感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
総目次に替えて・・
●「小豆島霊場巡礼日記」 その1 その2
令和元年秋、1日15kの歩きで2日間、小豆島88霊場のほんの一部を巡りました。
2年ぶりに再開。さて・・ その3 その4 その5 その6 その7 結局、体調不良で19の札所は参れず結願とはなりませんでしたが、大観音の膝元より歩き始め、その近くまで戻ることができました。その簡単な記録です。また小豆島全体の巡礼地図も添付しました。お役だてくだされば幸いです。
●「四国遍路道の石道標」
四国遍路道の主要な石道標について纏めてみました。不十分なものですが興味をお持ちの方はお役立てください。(逐次修正してきましたが、一応現状で最終版とさせていただきます。令和5年1月)
日記のなかでも時々書いたことですが、「遍路の心は道にある」と私は思っています。
どんな道(どんな手段、どんなルート)を選ぼうとも札所を辿ればよいのだという考え方には与しません。実際に歩いてみると、江戸時代の始めから多くの人々が歩いてきた道を歩き通すことこそ大きな喜びを感じること実感してきました。
では、そんな古い道はどうすれば見つかるのでしょうか・・ 江戸時代以来多くの人が歩いた道には多くの石道標が残されています。(白地の赤の文字で遍路道、へんろなどと書いたへんろ札を見ることがありますが、これらは昭和の後半に歩いた人達が残したもので、古い道の在処を示すものとはいえません。)
古い道を探すには江戸時代から明治の前半に立てられた石道標を探ることなのです。
ここにはこれら「石道標」とそれを地図上に落とした「遍路道地図」を掲げました。私の思いに賛同される方、お役立て下されば幸いです。(R6.8)
枯雑草の本四国の遍路日記は平成28年秋以降から滞っています。体のアチコチのガタと加齢、長い距離は歩くことができなくなりました。
その後は、本四国霊場を巡る旅から離れて、車の力を借りたり、歩く距離を短縮したりして。時折の巡礼の旅を続けておりました。
令和2年初頭からは、新型コロナの流行により四国の地に渡ることさえできなくなりました。でも・・
年齢を重ねる時の流れは待ってはくれないけれど、四国の地を歩くことを諦めた訳ではありません。たまにはその夢を見ますから。
「枯雑草の巡礼日記」も読み返し、手を加えたりしております。日記の総目次に替えて記事の大分類を掲げておきます。(リンクを辿っていただければうれしいことです。)
●「吉野川の高地蔵を巡る」
平成31年4月、吉野川の下流域に多くおられる高地蔵を訪ねて巡りました。洪水のこと、阿波藍のこと・・思いを巡らせる充実した旅となりました。
●「長州大工の心と技」
平成29年秋には、車の力を借りて長州大工が愛媛県内で建てた社寺を訪ねることができました。
●「遍路道地図」
旧道、古道に少々拘った遍路道地図を作製しました。道筋、主要な古い標石など(原則:大正期以前の地蔵、道標、茂兵衛標石)を含め随時修正、改定に努めております。最新版をご確認ください。
なお、遍路日記四巡目以降の記事に共通して該当する遍路道地図のリンクを追加しています。
お役立てくだされば幸いです。
●「私の好きな遍路道」
私の好きな遍路道を各県10か所程度選んでみました。遍路道地図のリンクも張っています。お役立てくだされば幸いです。
●「遍路日記の目次」
平成27年5月以降(5巡目以降)の記事の目次
●平成27年春 その後 藤井寺柳水庵、そして樋山地(H27.5.9)
●平成27年夏 かも道、いわや道、平等寺道を歩く(H27.7.8)
●平成27年冬 弥谷寺から丸亀までの小さな遍路(H27.12.10)
●平成28年春 その1 大坂を越えて阿波へ
その2 観音道を上って大山寺へ
その3 阿波の昔の遍路道 (地図遊び)
その4 旧土佐街道の道、月夜から薬王寺まで
番外 阿讃国境の峠道 (続地図遊び)
●平成28年秋 その1 内子から大洲そして金山出石寺へ
その2 宇和町上松葉から宇和島へ
その3 篠山の麓から宇和島まで
四巡目(h23.10 h24.4 h24.10~11 h25.9~10 h25.11 h26.3~4 h26)目次はこちら
遍路を振り返る
三巡目(h21.9~10 h22.3 h22.4 h22.9~10 h23.3 h23.5 h23.10)目次はこちら
二巡目(h18.10 h19.4 h19.10 h20.3~4 h20.10 h21.3)目次はこちら
