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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

移民映画として見るべきでは 「存在のない子供たち」

2019-08-10 | 映画

映画の背景を最初知らなかったので、中東のどの国か分からなかった。けれど女性がブルカなどのイスラムの厳格な装いをしていなかったこと、多くの移民が暮らしている下層の街であることが窺い知れ、レバノンではと感じた。的中したが、それを自慢したいわけではない。シリアからの難民が隣国に多く流れているとか、その生活実態がきついものであるとか聞いていたかもしれないのに、それくらい、レバノンの現状に疎かったということだ。

ゼインは12歳くらい。親が出生届を出していないから、法的には存在しないのだ。ゼインには兄弟がたくさんいる。が、年下ばかりだ。この理由(わけ)はすぐに知れる。ゼインと仲よかったすぐ下の妹、サハルが生理が始まった途端、結婚させられるのだ。レバノンでも11歳での結婚はもちろん合法ではないが、結婚相手はゼインが両親を訴えた法廷で「11歳の結婚は私の地方では普通です。そしてサハルは“十分熟していました”」と言い放つ。ゼインの親が貧困のため、サハルの結婚相手から鶏1羽を受け取ったこと、サハルが未熟な体で妊娠、出血死したこと、自分も出て行けと言われたこともあり、ゼインは両親を訴える。「世話できないなら産むな」と。

ゼインもサハルもその下の子供達も働き通しだ。街で、自家製ジュースを売り、薬物をしたした衣類を刑務所で売りさばき、ゼインは家主の店(主人はサハルを娶ることになる)で配達もこなす。もちろん学校には行っていない。両親も移民で仕事をしていない。やっていることといえば子作りだけ。そしてサハルより年上の姉らは「児童婚」を強いられていたのをゼインは見ていたのだ。

本作が提起する問題はいくつもある。シリアなどの移民が隣国レバノンに押し寄せているのに無為無策であること。そもそもそのように国を捨てる移民が大量発生するシリア内戦の解決が米露を始めとする国際社会が見出せていないこと、レバノン国内の移民の居住地域をスラム化させている現状、そして(レバノンでももちろん違法で、レバノンはキリスト教徒が多く、イスラム原理主義勢力が強いわけではないのに)児童婚をゆるしている国内状況など。一つひとつが解決するには多大な労力を要すると思うが、本作はだから撮られたのだろう。知ってほしいと。

監督・脚本・主演(ゼインの弁護士役)をこなしたナディーン・ラバキーはフィクションである本作をドキュメンタリーに見えるがごとく徹底的にリサーチして仕上げたという。そしてゼインを始め、ゼインを助けるエチオピア移民のラルヒ、ゼインの両親、サハルなどすべて本業の役者ではない。ゼインが出生届けがないのに弁護士の奔走などで身分証明を得て、北欧に移住(もちろん映画の両親ではない)したのは事実なのである。

日本でも児童虐待が問題視されている。その多くは直接的暴力や、ネグレクト、そして主に父親から女児に対する性虐待の事例だ。そもそも親の養育能力が欠けているのをソーシャルワーカーや児相が懸命に(多くの場合、そうに違いない)ケアしていたのに、そこから漏れた事案が悲惨なことになっている。この国では、学校に行かせず、児童婚を強いる案件はさすがにないと思っていたら、やはり学校に行っていない子どももいるそうだ。公教育を受けるべきかどうかはさておき、教育を受ける権利は憲法にも規定されており、親が教育に関心を持たない事例は確実にある。であるから、親の教育力(とその背景にある貧困、自己評価の低さなど)を無視して、テストの結果が悪い学校には予算配分を減らすなどいう大阪府・市の姿勢は現実と原因を理解していないなにものでもないのである。

しかしゼインの逞しさには恐れいる。突然ラルヒが帰ってこなくなり(不法就労で拘束された)、その子ヨナスの面倒を見、現金収入を得ようとする機知と実行力は、移民を「移民でない」と見えない存在にしようとしている日本社会では想像を超えている。だからと言って自己責任力の最たるものとしてのゼイン的な生き方が子どもに求められる社会も健全とは言えないだろう。自立とはかくも難しい課題であって、それが求められる年齢と背景を考えさせるのが本作の魅力だ。

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癒しには時間のかかる回路が必要だ  「アマンダと僕」

2019-08-03 | 映画

実はちょっと恥ずかしいが、映画を観終わったあとで、思い出した時に結構号泣涙してしまった作品がいくつかある。「非情城市」と「エレニの旅」。前者はいうまでもなく台湾が誇る候孝賢(ホウ・シャオシエン)の最高(と筆者が思う)傑作、後者はギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロスの抒情詩の名作である。「アマンダと僕」が3作目になってしまった。

シングルマザーである姉のサンドリーヌ、その子アマンダ7歳と平穏に付きっているダヴィッドは24歳。アパート管理の仕事で知り合った新しい入居者、地方出身のレナともいい感じだ。しかしレナを含め、友人らとピクニックに出かけたサンドリーヌは突然の凶弾に命を奪われる。レナもピアノ講師として大きなハンディを背負う怪我を負う。

