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kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

真実の追及に「黒塗り」で応える、アメリカ、日本  「モーリタニアン 黒塗りの記録」

2021-11-14 | 映画

本作の題名にある「黒塗りの記録」と言えば、この国では森友問題をめぐって財務省が公文書を改竄した際の文書や、名古屋入管で見殺しにされたウィシュマ・サンダマリさんの入管側の経過報告書が思い浮かぶ。しかし、本作の黒塗りはある意味もっと闇は深い。だからといって日本の黒塗りは軽いのか、そうではない。しかしそれは後述するとして、ここで問題なのは、アメリとかというもっと自由で、民主主義が保証され、かつ政府の透明性も「高い」とされている世界一の軍事大国の闇だ。

本作の問題提起は2点あると思う。一つは、政府が司法手続きの正当性=法的根拠を無視して、被疑者と見なした人間を長期間拘束する点、そして、その事実を国をあげて隠蔽しようとする点である。1点目はデュー・プロセスの本質から逸脱しているのは明らかだろう。そして世界一の民主主義大国を標榜するアメリカが、情報開示、市民の知る権利とは真逆の対応をした実態である。

9.11で国の威信を貶められたと考えたブッシュ政権は、「これは戦争だ」とアフガニスタンのタリバン政権を崩壊させ、テロの温床に資する大量破壊兵器を所持しているとしてイラクのフセイン政権も崩壊させた。しかしタリバンが9.11の首謀者とされるアルカイダ、その指導者であるとされるビン・ラディンが本当に9.11を指示、主導したのかも分からないのにパキスタンという独立した他国にいたビン・ラディンを米軍は家族とともに暗殺、イラクには大量破壊兵器などなかったことは周知のことである。

9.11の実行犯と繋がりが深い容疑者として浮かんだのが、ドイツの留学と実際アルカイダの軍事訓練も経験があるモハメド・ウルド・スラヒ。アメリカ政府に忖度!したモーリタニア政府はスラヒを拘束、そのままアフガニスタンを経て、グアンタナモに移送される。しかし解放されるまでスラヒに拘束の理由となる正式な司法手続きは一度も存在しなかった。ブッシュ政権、イラク侵攻を主導し、その理由に石油利権がウラにあるとされ、利権企業の取締役であったラムズフェルドは9.11の実行犯を1日も早く「吊るし」、国民の怨嗟を回収しようとした。スラヒを早く死刑にしろ、と命令され、起訴を担当するスチュアート中佐を演ずるベネディクト・カンバーバッチ、スラヒを弁護する人権派弁護士ナンシー・ホランダーにジョディー・フォスター。役者は豪華だ。そしてスラヒ役は実際にアラビア語などを操るフランス出身のタハール・ラヒム。15年近く裁判も受けられないのに拘束され続けたスラヒをラヒムが演じ切ったことで本作の成功は約束されていたと言える。それほどスラヒの経験は壮絶で、簡単には描写できないし、スラヒの人間的崇高さも魅力なのだ。スラヒに関する記録が黒塗りになったのは、彼の拘束に関する法的根拠がなかったためと、彼の自白が拷問によるものだったからだ。その事実が、スチュアート中佐側からは、絶対に機密であると公訴権を持つ検察官をもはねつける国家の強固な意思をなんとか崩そうとする姿勢と、ホランダー弁護人側からは、被疑者の秘密交通権をたてにスラヒから届く手記により次第に暴かれていく。その様はとてもスリリングで、権力による恣意的な裁判運営ではない、「法の支配」の原点に触れる気がするのだ。忘れてはならないのは拷問=「特殊取り調べ」と呼ばれる、を許可したのがラムズフェルドであったという事実。正式な裁判、司法手続きの管理下では拷問などできないのでこのような方法をとっていたことが分かる。心身に対する凄惨、卑劣な拷問や女性取調官による性暴力などの事実は、スラヒが手記を出版する際には多くが「黒塗り」された。しかし、出版社はその「黒塗り」のまま出版したのである。

森友事件をめぐり財務省の公文書改竄を強制された赤木俊夫さんが自死した。その実態の解明を求める妻雅子さんの要求に、この国はまだ「黒塗り」で応える。公文書改竄が赤木俊夫さんにとって「拷問」であったのは明らかで、その責任をとるべき人間がきちんと取ることなどこの国で想像できるのだろうか。

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人為がなす神の怒りか  現在進行形でデップが訴えるMINAMATA

2021-10-02 | 映画

熊本県には2回行ったことがある。いずれも水俣病のことを学ぶスタディ・ツアー的なもので、ずいぶん以前に行った際には、原田正純さんの講演と砂田明さんの一人芝居を観劇した。そして割と近年行った際には、水俣に生きる人の思いを受け止めるとても若い世代の永野三智さん(『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』著者 2018 ころから)にガイドをしていただいた。

