勤、交通機関の定番リキシャではない。チームの一員はいろいろ変わる彼との逢瀬を瀟洒なマンションで。他のメンバーの一人は夫が軍人で大怪我をしたので病院に駆けつけるが、夫は「看護師としてではなく君のしたい仕事をしてほしい」。出来過ぎ、女性の地位向上、民主主義を見せつけたいモディ政権の思惑があざとい。なにせ、映画のラストクレジットでモディの偉業とも紹介されるのであるから。映画ではチームの主要メンバーが女性で占められているが、実際、開発セクションは映画で描かれたような少人数ではなく大所帯で、女性比率が低くはなかったが、映画ほど高かったほどでもない。全てが実話をもとに膨らませたと言える。

とここまで本作の悪口ばかり書いたが、インド映画にヨーロッパ映画のような国家からの独立性や個人的合理主義を求めても野暮というものだろう。しかし、野暮であっても個人は大事にされなければならないし、科学者の独立性は担保されなければならないだろう。同時にインドが国家政策として自国の宇宙開発を映画で宣伝されることをおおいに利用して、その組織の独立性、情報開示性を示していることも伺えるし、映画側はそれを利用した。そういうメガネを通して見ると本作はまた違った様相を見せ、魅力も感じられる。モディ政権の大インド主義下でも描ける、制作できる映画はある。結果的にはインドの成功を喧伝するように見えても、そこにほのかに見える科学者、技術者の気概はある。そしてその気概は時の政治権力に利用されていていることを自覚していることを描くこともまた気概の一部になり得る。

反政府主義活動家として国内での著作発表が不自由とも伝えられるアルンダティ・ロイは、開発独裁、グローバリズム企業の横暴を鋭く告発してきた。宇宙開発という地上の戦争危機とはすぐには無縁と見える科学オタクの成功譚は、トランプの宇宙軍を引き合いに出すまでもなく、宇宙が覇権の現実的争訟の場であることを覆い隠すという希望の物語で終わってはならない。

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「残された」人を想像したい   「この世界に残されて」

2021-01-01 | 映画

近頃よく聞く言葉「レジリエンス」を描く作品である。しかし、もともと物理学の弾力性、復元性をさすこの語は、ホロコーストを生き延びた孤児の内面を追跡調査する過程で使用されたそうであるから、先祖返りしたと言えなくもない。その調査では孤児の中には、過去のトラウマから抜け出せない人と、トラウマを克服し、充実した生活を送っている人との双方が存在するとした。だからレジリエンスは復元力とともに、適応力、復活力と今日では訳されているのである。

ハンガリーが舞台とは珍しい。そして、ホロコーストではハンガリーのユダヤ人も56万人がナチス・ドイツの犠牲になったと言う。家族を奪われ自分一人だけが残されたクララも、クララが自分と同じ孤絶感を感じ、懐いていくアルドもそうであった。16歳のクララは両親と妹を喪っていたが、生きていると信じたい両親宛に手紙を書いている。一方、42歳のアルドは幸せだった時の家族写真を見ることができない。アルドが写真を見ることができない理由を知ったクララは、ますますアルドと過ごす時間を欲する。しかし、ソ連の支配下となりスターリニズムがひしひしと国をおおう時代の中、収容所帰りのアルドは監視され、クララとの関係も邪推される。再び強権政治の下、息苦しい時代が再来するのだった。

頭の回転が早く、饒舌なクララと静かで寡黙なアルド。対照的に見える二人がお互いに求めるものはもちろん異性間の性愛ではない。父を喪くしたクララと、娘二入を喪ったアルド。お互いにあったはずの穴を埋めるかのように、時間の共有を大事にする。家族を喪った理由に、自分を責めるサバイバーズギルトが伺える。しかし家族の命を奪ったのはナチス・ドイツで、その理由はユダヤ人であったからだけだ。理屈では分かっていても、自分を責めてしまい、その思いから逃れられない。クララもアルドもずっと喪失を生きるのだろうか。二人の内面を丁寧に描くことで、平々凡々に生きる現代の私たちに(戦時)トラウマへの想像力を喚起する。逝かされてしまった家族に対し「残された」人たち。「残される」とは生き残ったことであるのに、なぜか喜べず、今や社会主義へと国家が変転する中でも再び時代から「残される」。時代が、国家が、小さな個々人を翻弄する物語と言ってしまえば簡単だが、一人ひとりの物語こそ歴史を作ってきた。クララやアルドのトラウマに気づかず、見捨てる世界は、また同じ過ちを繰り返すだろう。