残されたアマンダとダヴィッド。悲しむ暇もなく、アマンダの送り迎え、夜は家を空けられない生活に投げ込まれるダヴィッド。傷ついたレナは故郷に帰ってしまう。アマンダを養っていく後見人になるか、児童養護施設に入れるのか、重い選択を迫られるダヴィッド。サンドリーヌと自分が幼い頃に捨てた母親アリソンの住むロンドンに会いに行くダヴィッドとアマンダ。彼らのこの先は。本作の魅力はサンドリーヌを突然死なしめたテロリズムや、その加害者に対する怒りや怨嗟を一切描いていないところだ。パリ同時多発テロを経験した彼の地ではテロは恐ろしいほど身近なのかも知れない。しかし、近しい人を失った悲しみはテロリズムへの怒り、憎しみを超えるのだろう。

淡々とすすむアマンダとの日々。亡き父の妹モードの家に預けたりするが、フランスでは小学生は必ず送り迎えが必要で、ダヴィッドは遅れがちだ。でもアマンダも健気にしっかりとしている。ダヴィッドがサンドリーヌの歯ブラシを捨てると「なぜないの?元に戻しておいて!」と毅然と言い放つ。喪失感は簡単には消えないが、それを無理やり消そうとすると新たなスティグマが発生する。アマンダの指摘はそういった大人の合理性、せっかちな部分を指弾するもので、癒しは時間とともにあるとの紛うことなき真実を言いあてている。精神的なダメージを恢復させる癒しとは本来説明のできない回路を辿るものだろう。本作はダヴィッドの視線に立ちながら、アマンダを中心に、周囲の人の何気無い日常を丁寧に掬い取り、寄り添うかのような描き方が秀逸だ。それもこれも監督がたまたま見つけたというアマンダ役の映画初出演のイゾール・ミュルトリエが素晴らしいからだ。幼さと気丈さと成長する機微を丹念に演じているが、演じているとは思えない。

日本でも阪神大震災以降、度重なる地震、台風といった自然災害、人間の科学信仰、無謬信仰の象徴である福島第1原発事故、そして犯罪事件。しかし近しい人、親しい人を突然奪われる厄災の最たるものといえば戦争であろう。そして戦時体制下に反戦を理由に弾圧され権力に命を奪われた人たち。そういった戦争で奪われた命への補償や謝罪は時として無理やり忘れ去られ、無視され、時にそういった姿勢が強固な反発に遭う。反対に、犯罪被害者遺族は、周囲やマスメディアの要請により本人が感じている以上の許さない感情を求められる。これは逆説的だ。国家がなす大きな暴力には口封じられ、より小さな個人の暴力には復讐心を煽られる。しかし、残された者に何らかの癒しが必要なことは違わないだろう。

折しも京都アニメーションの放火事件で多くの命が奪われた。京アニによって、救われたという若い人が映し出されているが、遺族や彼ら彼女らとって、悲しみや痛みが犯人への憎悪より先に生まれる感情ではないだろうか。だから遺族や献花に訪れた人に犯人(とまだ刑事裁判的には確定したわけではない)への気持ちを聞いたり、亡くなった人がどれほど愛される仕事をしてきたかを過剰に喧伝することに違和感を感じてしまうのだ。

それほど知っている訳ではないが、日常のパリ風景もなんか懐かしい。日常を大切に生きる、それには色々な回路が必要だ。それが癒しというものかなと感じる作品だ。

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メディアへの、政権への真剣な追及が問われる  日本映画「新聞記者」

2019-07-05 | 映画

韓国映画の「共犯者たち」と「スパイネーション」で韓国メディアの対政権姿勢、真っ当なジャーナリズムの姿を紹介したが(韓国の民主主義にならう 「共犯者たち」と「スパイネーション 自白」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/29d2c9e778aaa6edb8c378b322436a9b)、日本でもやっと対政権に見合うものができたかと思える作品である。

映画はここ2、3年で起こっている政権スキャンダルそのままに進行する。本筋は大学新設に関わる疑惑、脇に政権の独善に批判的なトップ官僚の醜聞、首相のお友達ジャーナリストによる性暴力スキャンダルのもみ消し…。言うまでもなく、大学新設は設置申請者が安倍首相とお友達、特区を利用した無理くりな加計学園認可、その加計学園認可に疑義を呈し、発言した前川喜平元文科省事務次官に対する「出会い系バー」出入りについての疑義発言直前のマスコミへのリーク(もちろん読売新聞)、ジャーナリストの伊藤詩織さんに対する安倍首相に近いTBS政治部記者でワシントン支局長だった山口敬之氏からの性暴力告発と逮捕状の失効、をそれぞれ指している。こうまで好き放題できるのか、「最高権力者」とのたまった人の政権では。