だが、自分自身は水俣病にきっちりと向き合ってきたわけではない。いわゆる「公害問題」を同時代的に実感するには、その土地の出身ではない限り、かなり主体的、意識的に関わらない限り難しいのかもしれない。言い訳ではあるけれど。

ジョニー・デップ演じるユージン・スミスはかなり破滅的だ。過去の栄光を引っ下げてLIFE誌の編集長に直談判する際にはもう酒でヘロヘロ。一念発起で訪れたはずの水俣でもウイスキーの小瓶が手放せない。「写真を撮る行為は、撮る者の魂をも奪う」というアイリーンへ放つ言葉は、その時点では重みも深みも感じられない。その、どうも役立ちそうにない、水俣病の患者や支援者、運動する人たちに寄り添い、直面する姿勢は見られない実相をデップは演じきった。信頼とは、相手の立場まで寄り添い、自己を居させる、上から、客観的ではありえないとの姿を示したのだ。

ユージンとアイリーンの写真集「MINAMATA」の象徴的作品となった、胎児性水俣病被害者の智子さんと母親の入浴シーンはピエタであった。その姿は、誰も侵すことのできない聖性を備えていた。しかし、そのように感じること自体、ユージンの写したかったものと、写された対象を蔑ろにする自己本位な感傷であるのかもしれない。ところが、初めてサン・ピエトロ大聖堂のピエタと対面した時、無神論者の自分が、そのあまりの神々しさや荘厳さに打たれて頬に涙が伝わったことが、智子さんの入浴シーンでも経験したことは本当だ。

映画では、チッソの工場前で大怪我を負ったユージンが、その包帯だらけの手でレリーズまで使用して、なんとか智子さんを写そうと苦心する様が描かれる。しかし、事実は大怪我したのは智子さんを撮った後のことであるそうだ。ここにドキュメンタリーではなく、作り物としてのフィクションに過ぎないと一蹴することは容易い。しかし、デップはドキュメンタリーを撮ろうとしたわけではないし、ユージンを演じ、描くことで「映画の持つ力をフルに活用して、伝えたいメッセージを発信することが我々の願望」であったのだ(2020年ベルリン国際映画祭公式記者会見から)。その「伝えたいメッセージ」とはなにか。それは環境活動家や反原発運動のリーダーでもない一俳優にすぎないデップが、その素人くささゆえに訴えた人為による悲劇を2度と起こしてはならない、ということだろう。

エンドロールに流れるテロップでは、世界中で繰り返されてきた公害や、薬害、原発事故などさまざまな環境汚染と人身破壊の歴史が続いていく。そこにはMINAMATAと並ぶアルファベットでの世界標準の表記となったFUKUSHIMAもある。そしてこれらは現在進行形であり、人為がなす神の怒りの発露なのかもしれない。映画の後援を熊本県はしたが、水俣市はしなかったそうだ。地元の人、患者らが抱える現在進行形の重みと苦しみが続いていると思える。

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共存でジェノサイドを防ぐ   「アイダよ、何処へ」

2021-09-24 | 映画

ニースで暴走したトラックにより多数の死傷者が出たテロ事件のあった2016年7月、筆者は翌月ボスニア・ヘルツェゴビナなど旅行する予定であった。しかし、ニースの事件で不安を覚えた同行者の意向もあり、キャンセル料金が高額になる直前のタイミングで旅行を取りやめた。ちょうど前月に乗り継ぎ予定であったトルコの空港でのテロ事件の影響もあったからだ。ボスニア・ヘルツェゴビナではスレブレニツァの虐殺跡地のガイドツアーも予約していた。あれから身辺事情の変化や新型コロナウィルス感染症拡大により、残念ながら行けていない。

ヤスミラ・ジュバニッチ監督はこれまでも「サラエボの花」(2006)、「サラエボ、希望の街角」(2010)とボスニア紛争後の市民を描いてきたが、今回紛争の渦中を初めて描いた。8000人超の犠牲者を出したスレブレニツァの虐殺はどのようにして起こったのか、止められなかったのか。ドキュメンタリーではないので、フィクションと言ってしまえばそれまでであるが、映画の冒頭「本作は事実に基づく」「登場人物や会話には創作が含まれる」との断りが入る。「創作」と言っても、ジュバニッチ監督の綿密なリサーチによる迫真性で、観る者を圧倒する。それは残虐なシーンがほとんど描かれていないのに、その背後に存する恐怖が想像できるからでもある。