数年後スターリンの死を伝えるラジオ放送にクララの婚約者は歓喜する。これで自由が来ると。そこにはアルドの再婚相手もいる。二人ともレジリエンスに成功したのだろうか。しかし、その数年後ハンガリーの民衆は自由を求めて蜂起したが、瞬く間にソ連の戦車に踏み潰された(「ハンガリー動乱」、1956年)。ソ連崩壊によって民主化したはずのハンガリーでは、現在、オルバーン・ヴィクトルの強権政治にさらされている。オルバーンは反移民を唱え、独裁者のプーチンに接近し、国際協調主義のEU批判を繰り返す。21世紀のクララやアルドが生まれないために、そして、現在も何らかのトラウマを抱える人たちと伴走する社会でありたいと考えさせられる作品だ。

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視線の勝利と男性像の不在  「燃ゆる女の肖像」

2020-12-18 | 映画

必要があって、戦後数年間の美術雑誌を繰っている。例えば『芸術新潮』では巻頭グラビアの最後の「期待する新人」ページはたいてい女性だ。『芸術新潮』なので画家ばかりではなく、役者や舞踊家などもあり、女性の比率も上がるがその女性重視は明らかだ。一方、画家や作家など「女流」が付くのは時代を感じさせるが、2020年の現在、冠側も問題だが、メディアでは今だ棋士など「女流○○」と書いている。60年経っているのに何も変わっていない。

その200年数十年前、フランスはロココの時代、1770年頃、ブルターニュの孤島での旧家の令嬢がイタリア・ミラノに嫁ぐための肖像画を依頼された「女流」画家が島を訪れるところから始まる。画家は生徒を抱え、実力も十分であるのに、自分の名前では出品できず父親の名で。島の娘は、姉が嫁ぐことになっていたが、それを拒んだ姉は自死。妹が急遽、ミラノへ嫁ぐことになることが決まっているのだが、抗うかのように嫁ぎ先へ送る肖像画を描かせない。画家としてではなく、散歩友だちとして現れた画家は、次第に親しくなるが、完成した絵を前に令嬢は「私に似ていない」。描き直しを約束して、母親の不在のとき、濃密な時間を過ごした二人は恋に落ちる。

しかし単純な同性の恋愛物語ではないと思える。画家と令嬢と召使いの女性は、母親不在の間、階級を超えて親しく過ごす。そこにはシスターフッドも見(まみ)えるし、召使いが望まない妊娠して堕胎する場面の後では、村の女が総出で歌う様が描かれる。圧倒的な男性の不在だ。画家の父も、令嬢の婚約相手も、召使いの相手も登場しない。描く必要がないからだ。そこで明らかにされるのは、男性がいない社会でも完結する物語ということだ。あるいは、種(馬)の役目しかない男性が、その役目以上に偉ぶる、いや、社会構造を支配している不均衡と差別性を衝いているのだ。

ストーリーは狭い島内での数日間の、少ない登場人物の、しかも台詞の少ない視線の交わりだけであるのに、なんと緊張感に溢れ、スリリングであることか。それは世界を描くということは、愛を描くということで  実は時代的には同性愛は許されなかった、もちろんキリスト教世界観の中では当然  自立した個の意志とは、愛を描くことで、男性優位やロマンチック・ラブ・イデオロギーも包含する、決まり切った世界に対する別の世界を描いたのではなかったか。固定観念からの解放や、視線こそが真実に近しいという意味でフェミニズムである。