映画はあの菅官房長官が最も目の敵にする東京新聞・望月衣塑子記者の『新聞記者』(角川新書)に着想を得た、完全なフィクションである。とは言っても、多分フィクションには思えない、描き方が。韓国人俳優のシム・ウンギョン演じる新聞記者吉岡エリカ、大学新設疑惑を追うが、父親もジャーナリストで「誤報」で自殺に追い込まれている。内閣情報調査室勤務のエリート官僚杉原拓海を演じる松坂桃季。子どももでき、家庭は順風満帆だが、仕事は政権に批判的な勢力に関するマイナス情報を捏造する日々。内閣情報調査室、「内調」は実際の組織で、まさに映画で描かれているような業務を日々こなしていると言う。前川元事務次官の「醜聞」も内調が集め、読売にリークしたと言うのがもっぱらの話だ。それほどまでに内調は「政権の安定」のためにはなんでもする。杉原が上司の指示、「(首相官邸前の安保法制反対デモに写った)人物の素性を調べろ」に対し、「民間人じゃないですか」と問うが、多分、「新左翼・党派」監視が主な業務だった公安調査庁が、組織防衛もあって内調と一体となって一般市民監視にシフトしていると言うのもまたもっぱらの話である。今や監視カメラが街を写し続け、携帯・スマホのGPSやNシステムで被疑者の確保も簡単になってきている。武器輸出は「防衛装備移転」と言い換えられ、沖縄に「寄り添う」は「見捨てる」の意である。これではオーウェルの『1984年』の世界だ。アメリカがイランを盛んに挑発しているが、もし、武力攻撃になれば簡単に安保法制は発動されるだろう。「日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」と判断すれば。イランを始め中東から石油を供給している日本からすれば、その可能性は大で、そういった実態があるのに憲法を変えないのはおかしいと。

政権与党の安定的勝利とも報道される今夏の参議院選挙。「新聞記者」が制作、ヒットしたのを映像世界の強かな抵抗と見るか、有権者のカエルのぬるま湯と見るか。本作とともに志葉玲さんの記事(「都合の悪い者」陥れる官邸のフェイクー『新聞記者』のリアル、望月記者らに聞く

https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20190705-00132919/)も強くオススメする。

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日本にもこんな裁判官がいたなら  「RBG 最強の85才」

2019-07-03 | 映画

ルース・ベイダー・ギンズバーグについてはビリーブ(男女平等ランキング110位の国から見る「ビリーブ 未来への大逆転」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/2f938f020190349ea2fe880a0ef4586a)である程度述べたので、本作で気になったところだけ書くことにする。その大きな点は、字幕でルースが夫のことを話す時には「夫は」と訳しているのに、ルースに質問するすべての人が夫のことを尋ねる時には「ご主人は」と訳していることだ。

フェミニズムの成果を持ち出すまでもない。主人の反対語は奴隷である。主婦だという意見もあるだろうが、主夫の場合、その配偶者を「主人」と呼んだりするだろうか。主人はかくもジェンダーにおける非対称性を明らかした用語であり、そもそも英語の主人、例えば、MasterとかLordとかは妻の側から見た夫を指すものとしての用語ではない。字幕者が自己の極めて日本的ジェンダー規範に縛られた用語を当てはめたのである。

クリントン大統領の時代に女性として史上2番目に最高裁判事に任命されたRBGは、「ビリーブ」で描かれたように、1950年代優秀な成績で法曹資格を取ったのに、どの弁護士事務所も雇わなかった時代を生き、その後、70年代になって性差別、少数者差別を問う重要な訴訟を勝ち抜いてきた。しかし、アメリカとて性差別がなくなったわけではもちろんない。初の女性大統領になるはずだったヒラリー・クリントンは女性差別主義者の権化であるかのようなドナルド・トランプに敗れた。ハリウッドの大物による性差別、犯罪行為に端を発した「#Me Too」運動が起こったのが2017年、その後の「#Times Up」運動は性に限らず、少数者差別・排除を許さない動きにつながった。これらの動きに先駆的に最高裁の差別容認判決に果敢に反対意見を述べ続けてきたのがRBGだった。しかも、現在連邦最高裁判事の構成は、保守5、リベラル4と保守派が強い上に、最高齢のRBGが引退すれば、トランプは超保守派の裁判官を送り込むことは目に見えている。だから86歳のRBGは倒れるわけにはいかないのだ。

RBGの功績は偉大で、尊敬を集めるのは理解できるが、その人気がグッズになったり、モノマネ芸人が出るなどアイドル的なのには戸惑ってしまう。しかし、日本の最高裁判事のように普段どう働いているのか、姿が全くわからないより、テレビ番組に出演し、オペラ鑑賞などの私生活、健康維持のためのトレーニング風景など、裁判官も人間だとわかる方がいいのではないか。最高裁には弁護士枠があって、大阪弁護士会からもこれまで弁護士から最高裁判事になられた人もいるが、退官後しか最高裁当時のことをお話しされないし、退官後早く亡くなられた方も数人いる。それほどの激務だったのであろうか、弁護士との差が激しかったのだろうか。ちなみに現在大阪弁護士会出身の最高裁判事はいない。