一巡目(h17.3~4 h17.9~10 h18.3 h18.5)目次はこちら
遍路日記の終りに・・
長い私の遍路道も終りに近づいていました・・
暫しの沈黙の時間の後で
遍路道の上で その傍で
出会った多くの人々のことを思っていました。
主要な参考文献・資料
●四国遍路日記(澄禅)承応2(1653)伊予史談会遍
●四国遍路道指南(真念)貞享4(1687)伊予史談会遍
●四国遍礼霊場記(寂本)元禄2(1689)伊予史談会遍
●四国遍礼功徳記(真念)元禄3 (1690)伊予史談会遍
●四国遍礼名所図会 寛政12(1800)伊予史談会遍
●細田周英 「四国偏礼絵図」宝暦13(1763)
●「西條誌」日野暖太郎 天保13(1842)
●「南路志」武藤致和他 文化12(1815)
●「阿波國大絵図」元禄13、天保9
●「天保國絵図」(阿波國)(讃岐国)(伊予國)(土佐國)
●「阿波国図」「阿波国地図」「讃岐国絵図」いずれも写図
●「阿波国海陸度之帳」正保4(1647)
●「那賀・海部二郡全図」(写図)江戸末期
●「金毘羅参詣名所図会」弘化4(1847)
●「大成郡録 領堺辯録」宝永3(1706)
●「伊予の遍路道」(平成13年)愛媛県生涯学習センター
●「四国遍路のあゆみ」(平成12年)愛媛県生涯学習センター
●「日和佐町の峠道 橘禎男 阿波学会研究紀要43 1997年
●「四国遍路地図1、2、3、4」東海図版 平成19年
●「ヘンロ道を辿る」小松勝記 毎日新聞高知支局 平成19年
●「四国遍路の寺 上 下」五来重 角川ソフィア文庫 平成21年
●「空海の風景 上 下」司馬遼太郎 中公文庫 1994年
●「娘巡礼記」 高群逸枝 岩波文庫 2004年
●「巡礼と民族」武田明 岩崎美術社 1969年
●「今昔マップ」谷憲二 2000~
●「忘れられた日本人」宮本常一 岩波文庫 1984年
●「山と人間」宮本常一(民族学研究32-4)1968年
●「山村の地域文化保存について」宮本常一 山村振興調査会 1976年
●「愛媛の記憶 愛媛県史 愛媛県生涯学習センター 1988年
●「石鎚山系の自然と人文」石福保 1960年
●「阿波の峠と民俗」橘禎男 2011年
●「長州大工が遺した社寺建築」犬伏武彦他 愛媛文化双書 2011年
●「駄家通信」喜代吉栄徳(web)
●「高地蔵探訪ガイドブック」徳島県(web)
●「四国の古道・里山を歩く」(web)
●「宇和島南部遍路MAP」四国へんろ道文化世界遺産化の会(pf)
●「四国へんろの歴史」武田和昭 美巧社 2016年
●「同行二人の遍路」A・ボーナー 佐藤久光他訳 2012年
●「四国遍路の世界」愛媛大学四国遍路巡礼センター2020
●「巡拝記にみる四国遍路」佐藤久光 朱鷺書房 2014
●「四国遍路」星野英紀 浅川泰宏 吉川弘文館 2011年
総目次に替えて・・(続き)
●「遍路日記の追記」について
遍路日記の記事に書き忘れたこと、四国遍路に関する諸文献、諸資料に書かれた興味ある事項(いわゆる蘊蓄)などを思い付くままに追記させていただきました。
主な追記事項を以下に示します。最近の記事は赤字で示しました。注目ください。
●吉野川の高地蔵を巡る(その4) 「 江戸期の吉野川について」(R1.9)
「西麻植の地蔵道標について」(R2.12)
●長州大工の心と技(その4)山吹御前神社 「 大洲街道について」を追記(R4.6 R5.1)
「本村以北の大洲道枝道」を追記(R5.12)
「石畳から上灘、下灘、中山そして内子へ」を追記(R4.6)
●平成28年秋 その1 「平地梶屋谷のキリスト像」を追記(R4.2)
●平成28年春 その1 「大坂越古道へのアプローチルート」を追記(R4.12)
付録1「1番札所から徳島への遍路道」を追記(R3.1 R4.1)
付録2 「淡路街道とその脇道」を追記(R5.11)
付録3「讃岐国の海岸、島嶼、港を訪ねて」を追記(R5.5)
「両墓制習俗について」を追記(R5.7)
●平成28年春 番外 「明和7年阿波国絵図について」を追記(R4.7)
●平成27年春 その後 付録「星の岩屋、仏陀石への道」を追記(h30.7)
●平成27年春 その4 「幕末期の高松から屋島への道」を追記(h30.12)
「江戸後期の屋島寺」「幕末期の志度寺」を追記(R2.12)
「讃岐の七観音について」を改記(R5.11)
「長尾寺の変遷について」を追記(R2.12)
「大窪寺の変遷について」を改追記(R4.7)
●平成27年春 その3 「大師誕生についての異説」を追記(h29.7)
「出釈迦寺の起源」を改追記(R5.7)