従来、クロアチア紛争に始まるユーゴスラヴィア内戦では、セルビア人=悪者、と単純に理解されることも多かったようだ。とくに、ボスニア紛争ではセルビア人勢力がボシニャク人(ボスニア人、ムスリム)を迫害、虐殺した構図は明らかであるからだ。そして、その理解は戦後もボスニア・ヘルツェゴビナの復興に対する西側の援助と、セルビアに対する冷淡さという構図に現れている。サラエボはある程度復興し、西側資本も入っているのに、セルビアの首都ベオグラードはそうではない現実となっている。そしてセルビアから分離独立したコソボをいち早く承認したのは日本を含む西側諸国であった。

実際の政治的構図はさておいたとしても、虐殺の実相は解明されなければならない。しかし、ジュバニッチ監督はセルビアの右派政治家が虐殺を否定している現実を、製作する上での大きな障害だったと明かしている。スレブレニツァの虐殺は全てのボシニャク人にとって大きなトラウマとしつつ、映画はセルビア人に対する責任追及や弾劾となっていない。そこで描かれるのは、アイダという一人の国連通訳が自分の家族を守るため奔走する様と、国連本部の怠慢と、少ない構成で現地の緊迫した状況に対処できない国連軍(オランダ軍)の右往左往する様だ。虐殺に関し、後にオランダ軍の責任が裁判で認定されるが、あのような小さな規模とセルビア人勢力のムラディッチ将軍の奸計に対応できたかは疑問だ。しかし、おそらく国連軍が積極的に動かなければセルビア人勢力による虐殺が起こり得ることは予想できたのではないか。

実はユーゴ紛争におけるセルビア人勢力によるボシニャク人やクロアチア人に対する迫害は、歴史的にはその逆の構図があったことも見逃せない(例えば、ナチスドイツと同盟を結んだクロアチア民族主義勢力ウスタシャによるセルビア人迫害)。ジュバニッチ監督の前作「サラエボ、希望の街角」や本作のラスト、夫と息子らを失ったアイダが教職に戻り、ボシニャク人、セルビア人などさまざまな民族の子どもが一緒に過ごす姿に、憎しみではなく融和に希望を持つ監督の想いが伝わる。

共存でしかジェノサイドは防止できないのである。

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どんどん先に進む台湾 それ故の悩みと希望と  「親愛なる君へ」

2021-09-10 | 映画

コロナ禍の台湾で名を馳せたのはオードリー・タン デジタル担当大臣。住民追跡システムを構築し、早期に封じ込めたと賞賛されている。もともとはIT企業の成功者で、その能力を買われて特任省大臣に任じられ、時の人となった。タン氏がもう一つ有名な理由は、トランス・ジェンダーであるということだ。LGBTQの当事者がそれを明らかにして、閣僚になるというのが日本よりかなり先に行っているよう見える。そもそも台湾では2019年に同性結婚が法律で認められている。そのような社会環境であるからこそ出てくる課題が、同棲パートナー亡き後の子どもとの関係だ。それは周囲の視線や意識とどう関係しているのか。

亡くなったゲイのパートナーの息子ヨウユーと糖尿病を患う母シウユーの面倒を見るピアノ講師のジエンイー。シウユーが亡くなった後、不動産がジエンイーとヨウユーとの養子縁組前にシウユーからヨウユー名義になっていることが分かる。亡きパートナーの弟は、借金まみれで不動産が欲しいばかりにジエンイーを疑い、警察もシウユー殺害とそのための違法薬物入手の疑いで彼を逮捕する。ヨウユーを守りたいジエンイーは、罪を認める。

法律で認められていても、人々の意識は簡単には変わらない。ヨウユーをジエンイーから引き離そうとする弟(ヨウユーの叔父にあたる)は、「甥に普通の生活をさせたい」と言い、ジエンイーのピアノ教室にはジエンイーを講師として忌避する訴えが殺到する。初めは息子の同性愛志向が受け入れられず、シウユーにきつくあたるシウユーも自分と孫に献身的に尽くしてくれるシウユーを受け入れ、彼と孫の養子縁組に賛成するのだが、一番大事な当事者の気持ちという点では、9歳のヨウユーから話を聞こうとしない大人たち。

ここで描かれているのは、姿勢の人々を縛る固定観念とその呪縛、そしてヨウユーの叔父のように目先の金銭的欲望に弱い人間や、ハナからジエンイーを疑ってかかる警察の姿などだ。しかし、そもそもパートナーがヨウユーとの父子家庭になったのには、清廉で優しさに溢れたジエンイーに理由があった。