いや、安倍政権になってからの最高裁判事の指名は、政権に都合のいい判断をしそうな人ばかり送り込んでいるとのもっぱらの話。どこまでもトランプについていくポチらしい振る舞いとは言い過ぎだろうか。

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お酒に魅せられる素敵な女性たち 「カンパイ! 日本酒に恋した女たち」

2019-06-27 | 映画

佐伯夏子のような女性がこんなに多くいるものだなあ、と感慨深かった。というのは冗談だが、佐伯夏子はあの日本酒造りを描いた名漫画「夏子の酒」の主人公である。夏子は幼い頃から蔵に出入りし、天性の(酒)利き能力を持つ。東京の広告会社に就職するが、蔵の後を継ぐはずだった兄が急逝し、新潟の家に戻る。そこで兄が再生しようとしていた戦前の幻の酒米「龍錦」を見つけ、酒造りにのめり込んでいく。これでは「夏子の酒」の宣伝ブログになってしまう。

「カンパイ!日本酒に恋した女たち」は、小西未来監督の前作「カンパイ!世界が恋する日本酒」(日本酒の深さと造り人の広がりに「カンパイ!世界が恋する日本酒」https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/7b1c2489efcf5fa59028c035283cf899)の続編である。本作で取り上げるのは前作と同じ3人。広島の小さな造り酒屋今田酒造の代表取締役にして杜氏の今田美穂、東京の日本酒バーで料理との「ペアリング」を常に目指す唎酒師千葉麻里絵、そしてニュージランド出身で日本酒ソムリエの資格を持ち、国内外に日本酒の魅力を伝道するレベッカ・ウィルソンライ。女性杜氏も今では複数存在するが今田美穂はその先駆けという。映画に登場する元『dancyu』副編集長の神吉佳奈子は言う。「(蔵が)女人禁制だった理由は、(縁起や穢れといった理由より)重労働だったことと、出稼ぎの蔵人が半年間集団で寝泊まりするため、女性がいると不都合だった」ためで、近代化、機械化した中でもう女性が酒造りをすることに違和感はないと。そうはいっても重労働である。今田杜氏は朝4時とかに蔵に入る。今田さんは「結婚や(異性との)付き合いなど考えたこともない」と言うが、そのような女性しかつとまらないのであれば、まだ女性にとってはハードルの高い職場と言えるだろう。でも、シェフとかパテシエとか職人を目指す職場というのはそういうもので、労働条件がイコールブラックかどうか、やりがいの搾取かどうか側から判断するのは難しい。

千葉さんもレベッカさんもそこに至るまでの勤勉・労苦は計り知れない。好きでだから、お酒を愛しているからでないとできないだろう。3人とも言わば日本酒「道」の求道者である。しかしそこには不思議と禁欲的であるとかの悲壮感は感じられない。ああそうか、何らかの道を極めることが男にだけ求められていた時代、蔵に女性が出入りできなかった時代、に思い浮かぶような求道者像は男のそれであったのだ。ここにも筆者自身のジェンダーバイアスが介在している。禁欲的、世捨て人のような求道者もあっていい。しかし、それは当然ジェンダーとは無関係であり、だからこそ楽しく、もちろん厳しく道を極める彼女らの姿がある。千葉さんは、お酒だけを楽しむ世界から、料理にあったお酒を、あるいはその反対をいくお酒の供し方、料理のもてなし方を模索する。今田さんは広島の地元に埋もれていた育てにくい酒米を復活させ、YK35(原料の酒米には山田錦を使い(Y)、『香露』で知られる熊本県酒造研究所で分離されたきょうかい9号(K)という酵母を使い、精米歩合を35%まで高めれば(35)、良い酒ができて鑑評会でも金賞が取れる、とした公式めいた語をさす。=ウィキペディア)を脱皮した、「公式」にとらわれない新しいお酒がどんどん生み出されているが、今田さんのお酒はまさにそれである。レベッカさんは日本酒の可能性を世界に広げようと飛び回る。現在世界でもっとも人気のある日本人アーティストの一人、村上隆と酒蔵をコラボさせるなど貪欲にも見えるが、村上隆の戦略も見逃せない。がここはそれはひとまず置いておこう。

政権与党の「女性活躍社会」に最も白けたのは当の働く女性たちであったという。女性が普通に働くことを「活躍」と絶対見なさなかった、あるいは、女性だからというだけで「活躍」を求める欺瞞性を見抜いていたからに他ならない。そして街角で必要性もなく性別を聞いた番組が謝罪に追い込まれるなど(その良し悪しはさておき)、今や性はたった2種類と捉えること自体が時代錯誤かもしれない。

しかし本作で言えば、やはり、お酒に魅せられ、その魅力を広めようとする女性たちの姿は素敵だ。

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ドイツもまだ戦争は終わっていない 「僕たちは希望という名の列車に乗った」