「善通寺伽藍の変遷について」を追記(R2.12)
付録「善通寺五重塔について」を追記(h30.11)
●平成27年春 その2 「江戸時代の68番・69番札所」を追記(R1.6)
「本山寺東門の茂兵衛標石について」を追記
「本山寺の修造と奥の院」を追記(R4.8)
●平成27年春 その1 平山の旧土佐街道分岐箇所」について追記
●平成26年秋 その5 付録「里前神寺の絵図について」を追記(h30.10)
●平成26年秋 その4ー1 「石鎚山霊場の変遷」を改記(令和5.12)
「七曲り坂」他改追記(R3.10)(R5.2)
●平成26年秋 その4-2
付録1「江戸時代の西五ヶ山奥地の自然と生活」を改追記(R2.4)
付録2「明治以降、石鎚山北麓の山村の状況」を改追記(R2.4)
付録3「宮本常一の山村文化振興への提言」についてを追記(R4.11)
●平成26年秋 その3 「横峰寺の縁起」について追記(R6.6)
●平成26年秋 その2 「仏海 木食庵について」を追記(R5.4)
●平成26年秋 その1 「へんど道」道標を追記(R6.1)
●平成26年春 その5 「キリシタン灯篭」「キリシタン碑」について追記
●平成26年春 その4 「過疎の果てに・・」を追記(R4.6)
「一遍聖図、霊場記にみる岩屋寺、せりわり」を追記(R2.12)
「岩屋寺の阿弥陀像、大師堂」について追記(h29.10)
「久万高原町の気になる道標、七里石」を追記(R5.12)
「道指南の三坂よりの風景」を追記(R5.2)
「浄瑠璃寺の縁起は不明」を追記(R5.10)
「八坂寺の変遷」を改追記(R5.12)
●平成26年春 その3 「水戸森峠道」について一部改(R5.3)
●平成26年春 その2 「へんろ笠の文字について」を改追記(R5.5)
●平成26年春 その1 「仏木寺の家畜堂について」を追記(R5.10)
「吉田への道、十本松峠道について」を追記(R5.6)
「伊予の生活の道古道(2)」を追記(h30.8)
「宇和島藩参勤交代の道」を追記(R4.6)
●平成25年秋 その10 「四国遍路の念仏信仰について」を追記(h29.7)
嘉永5年の道標について追記(h31.1)
付録「伊予の生活の道古道(1)」を追記(R3.6)
●平成25年秋 その8 「土佐人気質について」を)追記(h25.1)
●平成25年秋 その7 「再興された金毘羅宮」を追記(R6.5)
「寺山 延光寺の変遷」を追記(R5.7)(R6.3)
●平成25年秋 その6 「真念の没年について」を追記(h29.7)
「三原分岐の標石について」補足追記(R3.4)
●平成25年秋 その5 「馬路坂」について追記(R2.2)
「小筑紫について」を追記(R6.4)
●平成25年秋 その4 「海蔵院について」を追記(R6.4)
「江戸時代の捕鯨について」を追記(R2.11)
「白王山への地蔵道標」について追記(R2.7)
●平成25年秋 その3 「田浦の浜 昔 昔」を追記(R5.9)
●平成25年秋 その2 「久礼坂道について」を追記(R5.6)
「仁井田五社について」を追記(h30.12)
「江戸期の納札、納経について」を追記(h29.7)
「政吉の手指し道標について」を追記(R4.9)(R5.5)
「東川角の渡船案内の道標」について追記(R2.7)
「岩本寺の大師堂案内道標」について追記(R2.7)
「岩本寺への古道」についてを追記(R6.1)
●平成25年秋 その1 「虚空蔵求聞持法について」を追記(h29.8)
●平成24年秋 その5 「御畳瀬の旧道」について追記(h30.7)
「安政地震・津波の記念碑の刻文」を追記(R2.6)
●平成24年秋 その4 「土佐国分寺境内の元禄2年の標石について」追記(R2.6)
「田辺島の福留隼人神社」を追記(R6.5)
「田辺島の文政3年の道標」を追記(R5.2)
「江戸期前中期の五台山について」を追記(R2.12)
「五台山から峰寺へ向う道」他を追記(R2.12)
「下田川堤の標石について」を追記(R5.2)
●平成24年秋 その2 「仏海について」を追記(R1.12)
「室戸の岩屋など」について一部改稿・追記(R2.12)
●平成24年秋 その1 「土佐安喜郡の関所について」を追記(R6.4)
●平成24年春 その5 「恩山寺付近の石仏、道標」「分かれ道地蔵について」追加
「あずり越の道と宝号塔」について追記(R3.5)
大日寺から藤井寺への道筋(澄禅道)について追記(R3.2)
「焼山寺奥之院」を追記(R5.9)
●平成24年春 その3 「虫送り」について追記(R4.2)