同性結婚が認められる社会ではステップファミリーの類型にも多様性が生まれるだろう。それは異種を排除して成り立つ非民主主義的な社会から、よりマイノリティに目配りするインクルーシブな民主主義、成熟した社会へのステップでおこる必然的な問題だ。ある意味、問題を可視化し、それを解決し続けるのが民主主義社会の宿痾でもある。台湾は、既にその実験場となっていて、コロナ追跡システムで見られたように、一人ひとりの国民管理が貫徹しているからこそ成立した「国家からの自由」を放棄した現実もある。それは、いつ中国という超大国に飲み込まれるかもしれないという危惧を抱いている隣国・小国の証でもある。

興味深かったのは、ジエンイーを完全に犯人扱いする警察の取り調べでもきちんと録画されていたし、警察の取り調べに不足を感じた検察官が独自に動く様だ。台湾の刑事司法がどのようなものか知らないが、その点では明らかに日本は遅れている。

日本では菅義偉首相が突然、自民党総裁選に出馬しないとし、複数の候補者が立候補を表明している。安倍晋三前首相が支持し、その安倍の歴史修正主義、国家主義的な価値観を引き継ぐ高市早苗は、教育勅語を信奉し、夫婦別姓選択制に絶対反対という。この国はまた台湾から遅れていくのだろうか。

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「自助、共助、公助」との共生、自分自身の特性との共生   私はダフネ

2021-08-12 | 映画

イタリアはトリエステでの実践から、法律で精神科の閉鎖病棟を無くした先進的な国として知られる。そこには障害の有無やその軽重に関わりなく、誰でも通常教育を受けられるようにしたインクルージョンの発想が完徹しているからだと説明される。幼稚園から大学までの全ての学校教育段階でそれは実践されているそうだ。しかし、だからイタリアのインクルーシブな環境のおかげでダフネは伸び伸びと育っている、と考えるのは早計であると作品解説で堤英俊都留文科大学准教授(学校教育学・教育社会学)は述べる。教育や社会環境に完成形はない。日々葛藤、逡巡、失敗と改善などの繰り返し、制度の見直しと継続、悩み続けているというのが現実のところだろう。

ダウン症のダフネは、スーパーマーケットで充実して働き、仲間に恵まれ、両親もそんなダフネを受け止めている、ように見える。しかし母親マリアの突然の死。それを受け入れられず、落ち込み、日々の仕事、生活にも支障をきたしたのはダフネではなく、父(夫)のルイジであった。ダウン症の人の中には、そうでない人より几帳面すぎるこだわりを見せる人もいるという。ダフネも同じところにしまわないと気が済まないとか、横断歩道でもない道を必ず手を上げて渡るとかの所作を見せる。今までいつも側に必ずいて、自分を受け止めてくれる存在が突然いなくなった衝動は、ダフネにはとても大きいように思える。しかし、落ち込んだ父親を立ち直らせようとするのはダフネの方であったのだ。

監督のフェデリコ・ボンディは俳優でもないカロリーナ・ラスパンティに出会い、この人こそダフネだと感じたという。ダウン症のラスパンティは実際、地元のスーパーで働き、小説も2冊出しているそうだ。その言語能力の高さから人気のYouTuberでもある。ボンディは実際にラスパンティに会い、用意していた脚本ではなく、彼女に自由に演じてもらうことにしたという。それは、彼女が地域社会で共生するとともに、自分自身のダウン症という症状、状況とも共生していることが分かったからという。

遠く離れたマリアのお墓まで歩いて行こうとルイジを誘うダフネ。後半は娘と父、その折々に出会うイタリアの人たちとの会話がはさまれるロード・ムービーになっている。出会う人たちの眼差しは、それは決して「腫れ物」に触るような対応ではない。イタリア全土でいろいろな障害を持った人たちが、普通に暮らし、周囲にいるのが当たり前というこの国の国民の「普通」を垣間見た気がする。

しかし普通と普通でない、ことの境界は曖昧で、グラデーションだ。人と人の間に、あるいは人の心の中に超えるべき壁を作る方が容易く、考え続ける、悩み続けることを避けたいのもまた人間の性だろう。だから民主主義や自由といった簡単には答えの出ない難問に、終止符を打つべく分断を煽るトランプのような人物への人気が衰えない。

菅義偉首相の「自助、共助、公助」発言は、すこぶる不評だ。この発言は、菅首相がこの順番に頼りなさいと言ったように捉えられたからであると思う。反対に、ホームレスや不安定雇用から放り出されて、今日の食べ物にも困っている人たちを支援する側は、「まず公助だろう」と指摘する。最後に、バックに、公助があるからどこまで自助で頑張れるか、と自己を叱咤激励する生き方、というのはその通りだろう。同時に、ダフネを見ていると自助も共助も、公助ともうまく付き合って日々を謳歌しているように思える。ダフネに連れ出されて、マリアの墓に辿り着いたルイジの顔に生気が戻ってきた。