2019-06-15 | 映画

刑事フォイル。イギリスのテレビ放映されたドラマで日本でもBSで放送された。これにいたくハマった。フォイルは戦争中、地方都市の警視であったが、警察を辞めた後は戦後諜報機関の捜査員となる。放映された時は「刑事フォイル」だが、原題は「Foil’s war」、「フォイルの戦争」である。であるから、フォイルが経験、見聞きした戦争の実相が深く、丁寧に描かれているのがドラマの魅力である。戦争には戦前、銃後も含む戦中、そして戦後があって、初めて戦争そのものを語ることができると思う。戦争というと戦中の出来事、戦闘や銃後の被害、空襲や様々な人的被害、生活苦などが描かれるのが常であるが、戦後も重要である。というのは、まさに戦中、誰がどのように行動したか、しなかったか、その思惑は、その背景とその後の影響は、と戦争が終わっていないことを直視せざるを得ないからである。ナチスの罪責をいまだに問うドイツをはじめヨーロッパの姿勢が顕著だろう。

そのナチスの暴政に抵抗したりしたため、戦中には必死の経験をして、生き永らえた人たちが政権の中枢にある東ドイツ。ソ連の完全な支配下にあり、その政治体制に異議を唱える者、従わない者は全て反革命、ファシストである。1956年10月ハンガリーで報道の自由、言論の自由、自由な選挙、ソ連軍の撤退などを求める学生らのデモが始まった。11月1日にはナジ・イムレ首相がハンガリーの中立とワルシャワ条約機構からの脱退を表明し、ソ連に反旗を翻した。「ハンガリー動乱」である。しかし11月4日にソ連は軍事侵攻し、2500人のハンガリー人が犠牲になった。再びソ連の支配下となったハンガリーはもちろん、東ドイツでも民衆蜂起を「反革命」「ファシストの扇動」と決めつけ、徹底的にプロパガンダを行う。そのような時代にあって、たまたま訪れていた西ドイツの映画館で民衆蜂起のニュースを見たクルトとテオ。東ドイツの教室で「犠牲になった民衆に黙祷を」との提案を多数決で受け入れたクラスでは歴史の授業の最初に2分間の黙祷を捧げるがこれが思いもよらぬ方向に。首謀者探しに躍起になる学務局員、国民教育大臣まで出てきて、首謀者が分からなければクラス全員に卒業試験を受けさせず、クラスは閉鎖するという。クラスは多くの場合肉体労働者になるしかない現状に反して、大学進学というエリートコースだったのだ。

生徒一人ひとりを詰問する学務局員は生徒の親世代、すなわちナチスの時代を生き抜いた彼らの過去を徹底的に暴き、動揺させる。黙祷に反対していたエリックは、父親はナチスに抗し英雄死したと信じていたが、ナチスに寝返り、ソ連側に処刑されていたことが明らかに。「首謀者」のクルトは父が市議会議長という名門だが、父はこの処刑に居合わせていた。クルトの親友テオの父は1953年の民主化運動に参加したために知識層から、過酷な製鉄所勤務になっていたことも分かった。エリックが苦しさのあまり、クルトを首謀者だと白状したため、クラスは窮地に。クルトをはじめ、クラスの大半は「首謀者は自分」と告げ、西ドイツへの脱出を試みる。史実だそうだ。

映画を見ていると東から西へ検問はあるが、簡単に移動できたことが驚きだ。そうベルリンの壁ができたのが1961年、その前の話である。しかし、西側陣営に入り経済成長する西ドイツに対し、東側=ソ連以下社会主義陣営側の結束を示す必要があった。東ドイツで有名な国民密告=諜報組織、シュタージは映画には出てこないが、学務局員が生徒に密告を促すあたり、とても怖い。そしてその密告の材料にされたのが前述の「戦争中本当はどう過ごしたか、振る舞ったか」である。

冒頭に戦争とは、戦後も描かれて初めて戦争そのものを語ることができると書いた。戦後もきちんと伝えなければ、戦争を総括したことにはならないのである。本作と同時期、統合後のドイツで旧東ドイツ出身の労働者が、将来や展望のない現在に不安を抱え、窮屈だったが皆が平等だった(と記憶を上書きする)東ドイツ時代を懐かしむ映画「希望の灯り」も上映されている。そもそも戦争が東西分裂を生み出し、戦後の苦しみも生み出した。戦争に終わりはない。