「八坂八浜から母川に至る道・地震碑」について追記(R4.11)
●平成24年春 その2 「川について・・渡しについて」追記(R5.4)
「鶴林寺前後の道標」について追記(R2.12)
「江戸前期の大龍寺について」を追記(R2.12)
「空海の修行地について」を追記(R5.12)
「龍の窟の位置」を追記(R3.12)
●平成24年春 その1 「立江寺から鶴林寺への古道について」を追記 (R3.1)
●平成23年晩秋 その2 「白峯寺の伽藍配置の変遷」について追記(h30.12)
「十三重石塔について」追記(R5.2)
●3巡目 第8回 その5(h23.10) 「大窪寺の遍路墓について」追記(R6.6)
大窪寺先の丁石道について追記(R4.7)
「江戸期における東讃岐の主要道と寺社」追記(R6.7)
●3巡目 第8回 その3(h23.10)弥谷寺の大師堂、獅子之岩屋について追記(R2.12)
天保15年中川法眼馬嶺弥谷寺図」について追記(R4.6)
多度津街道の石造物について追記(h31.1)
●3巡目 第8回 その2(h23.10) 「江戸時代の讃岐の主要道の状況」を追記(R4.12)
●3巡目 第8回 その1(h23.10) 「空海と満濃池について」を追記(R5.8)
●3巡目 第7回 その5(h23.5) 「小松尾山大興寺の変遷について」を追記(R5.8)
●3巡目 第7回 その4(h23.5) 「仙龍寺の繁盛その歴史」を追記、改稿(R4.12)
平山から雲辺寺への古道について」を追記(R4.10)
「境目峠南の道・・」を改追記(R5.9)
●3巡目 第7回 その3(h23.5) 「吉祥寺その昔」を追記(R6.5)
●3巡目 第7回 その2(h23.5) 前文改記 (R6.5)
「奥前神寺と石鈇山山頂への道」を追記(R6.5)
●3巡目 第6回 その2(h23.3) 江戸期の石手寺と衛門三郎伝説」を追記(R5.3)
「太山寺について」を追記(R5.9)
「江戸初期の伊予の札所寺社」を追記(R6.4)
●3巡目 第5回 その4(h22.10) 茶堂について追記(h31.2)
「菅生山大宝寺について」を追改記(R5.8)
●3巡目 第5回 その3(h22.10) 「卯之町中町通り」を追記(R5.10)
●3巡目 第5回 その1(h22.9) 「五社鎮座伝記」を追記(R6.4)
●3巡目 第4回 その5(h22.5) 「伊豆田峠の道標について」を追記(R3.3)
「伊豆田峠手前の道標について追記(R3.12)
●3巡目 第4回 その4(h22.5) 松尾の漁村について追記(h31.1)
「金剛福寺の推移と足摺の地名起源」について改稿(R5.8)
●3巡目 第4回 その3(h22.5) 月山神社の項一部改(R5.1)
●3巡目 第3回 その4(h22.3) 花山神社について改記(R6.3)一部追記(R6.4)
●3巡目 第3回 その3(h22.3) 「峰寺とその奥院について」を追記(R6.5)
「独鈷山青龍寺について」を追記(R5.9)
「江戸期土佐の大道、灘道について」を追記(R6.5)
●3巡目 第3回 その2(h22.3) 「江戸初期の土佐の札所寺社」を追記(R6.3)
●3巡目 第3回 その1(h22.2) 「田野の政吉手指し標石について」追記(R2.6)
「磐座から神峰寺へ」を改記(R6.4)
「金林寺薬師堂について」を追記(R6.5)
●3巡目 第2回 その5(h21.10) 「池山大明神について」を追記(R6.4)
●3巡目 第2回 その4(h21.10) 「慶長地震の碑刻文」を追加(R2.6)
「飛石・はね石について」を追記(R3.1)
「甲浦の熊野神社」を追記(R6.5)
「室戸崎と空海」を追記(R6.2)
●3巡目 第2回 その3(h21.10) 「空海の思想とお大師信仰の関係について(R6.2)
「牟岐の山頭火の句碑」について追記(R2.2)
●3巡目 第2回 その2(h21.9) 藤井寺の本尊と寺の変遷について」を追記(R4.9)
●3巡目 第2回 その1(h21.9) 柳の水について(追記)(R5.9)
「焼山寺の変遷について」を追記(R5.8)
●3巡目 第1回 その4 (h21.4) 澄禅も歩いた・・佐那河内村の道について」追記(R4.11)
●3巡目 第1回 その3(h21.4) 「法華経塔」について追記(R3.1)
「八坂八浜」について追記(R1.8)
●2巡目 第6回 その3(h21.3) 「鑑真和尚と屋島寺」について追記(R6.6)