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アメリカはどう映っているか、見えているか  「17歳の瞳に映る世界」

2021-08-03 | 映画

朝日新聞の夕刊にたまに載る藤原帰一の「時事小言」は、国際政治の今を分かりやすくまとめてくれてはいるが、例えばトランプ大統領に対する批判など明確でないと思え、その政治姿勢そのものには興味が持てなかった。けれど、藤原は国際政治学者というより映画マニアの側面には興味があり、藤原がテレビで紹介する作品は見てみようと思うものも少なくない。「17歳の瞳に映る世界」は、藤原に推されたから足を運んだ。

物語は至ってシンプルだ。17歳のオータムは学校とバイトの日々。学園の催しでステージで歌う彼女に「メス犬!」との差別的野次が飛ぶ。幼い妹らの父親である義父とは関係がよくない。そんなオータムの妊娠がわかる。ペンシルベニア州では親の同意なしに中絶はできない。州のウイメンズ・クリニックでは明らかに中絶反対で、「中絶は殺人」とのビデオを見せ、養子縁組のパンフレットを渡される。これにはアメリカが抱える現実的な背景がある。オバマ大統領に8年間にわたり政権を奪われた共和党は、中絶の合法化をひっくり返そうと州レベルでクリニックを減らしたり、中絶できる期間をどんどん短くする州法を成立させていく。そして決定的であったのが、トランプが大統領選で「当選したら中絶を非合法化する。場合によっては女性や執刀医を罰する。」とまで公約にあげ、福音派キリスト教徒の票を固めたからだ。当然、トランプ大統領誕生後も抗議デモやウイメンズ・マーチが起こったが、共和党は着々と上述の政策を進めた。そしてトランプが去った後も最高裁の構成が、保守派6対リベラル3となった現在、連邦最高裁が中絶の非合法を判断する危険性が高まっているのだ。オータムが住まうペンシルベニアは2020年の大統領選で激戦を繰り広げ、僅差で民主党が制したが、いまだにトランプが選挙不正を唱え、それを支持する層も厚い。それが暴徒による2021年1月の議会乱入、死者まで出した事件に至ったのはつい最近のことだ。しかしそういった政治的背景が、口数の少ないオータムの辛さを説明するものではない。

地元で解決できないと知ったオータムはいとこで、ただ一人の友だちスカイラーとニューヨークを目指す。しかし、一つ目のクリニックではその妊娠周期では対応できないと別のクリニックを紹介される。ホテル代など用意していない二人は地下鉄やゲームセンターで過ごすが、2カ所目のクリニックは手術は2日がかりだという。申込金を支払ったら、もう二入にお金はない。行きのバスで声をかけてきたジャスパーに連絡を入れて、ご飯を奢ってもらい、時を過ごすが、本当は現金が欲しい。お金を貸してあげるよというジャスパーはスカイラーを夜の街に連れ出すが。

手術前にオータムに質問するカウンセラーの描き方が丁寧だ。手術の内容に始まり、オータムの経験、プライベートなことも訊く。それは決して威圧的、教訓的でもないし、「あなたを危険から守りたいから」。「暴力的な性行為はあった? 4択で答えて。Never Rarely Sometimes Always?」本作の原題だ。

オータムを孤独と危険に晒したのは、直接的にはオータムの交際相手だが、それはそもそも「交際」だったのか、彼女を支える医療的、精神的ケアが地元にあったのか、では大都会のニューヨークでそれは充足されたか。ぶっきらぼうなオータムに、寄り添ってきたスカイラーが救いだ。アメリカの現在(今)を伝えるいい作品であると思う。

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「リリイ・シュシュのすべて」へのオマージュが美しい  「少年の君」

2021-07-23 | 映画

壮絶なイジメ、暴力にあったチェン・ニェンが坊主にして登校するシーンといい、どこか岩井俊二の「リリイ・シュシュのすべて」(2001)に対するオマージュがあるのではと感じていたが、やはりそうであった。随分昔だが、「リリイ」について教員をしている友人と話していたら「現実そのまますぎてキツイ」と吐露していた。「リリイ」で描かれるのは、イジメとそれを見て見ぬ振りをする大多数の生徒、援助交際、万引き。パシリさせられる少年は、思いを寄せいていた少女がレイプされたこともあり、イジメの首謀者(彼もまた厳しい家庭環境、状況にがんじがらめになっていた)を刺す。救いがなさすぎる「学園もの」であった。

「少年の君」は救いがあるのだろうか。北京大学などを目指す超難関、進学校に通うチェン・ニェンは娘のために怪しい商売もする母親と二人暮らし。イジメにあっていた同級生が校舎から飛び降り自殺した現場に遭遇、スマホで撮りまくる生徒の中を倒れた同級生にそっと上着をかけたことでチェンがイジメの標的に。首謀者は裕福な家庭で、チェンとは正反対のウェイ。チェンが知り合った暴力だけが生存の証であるチンピラのシャオベイは、チェンを守ると宣言するが。

