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月丘夢路さん、94歳の訃報に接しました。合掌。
私自身お会いしたことがあるし、大映作品にも多く出演されておりますので、追悼の
意味を含めてご紹介したいと思います。
私は高校生の頃から高峰三枝子さん、月丘夢路さん、高峰秀子さん、折原啓子さん、
香川京子さん、久我美子さんほか、多くの女優さんと会う機会があり、皆さん美しい
方ばかりですが、中でも月丘夢路さんは私の記憶の中で飛び抜けて美しい方だった
と今でも思っています。
ご主人の井上梅次監督が、大映で仕事をすることが多かったこともあり、松竹、日活
についで大映作品にも結構出演していただきました。
彼女は広島市の出身で、女学校を中退して宝塚歌劇団に入学、昭和14年(1939)に初
舞台を踏みますが、同期に乙羽信子、越路吹雪らがいました。
在団中に宝塚映画「瞼の戦場」に出ますが、映画女優としての初主演は昭和18年(1
943)に大映へ入社しての「新雪」です。昭和22年(1947)に松竹に移籍、昭和30年(195
5)には製作を再開した日活に移籍、昭和32年(1957)に井上梅次監督と結婚。昭和34
年(1059)にフリーとなり、再び各社に出演するようになりました。
大映では戦前戦後にわたり、「新雪」「モンペさん」「最後の帰郷」「別れも愉し」「扉を
開く女」「野球狂時代」「Zの戦慄」「一本刀土俵入り」「女房学校」「釈迦」「晴小袖」「雑
婚時代」「黒い三度笠」「長脇差忠臣蔵」「雲右衛門とその妻」「裁かれる越前守」「帯を
とく夏子」「第三の悪名」などなどがあります。どうかゆっくりお休みください。
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「絶世の美女」 の言葉は
この方のためにあるような気がしております。
八千草薫さんが 伊映画の「蝶々夫人」に出演されたり
京マチコさんが 米映画の「八月十五夜の茶屋」に出演されたように
月丘さんも、欧米(おもに、ハリウッド)で
活躍される機会があったらどんなに素晴らしかったでしょう。
なぁんて、ひとりで空想してしまいました。
イヤリングをされているイメージがありました。
京マチ子さんも、外国の映画祭で
お着物にイヤリングをなさっていて
気風の良い女優さんの佇まいでした。
月丘さんは華やかさのなかに、
日本女性の健気な雰囲気がしました。
その美しさは、心を現すものだったと
思っています。
ご冥福をお祈り申し上げます。
ただ、その美しさを十二分に発揮する作品はあまりなかったようです。
中では、泉鏡花の『高野聖』の映画化の『白夜の妖女』が一番だったのではと思っていますが。
月丘さんは日本を代表する美人のお一人だと思います。
それに引き換え、日本の美人とか日本の良さを、どれだけ外国の
人が理解しているかだと思いますよ。
美人の扱いは難しいし、使い辛いことが往々にしてあります。
月丘さんの美しさは抜群でしたが、映画界は上手く使い切れ
なかったと思います。