●2巡目 第6回 その2(h21.3) 「国分寺への道」について追記(h30.12)
「金毘羅宮の縁起」について追記(R2.5)
●2巡目 第6回 その1(h21.3) 「武田明イヤダニマイリ」について追記(h30.11)
●2巡目 第5回 その5(h20.10) 「雲辺寺への道」を追記(R6.6)
●2巡目 第5回 その3(h20.10) 「慈尊院三角寺」について追記(R5.9)
●2巡目 第4回 その6(h20.4) 「十夜橋の由来について」を追記(R5.10)
●2巡目 第4回 その5(h20.3) 「金山出石寺について」を追記(R5.12)
●2巡目 第4回 その4(h20.3) 「高群逸枝、柏坂にて」を追記(R5.10)
●2巡目 第4回 その3(h20.3) 「篠山信仰について」を追記(R5.12)
●2巡目 第3回 その3(h19.10) 「大善寺について」を追記(R6.4) 「福圓満寺について」を追記(R6.5)
●2巡目 第3回 その1(h19.10) 「四十寺について」を追記(R6.4)
●2巡目 第2回 その7(h20.4) 「行道修行について」を改記(R5.8)
「金剛頂寺、空海修行の道について」を追記(R5.9)
「南路志における金剛頂寺」を追記(R6.4)
●2巡目 第2回 その3(h19.4) 「志和岐 安政地震津波碑」を追記
四国遍路の旅記録 平成28年秋 その3
篠山の麓から宇和島まで
私は、篠山神社にこれまで二度お参りしています。最初は、平成20年3月(二巡目 第4回 その3)愛南町広見の札掛から往復しました。二度目は、平成22年4月(三巡目 第4回 その2)、祓川温泉近くまでコミュニティバスを利用して、逆打ち方向で、やけ滝から登山道を経て神社に参り、札掛に下っています。
最も古くからの参拝道といわれる、神社から北側の尾根を下り湯屋に出ることは、私の長年の夢でありました。
この尾根道、満願寺のご住職の他(山屋さんはいざ知らず)遍路として通行した人はおそらく数少なく、相当荒れていて危険な個所もあると聞きます。加齢の私には無理です。諦めました。
そこで、湯屋付近の参拝道下り口の様子を探ること、祓川温泉の西側を通る旧道の途中にあるという裏参道二の鳥居を見ること、飛大師堂のある少林寺に参ること、その後県道4号を歩いて、馬ノ渕、満願寺、岩松を経て宇和島まで行くことにしたのです。(往路は、朝一番のコミュニティバスで祓川温泉まで行きます。)
バスを降り湯屋に向かいます。嘗ては祓川の河原から豊富な硫黄泉が湧出していたといいます。今も少々ながら・・祓川温泉の泉源はおそらくここ。
建物があり人が居ます。「そこに橋が見えるじゃろう。そこが篠山への上り口じゃ。その先は荒れとって通れんじゃろ・・」
祓川に架かる石橋が見えます。これが聞く「金前橋」と呼ばれる橋かも。
添付の地図をご覧いただきたい。私は尾根道からの出口の道筋を細赤点線のように想定していました。
湯屋の下で祓川を渡った道は北に上り、現在の車道のガードレ-ルが切れた所、(赤い標識がある。)そこはトイレの向かい側。
トイレの横付近を上がるのがおそらく旧道。篠山が見通せる高所はここ以外にはありません。強引に上ります。
少し行くと樹間に小尾根にある鳥居が見えてきます。篠山神社二の鳥居です。信じられないほど美しく堂々とした鳥居です。
柱に二つの年号が刻まれています。安政六巳末十一月、明治三十六年十一月。建立年と再建年でしょうか。
北側に下り祓川温泉の西側に出る道は通行に苦労します。しかし車道へのエスケープルートはあります。
祓川に架かる石橋
車道への出口
トイレ
樹間に鳥居が・・
篠山神社二の鳥居
篠山神社二の鳥居
祓川温泉の前を通り、槇川の右岸(南側)を西に行く道に入ってみました。廃屋や廃車があり300mほどで道は消えています。
戻って槇川を渡り岩陰大師へ。(ここは以前も寄った所)
自然とも人の手が入っているとも見える巨大な岩の間に大師像と標石状の大師浮彫、右端に新しい地蔵があります。
大師浮彫の下に元禄三年(1690)の年号が読めたと思いましたが、さて・・
祓川温泉
岩陰大師
岩陰大師の大師像(左、中)
ここから槇川左岸の道を通って日切地蔵に参ります。
道の左側に標石があります。刻字の読み取りは困難な個所がありますが「(手印)右ささ山道 これより本社迄六十丁 慶応元丑天南〇〇」のよう。
その前で向かいの大きな家のご主人と話します。
「昔は川の向いにワシの友達の家が一軒あっての、道も日切さんまで通じとった。今は木もこんなになっての(2、30cmほどの丸を示す)通れりゃせん。いつであったかの、大水で田んぼも全部流されてしもうた。その先から石に板を渡した橋があったがの、石も流されてしもうた・・」