学園ものであり、青春ものであり、ラブストーリーである。そして、刑事ドラマであり、ヒューマンドラマでもある。驚いたのはストーリーの重層性だ。ウェイ殺害の疑いをかけられたチェンがそれを否定して、シャオベイとともに曖昧なカタチでエンドかと思ったら、そこからが長かった。作品の最後に流れるシャオベイ役の俳優が、本編の後、中国でイジメ対策に確かに取り組んでいると述べる下りに強権国家になびく姿勢を感じ、興ざめしたが、監督・製作者はそれも織り込み済みだろう。中国映画は結構上映されていた改革開放が初期段階の時代、文化大革命の時代を描いた作品も多かった。もちろん「青い凧」のように未だ中国では上映が許されない作品もあるが、現実の中国共産党の姿勢に対して、それぞれどこまで描いても大丈夫かとの挑戦や果敢な試みがあったように思う。しかし、自由と民主主義の地・香港が、今や共産党の「直轄地」と変転ささせられている現在、中国映画で描けるものは限定されるのでないかと思える。だから描き方には細心の注意を払ったに違いない。中国政府がイジメ対策に取り組んでいるという付け足しは、観る側が「ああ、やはりそうか」と感じとるためのプロットであったと考えるのは穿ち過ぎだろうか、そうは思えない。

結局、本作では科挙の歴史を有する現代中国の受験戦争、学歴一本槍の競争社会を告発するものとはなっていないし、イジメに対する子どもの反抗・反撃の仕方として有効な処方箋を示しているのでもないし、罪を犯した、犯さざるを得なかった年少者の更生や生き直しのストーリーにもなっていない。描かれているのは、チェンと、シャオベイのその後、そしてイジメの加害者、それを覆い隠し、チェンに表面的な赦しを請うことで命をおとしてしまうウェイが死体で見つかったという事実だけである。だから「リリイ」と同じくらい現実的なのだ。

自死に至った場合はイジメの存在や実態が明らかになることもあるのかもしれないが、そうでなければ、いじめられていた子が転校するなどで表面化しない例の方がはるかに多いだろう。しかし、イジメが完全になくなる学校が、競争社会を温存した中でありえるとは思えない。チェンはその助けを自分とは別世界、正反対の世界に棲むチンピラのシャオベイに求めた。そして助け求める存在が出現したという意味ではチェンは束の間の安らぎ、安寧を経験できた。その果てが悲劇的であったとしても。

強権主義国家の象徴とも思える現代中国でも、個々の子どもの内面まで管理できなかったし、教師が表面的な建前で子どもらに訴えていて、子どもらも表面的に応えていた。そのアイロニーを一番描きたかったのではないかと、本作を観つつ考えていた。

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ジェンダー規範だけではない、男社会の決められなさ  ペトルーニャに祝福を

2021-07-14 | 映画

昔住んでいたところの駅から向かう途中マネキン工場があった。ちょうど突き当たりを曲がったところに工場の窓があって、夜道にいきなりこちらを見つめる裸体に出会い、分かっていてもギョッとなったものだ。マネキンはそれが偽物とわかっていても、どこか艶かしく、髪の毛や衣類をつけていない分、ヒトの本質を現しているように見えて、恐ろしく、そして惹かれるものもある。

ペトルーニャは学歴も高いのに仕事に恵まれない。ウエイトレスはダメと母親のツテで面接にいった先は縫製工場。秘書希望と告げると、面接の男には体を触られたり、「そそられない」とのセクハラを受け、怒りと失意の上でブティックの友人の衣装部屋で見つけたマネキンを抱いてとぼとぼ帰途に着く。川で行われていたのは「神現祭」。司祭が川に投げ込む十字架を最初に見つけた男は1年幸福に過ごせると信じられている祭りだ。無心に飛び込んだペトルーニャが十字架を手に取る。しかし、いきりたった男がペトルーニャから十字架を奪うが、混乱の中で再びペトルーニャが入手、家に持ち帰る。

その後の周囲の対応と、言葉少ないペトルーニャの対応と心境の変化が本作の見どころだ。十字架を盗んだのではないことは明らかで、「盗った」と非難するマッチョな男どもを前に説明にオロオロする司祭。罪に問われないため、「逮捕」の合法的理由も示さず、ペトルーニャを留め置く警察署長、明らかに無知とジェンダー規範の因習ゆえにペトルーニャを縛る母親など。地方都市の警察署長と司祭は明らかになあなあの関係で正義、公正とは程遠い。しかしペトルーニャは「これは逮捕なの?」と問い続ける。扱いに困った警察署長は不合理な脅かしでペトルーニャを留め置き、騙して十字架を奪い金庫にしまってしまう。