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生徒の成長から、教師の成長へ  「12ヶ月の未来図」

2019-05-24 | 映画

フランス映画には教育現場、それも移民の多いパリの20区など、の現実を明らかにする一連の学校映画がある。「パリ20区 僕たちのクラス」(https://blog.goo.ne.jp/kenro5/preview20?eid=c7210d4f26c8a795ee10ceac8388954c&t=6144111185ce52d4725b1a?0.9014866516127933)では、フランソワ!(本作と同じ「国語」教師)が丁寧に生徒一人ひとりと向きあう中で、言葉を自分の意思を伝える大切さを伝えていた。「12か月の未来図」も20区の困難校を舞台とする。高名な作家を父に持つフランソワはその新刊サイン会で教育改革の持論を口走り、居合わせた美人に注目される。彼女のランチの誘いにいそいそと出かけると、そこは国民教育省。彼女は教育困難校改革に取り組み専門家で、フランソワの「ベテラン教師こそ、困難校に派遣すべき」の第一号になってしまう。彼がこれまで教鞭をとっていたパリ中心部のエリート校、アンリ4世高校とは雲泥の差の郊外のバルバラ中学校。生徒は移民の子ばかりで勉強意欲ゼロ、自己評価も低く教室では集中できない。そんなクラスでアンリ4世校でしていたように高圧的、求めるレベルが最初から高い授業をしようとすると…。授業妨害したり、問題を起こす生徒は指導評議会でさっさと退学させる学校。生徒が変わっていくには教師自身が変わっていくしかない。それに気づいたフランソワは『レ・ミゼラブル』の全編読解を通して、生徒らに知的好奇心と自信を取り戻していく。トラブルばかり起こすセドゥはルーブル美術館での遠足で王の寝室で実際に寝るというとんでもない騒動を起こす。一緒だったマヤは退学猶予になったが、セドゥは即時退学に。セドゥをなんとか学校に戻したいフランソワは奔走し、その退学手続きに法令違反があることを見つけ、セドゥハ復学。フランソワの派遣業も間もなく1年の節目を迎える頃には、セドゥら生徒もフランソワを信頼している。

学校が良い方向に変わるのは生徒が変わるというのもあるだろうが、本作では教師が変わっていったところに焦点を当てる。ブルジョア出身で同じような階層の人たちとしか付き合ったことのなかった、教えたことのなかったフランソワはフランス語に対する愛があった。その愛を生徒らに届けたいと思った。ノンフィクションである「奇跡の教室」(「受け継ぐ者たちへ」 真に受け継ぐやり方とはhttps://blog.goo.ne.jp/kenro5/preview20?eid=943204852c48e2ab605caf53b313b004&t=3556695655ce74060c633e?0.19222755866463048)では、生徒らがホロコーストの実相を調べる中で成長していったが、実在の歴史の教員の熱意が描かれていた。その熱意とは生徒に教えるという教員としての当然の熱意もあるだろうが、教員自身の自分が教える科目に対する熱意が重要であると思う。そしてそれを保障する教育現場の環境も。

バルバラ中学の校長は事なかれ主義に見えたが、結局はフランソワの熱意と正義に負けている。教員の自主性を尊重する文化的基盤があるように見える。ひるがえって見れば、日本はどうか。大阪では生徒の学力テスト成績が悪い学校には予算を減らすという。子どもらの学力の背景には、その子らの環境、ひいては地域社会全体の環境と無縁ではないということが分かっていないらしい。そして、学校運営を民主的に進めようと模索する教員は教育委員会や校長の言うことを聞かない異分子として排除する。「移民政策ではない」と言い続ける政府の思惑とは逆に確実に移民とその子らが増える社会になるであろう、この国。12か月どころか長いスパンの未来図も描けないのは明らかだ。

 

 

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美は独占も排除も共感も惹きおこす  ヒトラーVSピカソ 奪われた名画のゆくえ

2019-04-24 | 映画

最近ナチスの時代に絵を描くことを禁止され、不遇だったエミール・ノルデが実はナチ信奉者で反ユダヤ主義者であったとの資料が発見されたとのニュースがあった。ノルデはユダヤ人ではなかったためフェリックス・ヌスバウムのように収容所送りになることはなかったが、「頽廃芸術」の烙印を押され、描くことを禁じられた。しかし、ノルデは密かに「描かざる絵」を書きためていたという。そのノルデが実はナチ信奉者であったとは。

ナチスは「頽廃芸術」一掃運動として自己の思想に合わないとみなした「コスモポリタン的で共産主義的」な美術作品を略奪、強奪、廃棄した。その烙印を押された芸術家は、ドイツ国内の表現主義、モダンアートにとどまらず、ピカソやゴッホ、ゴーギャン、シャガールなどにまで及ぶ。ナチスの追及を避けるため、シャガールやモンドリアンなどアメリカに渡った者も多い。略奪した作品をナチスはどうしたか。実は、それら作品を国家元帥たるヘルマン・ゲーリングは収集しまくっていたのである。ヒトラーを欺いて。そしてその収集を助けた画商が当然存在した。ヒルデブラント・グルリットはナチスの宣伝相ゲッペルスに重用され、頽廃美術品を売買(もちろん買うときはとんでもない安値で)した。戦後になりグルリットは扱っていた美術品をもはや所持していないとしていたが、家族が隠し持っていたいのだった。家族が1500点もの作品を戦後ずっと隠していたが、2010年に発覚。グルリット事件として大きく報道された。グルリット(息子)に対する刑事訴追も進まぬ中、グルリットは2014年に死去。全財産をスイスのベルン美術館に寄贈するとの遺言が発表されたのだった。これを機に2017年11月にベルン美術館にて「グルリット展」が開催されたのだった。では、ナチスが略奪した60万点にも及ぶ美術品、その後行方不明の10万点の美術品の運命は。

