昔住んでいたところの駅から向かう途中マネキン工場があった。ちょうど突き当たりを曲がったところに工場の窓があって、夜道にいきなりこちらを見つめる裸体に出会い、分かっていてもギョッとなったものだ。マネキンはそれが偽物とわかっていても、どこか艶かしく、髪の毛や衣類をつけていない分、ヒトの本質を現しているように見えて、恐ろしく、そして惹かれるものもある。
ペトルーニャは学歴も高いのに仕事に恵まれない。ウエイトレスはダメと母親のツテで面接にいった先は縫製工場。秘書希望と告げると、面接の男には体を触られたり、「そそられない」とのセクハラを受け、怒りと失意の上でブティックの友人の衣装部屋で見つけたマネキンを抱いてとぼとぼ帰途に着く。川で行われていたのは「神現祭」。司祭が川に投げ込む十字架を最初に見つけた男は1年幸福に過ごせると信じられている祭りだ。無心に飛び込んだペトルーニャが十字架を手に取る。しかし、いきりたった男がペトルーニャから十字架を奪うが、混乱の中で再びペトルーニャが入手、家に持ち帰る。
その後の周囲の対応と、言葉少ないペトルーニャの対応と心境の変化が本作の見どころだ。十字架を盗んだのではないことは明らかで、「盗った」と非難するマッチョな男どもを前に説明にオロオロする司祭。罪に問われないため、「逮捕」の合法的理由も示さず、ペトルーニャを留め置く警察署長、明らかに無知とジェンダー規範の因習ゆえにペトルーニャを縛る母親など。地方都市の警察署長と司祭は明らかになあなあの関係で正義、公正とは程遠い。しかしペトルーニャは「これは逮捕なの?」と問い続ける。扱いに困った警察署長は不合理な脅かしでペトルーニャを留め置き、騙して十字架を奪い金庫にしまってしまう。
警察署の前では怒りくるった男どもは騒ぎ立て、ペトルーニャを聞くに耐えない罵詈雑言で責め立てる。
「神現祭」で女性が排除されている実態を女性差別、ペトルーニャはそれを壊した英雄として、自身のメディアでの位置を高めたいリポーターが執拗に警察などを責め立てる様相も現在的で面白い。そもそもペトルーニャ応援の声が広まったのはSNSの動画である。しかし、北マケドニアという東方正教会が強い社会で女性差別を差別と認識する規範が弱い上、ソ連崩壊後の東欧の雇用不安もある。それらのマイナス要因を全て押し付けられてきたのがペトルーニャのような存在だ。ペトルーニャの扱いと十字架をどうするか、ああでもない、こうでもないと右往左往する支配側、決定側にいるはずの男どもは結局決められないし、決めるための法規範や理屈を見出せない。要するにジェンダー差別をはじめとしてそれまである「伝統」や「決まり事」について、きちんと考えてこなかった男社会の弊害が現前したのだ。むしろ、警察署に押しかけてペトルーニャを引きずり出せ、「盗んだ」十字架を取り戻せと騒ぐ男どもはもう暴力も厭わないレイシストの姿そのものであって、信仰に篤くありたいと思う敬虔な者の姿ではない。
警察署長をはじめとする堕落、現状への疑問もつゆほどなく、怠惰に過ごす同僚の姿に疑問を持っていた若い警察官だけがペトルーニャに寄り添い、ペトルーニャも自己評価を取り戻す。故ない拘束から解放されたペトルーニャは司祭に「私のものではない」と十字架を差し出し、明るく去るラストが素敵だ。
原題は「神は存在する。彼女の名前はペトルーニャ」。これも痛快である。
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