警察署の前では怒りくるった男どもは騒ぎ立て、ペトルーニャを聞くに耐えない罵詈雑言で責め立てる。

「神現祭」で女性が排除されている実態を女性差別、ペトルーニャはそれを壊した英雄として、自身のメディアでの位置を高めたいリポーターが執拗に警察などを責め立てる様相も現在的で面白い。そもそもペトルーニャ応援の声が広まったのはSNSの動画である。しかし、北マケドニアという東方正教会が強い社会で女性差別を差別と認識する規範が弱い上、ソ連崩壊後の東欧の雇用不安もある。それらのマイナス要因を全て押し付けられてきたのがペトルーニャのような存在だ。ペトルーニャの扱いと十字架をどうするか、ああでもない、こうでもないと右往左往する支配側、決定側にいるはずの男どもは結局決められないし、決めるための法規範や理屈を見出せない。要するにジェンダー差別をはじめとしてそれまである「伝統」や「決まり事」について、きちんと考えてこなかった男社会の弊害が現前したのだ。むしろ、警察署に押しかけてペトルーニャを引きずり出せ、「盗んだ」十字架を取り戻せと騒ぐ男どもはもう暴力も厭わないレイシストの姿そのものであって、信仰に篤くありたいと思う敬虔な者の姿ではない。

警察署長をはじめとする堕落、現状への疑問もつゆほどなく、怠惰に過ごす同僚の姿に疑問を持っていた若い警察官だけがペトルーニャに寄り添い、ペトルーニャも自己評価を取り戻す。故ない拘束から解放されたペトルーニャは司祭に「私のものではない」と十字架を差し出し、明るく去るラストが素敵だ。

原題は「神は存在する。彼女の名前はペトルーニャ」。これも痛快である。

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「豊かさ」はどこにあるのか、あるのだろうか? ブータン 山の教室

2021-06-22 | 映画

「国民総幸福」の国、ブータン。国民が実際どれだけ幸せであったり、幸せを目指しているのか本当のところは分からないことが多い。ましてや、首都ティンプーからバスと山越えで8日もかかる最僻地では。

ブータンは英語教育に熱心という。だから教員免許を持ち、それなりに首都で教員として働くウゲンは、本当はオーストラリアに渡って歌で身をたてたいと考えている。ダラダラと過ごしてきたウゲンは、いきなり山岳の僻地ルナナ行きを命ぜられる。iPodにヘッドフォンを離さないウゲンの行先は、バスを降りて峠を野宿で越えて向かう電気も水道もないところ。標高4800メートル、人口56人の村民全員で迎えてくれたが、ウゲンは自分には無理、すぐ帰りますと村長に告げる。帰るまで村人やロバの準備が必要なため、滞在中仕方なしに授業を始める。小学校中・低学年くらいの子どもが9人。高学年以上の歳になると町に出るのだろう。そして帰ってこないのだろう。若者がいない。村に残る男性も少ない。生徒に将来何なりたいか訊くと「先生です。先生は未来に触れられるから」。学ぶことに飢えている子どもらと付き合ううち、「教育」にきちんと向き合ってこなかったウゲンの心にも変化が現れる。

村の現金収入が少ないのは明らかだ。高地に生息するヤクとともに生きる。ヤクはミルクや肉、毛皮のみならず糞は燃料になる。村人はみな「ヤクに捧げる歌」を朗することができる。ヤクは生活そのものであり、命を繋げてくれる恵であり、そして神である。ウゲンに村長が告げるのは「先生はヤクでした」。ウゲンはそれに応えられるだろうか、応えるだろうか。

総幸福の国・ブータンもので、それも汚れていない村の話、と聞けば、現代人が忘れた心の「豊かさ」への回帰と覚醒のお話、と決めつけそうになる。しかし、都会しか知らない、チャラい、ウゲンの姿はブータンが抱える現実そのものの姿でもある。ネットにスマホ、ひとときもヘッドフォンを離せないウゲンは国民総幸福の国から出ようとしている。事実、オーストラリアなど英語圏で働くブータン人は多いという。技能実習生として来日している者もいる。少なくない数の若者が国を離れようとし、離れているのだ。技能実習生は将来帰国するかもしれないが、一度流出した若い頭脳は2度とブータンには帰らないかもしれない。村長は「この国は世界で一番幸せな国と言われているそうです。それなのに、先生のように国の未来を担う人が幸せを求めて外国に行くんですね」とウゲンに言う。もちろんウゲンは答えられない。