本作は、略奪された本来の所有者や画商の子孫、作品を追跡する研究者やジャーナリストのインタビューなどで構成される。ナチスの時代を生きた人たちが確実に減っていく中で、その探索は困難を極める。しかし、グルリットの秘匿と作品の来歴が税関検査と様々な書類、作品に施された痕跡から明らかになったように、探索の手は休まることもない。しかし作品が発見され、元の所有者が判明したとしても、その返還には訴訟手続きが必要な場合など、膨大な時間と労力がかかるのも事実だ。しかし、ナチスの蛮行を暴くためにも必要な作業であるし、芸術作品を時の政権の取捨選択、好悪により選別することはあってはならないし、芸術の独立、思想信条の自由、表現の自由を侵す悪行であって、その追及の手を緩めてはならないだろう。

ナチスは、正しい芸術とそうでない芸術を色分けし、前者を「大ドイツ芸術展」として、後者を「頽廃芸術展」として開催したが(1937年〜)、後者の方が圧倒的人気であったという。そして、展示された後、秘匿された作品群。芸術作品を自分だけのものにしたい、こっそり愛でておきたいというのは芸術作品のもつ魔性であって、それに抗うことのできなかった者によって作品は現在まで保護されたというパラドクスが生じる。しかし、戦争責任と美術品保護の有用性は別に論じる必要があるだろう。でないと、戦争は自分がおこしたものではないし、あの時代は仕方なかったのだ、自分に責任はない、と認めたらアイヒマンの言で戦争犯罪人はいなくなってしまう。

ナチスの時代に限らず、戦争は美術品の略奪が行われ、作品は移動し、だから保存されたのだというのは歴史的結果であって、ナポレオンが大家帝国が様々な美術品を自国に持ち帰ったことに対し、元々の所有者(国)が返還請求することはやむを得ない。しかし、平和な時代であるからこそ、そういった返還・帰属問題について話し合うことが可能なのであるし、そういった論争があることで、より多くの人が美術(作品)や歴史に目を向けることができるなら、圧制や独裁ではない社会=民主主義の発展に寄与するのではないか。

ナチスの空爆を非難、「ゲルニカ」を描いたピカソは言う。「壁を飾るために描くのではない。絵は盾にも矛にもなる、戦うための手段だ。」

かたい内容であるにもかかわらず、スリリングな謎解き仕立てで本作は色々なことを考えさせてもくれるのだ。

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日本では制作できない快哉  「金子文子と朴烈」

2019-04-10 | 映画

紙幣の意匠が全面的に変更されるという。渋沢栄一と津田梅子と北里柴三郎。前回の福沢諭吉と新渡戸稲造の時は、彼らの中国、朝鮮半島への覇権主義、植民地主義を理由に反対もあったようだが、今回の3名はどうだろうか。少なくとも戦後の民主主義に基づく歴史的評価としてプラスであるとされる内村鑑三や田中正造など一度は体制に異議を唱えた人物は選ばれないだろう。ましてや天皇(制)に弓を引いたとされる幸徳秋水や管野スガ、大杉栄などは。そして金子文子も。

恥ずかしながら金子文子は名前くらいしか知らなかった。しかしその実像と功績を韓国映画で、韓国の俳優さんで知ることになろうとは。演じたチェ・ヒソが素晴らしい。大阪で育ち、日本語はネイテブとして完璧。言葉の壁の問題ではない。彼女は役になりきるため、金子文子の自伝を読みこなし、当時の時代状況を徹底的に体得し、役作りに没頭したという。その甲斐あって、強く、たくましく、優しく、余裕があり、凛とした金子文子を見事演じきった。

関東大震災における朝鮮人虐殺が日本政府(官憲)の恣意的プロパガンダが原因であり、その史実は紛れもない事実である。しかし小池百合子東京都知事が、慰霊祭での追悼文を見送ったように、歴史修正主義勢力は幾度も「死亡者数の過大さ」をあげつらい、虐殺そのものをなかったことにしようとする。しかし、そのような論が全くデタラメであることと、自国の負の歴史を直視しない姿勢こそ、世界史的には友誼が持てない国に成り下がっている現実を反映しているのではないか。

それはさておき、金子文子と朴烈の生き様、裁判を徹底的にリサーチしたというイ・ジュンイク監督の描いた二人は日本人監督でもこうはならなないだろう、いや、日本で制作すれば腰が引けるのではないかというほど、明快で面白い。「大逆罪」という最大にして最悪、絶対主義の天皇制国家において死刑しかない大罪、もちろん、君主制を否定する金子らを葬らんとする捏造=冤罪ではあるが、を犯したと獄に繋がれているのに彼女らのこの朗らかさはどうだ、潔さはどうだ。第1回公判で、朴と金子が要求した韓服での出廷は史実らしい。そして、尋問判事が認めた勾留中の二入の記念写真撮影。痛快である。そして公判で滔々と自説を述べる金子と朴。大審院の時代ではない「戦後民主主義」下の現在の法廷の方がよっぽど不自由だ。

