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中島けんです。新しい映画や舞台の感想を中心に、大映の思い出、海外旅行・地元の話題などを写真付きで書かせていただきます。

永田雅一氏のこと、その12

2011年07月29日 | 日記
        

     前回から五社協定について書いていますが、日活が増えて五社協定から六社
     協定に移行し、この協定は、色々な問題を合わせて起こしながら継続して行く
     ことになったのです。
     前回に続いて永田社長の話をお聞きください。


     (永田社長の著書から引用)
     そこで、昭和31年に、私が会長をしている日本映画連合会(映連)を劇映画
     製作会社のみに改組しょうということになり、日活も同業者としてお入りなさ
     い。入った限りは、いままでは五社協定に対して全容を誤解しておったろう
     から、どうか安心してわれわれの仲間と一緒に、映画産業発達のためにやり
     ましようと語ったところが、堀日活社長も欣然として入ろうということになった。
     同時に映連は改組して日本映画製作者連盟となり、五社協定は六社協定と
     なった。

     ところがある社から動議が出て、もし独立プロダクションを悪意で便衣隊のよ
     うに作って、そこで六社に所属している芸術家を抜いて作った作品は、六社の
     中の一社が配給をするということは困るという。
     これが世間ではプロダクションのものは配給しない、フリーの者は使わないと
     は怪しからぬといっているが、われわれはそんなことをいっていない。
     六社協定に違反し、トラブルのあった芸術家をもって作られた作品は、六社は
     手をつけないという、道徳的な申し合わせがこれであって、私は当然の申合せ
     だと思う。
     例えば高峰秀子君や淡島千景君のように、フリーで、しかもトラブルを起こさ
     ぬ俳優は、どこでも使っているでしよう。私の考えは率直にいうと、私は今後
     も専属制をますます強化していきたい。

     一部の人からいわせると、二言目には会社は金を儲けるという。冗談じゃな
     い・・・。
     慈善事業や社会事業のために映画をつくっているのではない。自由主義経
     済のもとにおいて、映画もまた企業である。しかし映画は企業であるけれど、
     ただ単なる企業ではない。金さえ儲けたらいいというのではない。マスコミ
     ニュケーションの中のグループだから、やはりどこから公益性は持っている。
     それだけは自覚している。

     昔から言うように、舞台は一に狂言、二に役者だ。このことは一に素材だ、
     素材が悪ければどんな名優が出たって、観客をアッピールできない。これと
     同じく、映画を一に企画、二に監督、三に俳優といっている。まず企画、
     すなわち素材が第一だ。次が素材をうまく消化する演出家、すなわち監督が
     大事であり、第三が俳優である。それも総合芸術の基礎の上に立っての事だ。
     もう少しみんなが共同責任を感じないといかぬ。 (以上、引用)


     今までいろいろ述べました。
     永田社長の基本的な考え方を原則的に良しとしても、結果はマイナス面が続々
     と出てきて弊害を起こしたことは間違いないと思います。
     これを業界以外にも大々的に発表し、対象となる人たちに無言の圧力や牽制を
     必要以上かけたことにも連がり、世間が悪く取ったのは当然でしょう。

     私的にいうと各社がそれぞれキチンと契約を行っておれば良いのであって、
     わざわざ外部に発表することはない。それで引き抜きなどの問題が発生すれば
     堂々と出るところに出て決着をつけれよかったのではないか。プロダクションの
     問題だってそれが興行的に強い作品だと、なし崩しに解決される・・・。

     私の周囲でもこの協定に反発した人、泣いた人・・が結構います。
     日活が出来たときに、業界の古い体質に嫌気がさして移って行った南田洋子を
     はじめ技術者も沢山います。
     私が大映に入れ研究所で訓練した江美しのぶも、訓練が終わると同時に巧妙に
     松竹に 持って行かれました。
     業界は違いますが、私の長男がある会社からソニーに抜かれた時に、円満退社
     の格好をとるというソニーの要望で、3ケ月間の余裕を作って転社したのと同様
     に、いざやろうと思えば方法はいくらでもあった筈です。 (続く)

  
  左から矢島ひろ子・高松英郎・私・中条静夫      江波杏子と私

  
  渥美まりと私                     姿美千子と私

  
  勝新と岩下俊作氏(無法松の一生・原作者)  ダイニチ発表会、左から私、一人おいて松山社長
 
  地方の新聞記者と東京撮影所で宣伝部との懇親会。最後列左から九州担当の私、東京撮影所担当、
  関西担当、中部担当、二人おいて、舟橋東京撮影所長(舟橋聖一氏の息子)、北海道担当・・・。
  この中には若かりしころの平泉征・峰岸徹・渥美まりが交じっていますので探してください。

        
コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (hayamin)
2011-07-30 00:49:15
専属制のお陰で映画会社ごとのカラーの違いがはっきり出てよかった面もあると思います。
5社協定が崩れて、各社のスターがやたら共演するようになってからはちょっとつまらなくなった感じもします。
制度は制度として、一方で運用を柔軟にできればよかったのでしょうが、なかなかそううまくは行かなかったでしょうね…。
返信する
レスが遅れてごめんなさい。 (けん)
2011-08-06 23:43:32
hayaminさん

 いい面と弊害の部分と両方あると思います。
 どうしてもやるなら、実際にはもう少し上手く適用すべき
 だったと私は思っています。

返信する

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