本作はウゲンら主要な登場人物以外は、映画を見たこともない村人が出演しているそうだ。学級委員を務める9歳のペン・ザムは村の子どもで、愛らしく利発だ。子どもらが熱心に学ぶ姿にウゲンが心動かされたことは間違いない。そう、学ぶことは教えることと同義で不可分なのだ。教えるものが学び、学ぶものが教える側に回る。そこに気付いたからこそ、冬を前に村を離れるウゲンの大きな心残りが生じたのだ。しかし、ウゲンは結局村の子どもたちを「捨て」、自分の夢であったオーストラリアに渡り、歌う。けれど歌ったのは「ヤクに捧げる歌」。素朴で都会の現代人が夢想し、希う古き良き桃源郷の世界ではない。キツく、ある意味イタい作品であるのだ。

新型コロナウイルス禍で、日本の子どもらには一人ずつにタブレットが備えられ、自宅でも学習できるとの環境整備が進むという。手作りの黒板に、希少な紙を使ってアイウエオ(ではないけれど)、a、b、cを学ぶブータンの僻地の子ら。どちらが「豊か」なのか分からなくなってくる。

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鬼才、異才は、「クールジャパン」の戦略か   HOKUSAI

2021-06-01 | 映画

「飢えている子どもの前で文学は何ができるか」

サルトルの有名な言説に思い至ったのは、阿部寛演ずる版元の蔦屋重三郎が「絵で世界は変わる」と宣ったからだ。時代は寛政の改革で奢侈禁止。しかし喜多川歌麿、東洲斎写楽、そして葛飾北斎と浮世絵文化を彩った錚々たる面々が活躍する時代でもある。弾圧と自由な表現と、近代法制の整う以前に表現者と、それを支える民、そして取り締まる側との攻防が時代の息吹を伝える。

それにしても北斎人気は度を越している。確かに米LIFE誌で「この1000年で最も偉大な功績を残した100人」に日本人でただ一人選ばれたことがある。しかし、数年前の若冲人気といい、東京オリンピックを盛り上げるための「クールジャパン」戦略の一角かと思うと鼻白む思いもする。とはいえ、北斎の偉業は度を越している。仔細は語るまい。90歳で斃れるまで画狂を貫き、富嶽三十六景、北斎漫画、男浪・女浪‥。偉業・異作の出ずる根本は、「描きたい」「描くのだ」という思いのみ。

若い頃を柳楽優弥、晩年を田中泯が演じるダブルキャストの手法は成功していると見える。史上最年少でカンヌ映画祭主演男優賞をとった柳楽は、その後、若年で傑出した俳優は成功しないというジンクスを跳ね除けて着実に伸びている。一方、田中は最近役者として名が売れているが、本来は身体で全面に勝負する世界的な舞踏家である。だから田中はインタビューで繰り返し自分がダンサーであることを強調しているし、その真骨頂が画面の節々にまみえる。例えば、ベロ藍を粉の状態で入手し、雨の中それを浴びるシーン。そして北斎の挿画を弾き立たせた戯作者の柳亭種彦が刺殺される場面を想像するシーン。いずれもスクリーンいっぱいに北斎、田中の形相が映し出される、なんという迫力か。ここでは身体をはって踊る田中が顔だけで勝負している。そしてそれは眼球だけでも。

民の自由な表現を担保する芸術は、時に権力批判も内包する。そして芸術家自身が、そうでなければ自己が目指す芸の極地に達し得ないと、権力と直接に対峙する。さらに柳亭のように秘されたまま消されることもある。しかし「出る杭は打たれない」と、蔦屋重三郎は言い放つが、それは酷薄な時代と無縁であったからではないか。というのは、寛政の時代、幕府も庶民に広がった戯作や浮世絵人気を本当に押さえ込もうとしたのかどうか、腰が座っていなかったという嫌いもある。商人なくしては武家社会も保てないことは明らかな時代であったからだ。明治以降の日本では、天皇制のもとに容赦無く消された表現者はいくらでも数えることができる。

北斎を持ち上げる理由に、西欧、主にフランスでの浮世絵などジャポニズム人気の嚆矢とする解説がある。確かにそういった部分もあるかもしれないが、北斎の生きた時代、フランスはヤワな貴族趣味のロココを脱し、新古典主義、ロマン主義と質実に立ち返った時代である。また、その後の印象派は反アカデミー趣味を重んじた。ゴッホが浮世絵を好み、エミール・ガレが浪の流線型にヒントを得たとしても、それは歴史的必然性の範疇とは言えはしまいか。

坂本龍一は「音楽で勇気を与える、なんて、音楽家としては一切思わない」旨述べる。絵で世界を変えることはあり得ない。後付けで言いつのることはあったとしても。

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