アナーキズムは「無政府主義」と訳される。多分そうなのだろう。しかし、本作で描かれたのは個の自由を求め、君主制たる天皇制などの特権階級のない社会を目指す、ひたすら平等で個の選択権を認める世界の実現であった。理想主義的すぎると言うなかれ。世界的に見れば内実はともかく君主制より共和制をとる国が多いし、フィンランドのように君主制も取らずに社会的平等がかなりの程度実現した国もある。そして彼の国ではベイシックインカムの社会実験もなした。

本作が出来上がったのは、出演俳優らが日本人も含めて、皆バイリンガルであった故。思想的劣位も含めて、日本では、そもそも制作が困難だったであろうことは容易に想像できる。

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男女平等ランキング110位の国から見る「ビリーブ 未来への大逆転」

2019-03-23 | 映画

NHKの「サラメシ」で東京地方裁判所の女性裁判官の日常にフォーカスしていて、ランチタイムの「女子会」では、裁判官以外の一般職員との交流が描かれる。裁判所が建物内の撮影を許可したのも驚きだが、裁判官の日常シーンの撮影を許可したのも驚きだ。とはいえ、裁判所は安倍政権の言に則って「女性活躍」と、裁判官、一般職とも女性採用・任用に躍起である。裁判所では管理職試験には男性より女性に「受けろ」との圧力が強いともあるそうだ。

なぜか日本公開では「ビリーブ」とあるが、原題は「ON THE BASIS OF SEX」である。「性」に基づいて、という原題そのもので、主人公のルース・キンズバーグの秘書が、「SEXではなくてGENDERで」というシーンがある。ジェンダー=社会的性差。それこそ、80年代以降フエミニズムの運動によって定着した言葉である。

1950年代。アメリカでも女性は働く者、男性の稼ぎに頼らず自立した個としての人間とは認められてはいなかった。やっとハーバード・ロースクールへの女性入学が認められたとはいえ、500人のうち女性は9人。学年トップの成績も、夫のニューヨーク赴任についてコロンビア大学法科大学院に転籍するが、ここでも主席で卒業。しかし、女性でユダヤ系の者を雇う弁護士事務所などどこになかった。大学で「性差別と法」の教鞭を取っていた1970年。夫マーティンが持ってきた訴訟記録に自ら弁護する決意を固める。それは女性には認められていた親の介護に伴う税控除が独身男性には認められないという税法上の性差別事案。ルースはこの差別法が憲法違反だと認めさせる戦いに挑む。

「法は天候には左右されないが、時代の空気には左右される」。映画で何度も繰り返されるキーフレーズは、アメリカでもこの日本でも当てはまる。しかし、法は時として、時代を先取りしないといけない場合もある。というのは、上野千鶴子さんが解説で、1)時代がとっくに変わっていったところにようやく法が追いついた例、2)時代が変わってしまったのに法が頑迷に変化しない例、3)時代の現実が追いついていないのに形式的平等があてはめられて、かえって問題が起きる例。と3例にわけて分析しているが、1)は男女雇用機会均等法を、2)は夫婦別姓選択制、3)は子どもの引き渡しを求めるハーグ条約の例をあげている。男女雇用機会均等法によって採用差別や定年差別が表面上は禁止されたが、東京医科大の女性入学差別や、非正規労働に就くのは圧倒的に女性が多いことなど、まだ均等法だけでは不十分と思える。世論調査で5割、50歳未満では6割超の賛意のある夫婦別姓選択制を国会は  国会議員の女性割合がG20で最下位のためなどで、男女平等ランキングが世界で110位(2018年)  絶対に認めようとしない。2015年の最高裁判決でもどちらでも選べるから差別ではないとするが、選ぶ自由が男性より女性にない実態を無視している。

日本よりはるかに進んでいるように見えるアメリカでも70年代までは、明らかに女性差別のひどい国だった。その逆境にあって税法上の性差別を違憲だと勝ち取り、他に様々な功績を残したルースは、1993年クリントン大統領によりアメリカ史上2人目の連邦最高裁判事に任命され、86歳の今も現役である。日本の最高裁でも女性判事は何人も誕生しているが、先の夫婦別姓合憲判決では岡部喜代子、櫻井龍子、鬼丸かおる、の3裁判官は違憲の少数意見を書いている。しかし現在最高裁の女性判事はたった1名。より後退してると言えるのではないか。

「法は天候には左右されないが、時代の空気には左右される」がいい方向に向かえば、時代を先取りすることもできるが、現在の日本の司法は、数々の原発訴訟や沖縄の辺野古基地建設を巡る判断など「時代の空気」を「政権の思惑」に限定して読んでいるように見える。ルースの戦いのエキスが、男女平等ランキング110位のこの国に大量に必要なのは言うまでもない。

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