川までの道もあり、川の傍に地蔵があります。「えひめの記憶」には平成13年に撮影された板橋の写真が載っています。勝手にここに持ってきました。現在の川の写真と見比べてみてください。(川名は松田川となっていますが誤り、愛媛県内はその上流で槇川と呼ばれる。)
その先、道の右側山裾、岩の覆屋の中にあるのは馬頭観音でしょうか。
標石と槇川への道
昔の渡河場所
「えひめの記憶」記載の板橋
覆の中
日切地蔵は無住の寺ですが、御利益の確かなことが近郷に聞こえ、多くの人が詣で、多くの奉納地蔵が境内を埋めているのです。堂内は香の煙に満ちていました。
箒を持った作務衣姿の人に会います。
「御内で温熱療法師をやっとります。時々こうしてお手伝いに来ているのです。家内は店を持っていろんなものを展示しとります。郵便局の前です。寄ってください。・・」
日切地蔵
奉納地蔵
「槇川少林寺開祖古岩禅師の由来」と題した案内板があります。
「鎌倉の建長寺の九十九代管長古岩禅師は故あって寺を去って遍歴苦行の旅を続け四国路に入り土佐奥屋内より大黒山を経て槇川に入り、七峰七谷三方水流れの三角屋敷という理想のこの地に少林寺を開山。(1414年)」「その後大洪水で荒れた寺を庄屋松岡六兵衛の尽力により北側の山裾の現在の地に移された。(1721年)」およそこのように記されています。
少林寺の故地がこの日切地蔵の地という訳です。案内板はさらに続けて、古岩禅師が鎌倉を離れ求道遍歴した故が次のように記されているのです。そのまま転記します。
「・・禅師は建長寺在職中一公卿の息女と親交その徳望を慕われつつ法門の掟にしばられていました美人のさだめ哀れはかなく彼女の突如夭折するや悟る所ありて自ら管長職を退き求道悟達の遍歴を志したと云われます・・」
享保六年(1721)に現在の地に移されたという少林寺に向かいます。
素朴な石段の前に標石のような形の石(自然石)がありますが何か刻んである訳ではありません。
少林寺の境内、右に阿弥陀堂、左に大師堂、その横に六地蔵。大師堂は弘化四年(1847)の再建。
大師像は篠山飛大師と呼ばれます。篠山山上の観世音寺が無住になった折、少林寺まで飛んできたとの伝えがあります。
篠山奥の院納経所とも書かれています。「えひめの記憶」には「(昔)多くの参拝者はここに札を納めた。ここで納札した逆打ちのへんろはここから上槇(かんまき)に出て小岩道越えの道を辿ったと思われる」と記されています。(ここ下槇より中道の中間点上槇までは10kmほど。)
六地蔵越しに槇川の集落と田畑の長閑な風景がかいま見えるのです。本堂、阿弥陀如来の33年毎の開帳の日には、本堂から日切地蔵まで白い晒の布が流されるといいます。(最近では2011年4月)その賑わいを想います。
少林寺の石段
少林寺阿弥陀堂、大師堂
大師堂
槇川の集落
寺の裏山を上って御槇神社(天満宮)に行きます。
その道は直登の荒れた細道と、その道を交差して巻くやや広い山道です。今は通る人もないようで荒れています。直登の道にあるという自然石の道標を見つけることはできませんでした。
御槇神社の鳥居はこちらではなく北東を向いています。そちらが正参道。
神額に天満宮と刻した前段の鳥居の柱には元治元年の銘。慶応銘の常夜燈も見ます。かなり広い境内です。
神社へ
神社への道、直登道と巻道
御槇神社の鳥居(前段)
御槇神社
11月の祭礼では、ここで宇和島藩の祖仙台より伝わった五ツ鹿踊りが演じられるといいます。その日、街中では勿論牛鬼が出ます。
ここから山道をくだってその御内の街に出ます。
郵便局の前、温熱療法の看板と立派な店がありましたよ・・寄りませんでしたが。
県道4号を1kほど行くと右側に道の川観音堂。十一面観音を祀ります。
左手の山に狩場林道が伸び、左直下は横吹渓谷の深い谷。道を行くに従ってその谷は深さを増しやがて見えなくなります。
県道の旧道は右の急な山裾を走っていたようです。転落事故も多かったとか。高い所に電柱が並んでいるのでそれとわかるのですが入り込む気にはなりません。それは正解だったようで、旧道が県道に繋がる馬ノ渕ではその出口は塞がっているようでした。
道の川観音堂
横吹渓谷
高所の旧道
馬ノ渕の田畑と家並みが見えてきます。
県道は高い所を通っており、家並の道(旧道)には県道の側壁に設けられた階段を下りなくてはなりません。
見当をつけて降りた所、近くに馬ノ渕の大師堂。
大師像の台座に元文元年(1736)銘。様々なものが供えられ信心の厚さを伺わせます。