ロココの時代の女性画家といえばマリー・アントワネットに寵愛されたヴィジェ=ルブランが思い出されるが、父や夫の後押しで宮廷に入り込み、同年でフランス文化に戸惑っていたアントワネットと親しくなり、破格の出世をしたとされる。あるいは、印象派の時代には、マネのモデルをつとめ、後にマネの弟と結婚した後は制作がしぼんだベアト・モリゾ。いずれも「父の娘」「夫の妻」といった実際と評価が付いて回る。本作では時代的に女性が職業生活の中で生きるのに不可分な男の影が一切ないことが革命的だ。

カンヌでパルム・ドールを受賞した女性監督セリーヌ・シアマの映像はただただ美しい。先に視線に触れたが、主演の二人、画家マリアンヌ役のノエミ・メルランと館の令嬢エロイーズ役のアデル・エネルの表情演技も素晴らしい。女性が自立を目指さなかった時代などないのだ。

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物語で知るナチス下フランスの村の話 「アーニャは、きっと来る」 

2020-12-02 | 映画

原作は児童文学だそうである。しかし訳者も評しているとおり、内容は決して「子供だまし」ではない。12歳の牧羊見習いの少年ジョーから見た戦争。そこには大人なら知っているユダヤ人差別やナチスの非道について、都市から遠く離れた農村だということもあり、彼は知らない。スペインとの国境ピレネー山脈の小さな村レスカンにもナチスの手は伸びて来る。駐留するドイツ軍は割と友好的だ。穏やかで村人とも対等に付き合う伍長ホフマンと仲良くなり、一緒に鷲を見に行ったりする。しかし、羊を追っている時熊に出会い、逃げた山中娘と別れて、今はユダヤ人の子供をスペイン側に逃そうと計画するベンジャミンと出会うことで、人生が変転していく。ベンジャミンを匿っている村はずれの偏屈バアさんオルカーダに食料を運ぶ役を引き受けることになるのだ。やがてジョーの頼りになる祖父アンリ(実はオルカーダをずっと好きだった)、捕虜となっていた父ジョルジュも還って来て、村をあげてユダヤ人の子供を助けようとする。一方、ベンジャミンは強制収用所送りになるところをすんでのところで逃れさせた娘アーニャとの再会を待っている。

登場人物が分かりやすい。日々成長するジョーと仲の良い多動の少年ユベール、子供らを羊飼いに化けさせ山越えを発案するジョーの母リーズ、教会の神父、冷たい雰囲気と貫禄のナチスの中尉など。それぞれの役割が明確で、個々の微妙な心の揺れが詳しく描かれるのはジョーとホフマンだけだ。冷酷無比の権化とされるナチス将兵にこんな人間臭く、おおらかな人がいるのかと思うが、人間は一様ではない。ジョーも未熟な羊飼いだが確実に成長していく。

実話ではなく、創作なのでどうとでも描けると言ってしまえばそれまでだ。しかし多分、実際未熟な目から見た戦争の実相は必ずあり、冷酷だけではなかったナチス将兵もいただろう。事実フランス側から中立国スペインに農民らによって逃れたユダヤ人は7500人に及ぶという。近年のナチス映画では、一市民がユダヤ人を匿ったり、助けたりする作品が多い。「ソハの地下水道」(2011)、「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」(2016)、「ユダヤ人を救った動物園」(2017)など。いわば市井の小さな人、小さな話から人を助ける、それも逃れられない死が待っているユダヤ人を救うという物語へ。小さな物語の積み重ねと、普段からその物語の準備という精神性と差別を許さないという批判的視点。その積み重ねが次代のホロコーストやジェノサイドを防ぐのだという思いでフィルムは作り続けられているのだろう。

作中、レスカンの村人が第2次大戦を「グレート・ウォー」と呼び、ナチス中尉が、否定し「現在の戦いがグレート・ウォーだ」という下りがある(フランスが舞台なのに会話が全て英語というのはさておき)。ドイツにとっては第1次大戦の屈辱が、究極の排外主義ナチスの伸長を許したとの歴史的解説がなされるが、過去の戦争をどう評価、命名するかという課題は、再びその惨禍を引き起こさないという人間に普遍的に課された宿命とも思える。