堂前に徳右衛門標石「右ささ山道 これよりいなりへ六リ」が立ちます。
馬ノ渕
馬ノ渕の大師堂
徳右衛門標石「いなりへ六り」
馬ノ渕の澱み。旧道は川を二度渡り老健施設の傍を通り県道へ。
上芋地谷
上芋地谷では県道から左折、家が密集した道が旧道。大師堂でもある集会所があると聞いていましたが尋ねられませんでした。上芋地谷橋を渡り、清重に入り熊野神社の参道前を通り颪部(おろしべ)へ。
数えれば、馬ノ渕を過ぎてから三度川を渡っています。
颪部の喫茶店の前に以前にも記した道標。(四巡目 平成25年秋 その10)
「みぎへんろみち ひだりまんぐあんじ ぜんどうだいし三めうかう」と刻んであるらしい有名なもの。何しろ下部が土に埋まっている上、苔の繁殖が進んで以前より更に読み難くなっています。もう何の石だか・・
コーヒーをいただいて、女主人にこの石のことを話すと「社会科のセンセイ・・?」とからかわれる始末。
喫茶店前の標石
昔、満願寺へ寄らない遍路はここから川を渡り、寺の下を経て野井口に行っていたようです。
私は左、満願寺に行きます。
満願寺では二重柿が実っていました。
門前にいたおじさんが「ワシがとってやる」「いいんですかい」自分の胸を指し「ワシは特別じゃ」の表情。
境内上段にある木を接ぎ木した門前の二代目柿の枝を落とす。シブ柿だというので食わず、写真を撮らせていただく。確かに柿の中に柿がある。
満願寺
二重柿の木
二重柿
さて、ここから津島町高田まで行き、松尾峠を越えて宇和島へ行きます。
津島から宇和島に向かう宿毛街道の道としては松尾峠越と野井坂越があるのですが、最近道の整備が為されたこともあってか、どうも野井坂の方に人気が偏っている感じがします。松尾峠を越えた祝森で産業廃棄物の処理場の建設が進められていることも影響しているのかもしれません。
松尾峠を歩くのは、私にとっても二巡目の平成20年3月以来8年ぶりになります。
道の整備の手もあまり入っていないようで、通行に支障があるというほどではありませんが、倒木が放置された箇所が数か所あります。
旧国道のトンネル越えの道と遍路道の分岐点にある昭和八年十月の道標。懐かしい・・
「(大師像)(手印)岩松町へ一里 四十番へ八里一丁/(手印)宇和島四十番奥の院へ二里二十丁」。納札入れの塩ビパイプもそのまま。
峠を越えた所にへんろ小屋「わん屋」。
どこか薄汚れた感じです。小さな毛布が一枚、ここで夜を明かした人もいるのでしょう。
松尾峠への道
道分岐点の道標
道標
峠のへんろ小屋
建設中の産業廃棄物処理施設の騒音をぬけて、山際の荒れた山道。それを抜けた所に庚申堂。
山裾の道
柿の木庚申堂
ここから宇和島までのこと、近い過去の日記にすでに記しました。省略しましょう。
遍路道地図「祓川温泉付近」
遍路道地図「御内付近」
遍路道地図「満願寺付近」
遍路道地図「松尾峠、野井坂付近」
遍路道地図「祝森付近」
(10月24日)
四国遍路の旅記録 平成28年秋 その2
宇和町上松葉から宇和島へ
この日は、宇和町上松葉から松葉城址、御篠山を経る遊歩道を通り明石寺へ。明石寺から歯長峠を越え仏木寺、龍光寺に参り、宇和島までの予定。
前回の日記の終わり大洲から宇和町の間は「飛んで」ます。いやいや、日記の上ですけどね。
宇和町上松葉の辺り、主な道は南北に通じています。西から国道56号、旧国道、東の山際に古道です。
この辺りから松葉城址にゆくには、古道を横切って更に山側の道に入ります。
最初に出会うのが荒れ寺風の建物。後で調べるとこれが出雲大社だと思われます。それから松観山大恵寺。天台宗の寺。西園寺氏の祈願寺であったと伝わる古寺です。
出雲大社
大恵寺
松葉城は、鎌倉時代中期、京にあった西園寺氏が宇和郡地頭職となり、南北朝時代この地に下向して山頂に築いたとされています。
伊予西園寺氏は、その後黒瀬城に移りますが戦国大名の一つとして100年間の戦乱の明け暮れを経て1587年滅亡します。
城址へは「上松葉大谷線作業道」を上がります。
主郭は岩の上の要害の地にあって、もともとは西側の山腹をつづら折りに上がっていたようですが、今は木製の階段を上ります。
主郭跡には岩上に小祠が二つ。ここからの宇和の街・田畑の眺望はさすがに見事です。手前に宇和中学校、街の家並、その向こうに宇和川の流れ、久枝の山、神領の田、左には黒瀬山・・
上松葉大谷線作業道
城址の近く
城址への階段
城址主郭跡
城址からの展望
城址を下って、御篠山を回って明石寺まで行く予定でした。
御篠山には四国写し霊場があって、坪ケ谷新四国と呼ばれます。その一部は明石寺まで及んでいます。