そして、ジョーも一家も、ユダヤ人の子供らを助けるモチーフとなった羊(飼い)は、言うまでもなくキリスト教における犠牲の象徴である。

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平和があふれる言葉を紡ぎ出す  ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記

2020-10-10 | 映画

私もこのブログをしたためているように文章を書くことで、自己確認をしたり、何度も書くことにより、より上手く書こうと思うところはある。ところが、誰しも文章を書くというのは次第に上手くなればいいけれど、そうとは違って最初から読ませる、読んで引き込まれるというのもある。坂本菜の花さんの紡ぎ出す言の葉はそうだったのだ。そしてそうした言葉を編み出す背景には菜の花さんのひときわ鋭い感受性があったのだろう。

菜の花さんは北陸は能登半島の先端、珠洲市の生まれ。中学卒業後、沖縄のフリースクール珊瑚舎スコーレで学び、日々の出来事を綴っていた文章が北陸中日新聞の記者の目に止まる。「珊瑚舎スコーレで学び」と書いたが、珊瑚舎での学びは学び以上、「生きる」ことと「つながる」であった。菜の花さんが過ごした時、沖縄はやっぱり揺さぶられていた。米軍属による女性暴行殺人事件、度重なる米軍機の部品落下、オスプレイの墜落、高江のヘリパッド建設予定地でのヘリ墜落、そして翁長雄志知事が命を削って止めようとした辺野古の新基地埋め立ては進んだ。この間、住民投票はもちろんのこと、国政選挙で全て辺野古NO!の民意を示し、推進候補は全て破れたのに安倍政権は民意を一顧だにしなかった。それを「説明」し続けたのが現首相、菅義偉官房長官であった。

菜の花さんが言葉を出せるのは、よく聞くからだ。高江や辺野古で座り込んでいるおじい、おばあの話を聞く。沖縄戦が終わって75年、本土復帰して50年弱。米軍基地がどんどん集中し、米軍関係者の犯罪は止まない。95年の女子児童暴行事件を機に県民がノーと言い続け、それでも時の政権は差別の温床である日米地協定には手を出さず、「粛々と」沖縄の米軍化を進め、拡大して来た。菜の花さんが話を聞く海人(うみんちゅ)は、新基地建設に条件付き賛成と言いつつ「日本はアメリカの植民地としか思わない」とはっきり。そして基地工事が始まれば見えなくなる綺麗な海を見ていけと言う。海を見つめた菜の花さんの頬に涙がつたう。

翁長知事の意志を引き継いだ玉城デニー知事の元で行われた県民投票で72%が「反対」。しかし県民投票ができるまでには紆余曲折があった。基地賛成の保守系首長の自治体が県民投票に参加しないとしていたからだ。全自治体が参加しなければ県民投票の意味がなくなる。そこで参加してほしいと我が身を危険に晒し、ハンガーストライキをしたのが当時大学院を休学していた若い元山仁士郎さんだった。元山さんは沖縄出身とはいえ、直接沖縄戦を体験した世代ではないし、復帰運動も知らない。しかし、彼の中に差別され続ける沖縄がこのままでいいのかと言う、沖縄と自分の周囲と、そして自分自身を守り抜くと言うDNAが刻み込まれているのだろう。沖縄出身ではない菜の花さんにもそれは伝播した。(ちなみに元山さんの祖父は『証言 沖縄スパイ戦史』(https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/78964418fe2fdd383eeee0d63f85876a)で「護郷隊」の体験を語った親泊康勝さん。)

「ちむぐりさ」とは、ヤマトの言葉には翻訳しづらいそうだ。「悲しい」の代わりに「誰かの心の痛みを自分の悲しみとして一緒に胸を痛めること」。沖縄に基地を差別を押し付け続けているヤマトの私たちに問われるのは、菜の花さんが感受した「ちむりぐさ」の共感と行動だろう。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。 そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(菜の花さんが映画の最後に引用したマハトマ・ガンジーの言葉)

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