城址を下った四差路で道を間違えたようです。水天宮様を見、ネットで厳重に守られた松茸山を見、古い墓も見ましたが、篠山神社にも新四国霊場にも出会えず、出た所は旧宇和小学校、米博物館の大きな屋根が見える所。道を戻りどうにか明石寺の大師堂の横に辿り着く始末。
四差路
明石寺大師堂の横
明石寺の本堂は、いつもながら圧倒する立派さで迫ってきます。山門前の徳右衛門標石「これより菅生山まで二拾壱里」。
明石寺
徳右衛門標石
ここから歯長峠の上り口、下川(ひとうがわ)まで逆打ち方向で、旧遍路道を確かめ辿ってみたいと思います。この辺り自動車道などの新道ができて遍路道も混乱を来しているようですから・・
明石寺参道口の鳥居右側に茂兵衛標石「佛木寺へ三里」(256度目、大正3年)。
奥の院白王権現手前右側に明治15年の標石、半ば草に埋もれていますが「左へんろみち コレヨリ明石寺ヘ六丁」と。
白王権現先の三叉路に頭部の破損を継いだ標石「右 卯のまち よし田道 たわら津」と。これは宇和島街道の法華津峠を経て吉田、俵津(明浜町)への道を案内するもの。
この三叉路を左に行くのが旧遍路道。県道237号を横切り直進。とり残されたような未舗装の道です。やがて宇和球場にぶつかります。旧道は球場ができる前、その真ん中を抜けていたのです。
明石寺参道鳥居と茂兵衛標石
明治15年の標石
白王権現
宇和島街道、吉田への道標
旧道
球場の土手を右に迂回。右に大本神社を見た先に標石が見えてきます。
茂兵衛標石(191度目、明治35年)です。「(手印)佛木寺/(手印)明石寺/左新道」添句も彫られています「山を踏みてうれしき毛乃者(ものは)道しるべ」。茂兵衛さんのお好きそうな句ですね。
この標石は移設されたもので、手印の方向は実際の方向とは合っていません。(間違えないよう標木が付けられています。)
この標石を目印に右折して、墓地などがある狭い道を下るとやや広い街中の道に出ます。池上塗装店の角。電柱に括り付けられた「(両手印)へんろ道」の道標。
前記の茂兵衛標石もこの場所に置かれていたといわれます。標石にある「新道」とは、この道を西に行き県道237号を右折して明石寺に向かう道筋を指しているのです。
この角を左折して、松山自動車道の導入路の下をくぐって県道29号に合流する。これが旧道の道筋です。
宇和球場横の茂兵衛標石
細い道を下る
街中の道への出口
自動車道の手前に写真のような道案内の遍路シールがありました。右?左?、どっちへ行ったらいいのでしょう。
近頃こういった遍路シールが増えたようです。団体や個人が自ら思うルートに勝手にシールを貼るのです。
やるべきことは明らかです。行政を含め関係者が話し合い推奨ルートを決めること。(1つのルートとは限らない。)特定の団体が責任を持って道案内シールを置く(貼る)こと。
そのとき、「旧道」「古道」は有力な選択枝になると私は思います。
遍路シール
県道29号を行くと道引大師堂。(民宿兵頭の入り口ですね。)
堂内には、中央に道引大師、左に弘法大師、右に不動明王が祀られており、その荘厳さには驚き。堂前に茂兵衛標石(209度目、明治39年)「佛木寺へ一里半余/明石寺へ一里」。
道引大師堂と茂兵衛標石
旧道は堂前を右に川を渡り歯長峠への入り口、歯長地蔵堂に至ります。
休憩している二人の遍路姿と太いタイヤに大荷物の自転車遍路の若者。
「こいであがれるの?」「押して。あんまりがんばっても・・中道ですよ。」と若者。
遍路姿の一人は地蔵堂の扉を探します。「なんだトイレじゃねーのか」だって。
歯長峠に上る山道の入り口、石橋を渡った所に石標があります。明治36年7月の石橋建設寄付人名を刻んだもの。
「佛木寺一里半、明石寺一里半」と道標も兼ねています。
松山自動車道が真横に建設されたため、山道の入口付近のルートは若干変わり、コンクリートの階段になっています。それもすぐに終わり、昔からの荒れた山道の姿に戻ります。
最初にこの道を下ったとき、この辺で転倒したことを思い出します。(あれから、もう11年にもなるか・・)
上るほどに道の荒れも収まり、この道で唯一の標石。「(大師像)明石寺 是ヨリ二里 寛政7年乙卯七月吉日」。
山道入口の石標
歯長峠への道
寛政7年の標石
美しい石の肌に思わず触れます。200年を越える年月の間、清浄な空気と豊かな樹木に守られて立ち続けてきたことに感動を覚えます。
下川から峠に上る歩道はもう一本あります(四国のみち)が、この標石に出会えるだけでも、こちらの道を採る価値あると私は思います。
峠の直前、林道を渡る所に遠慮勝ちにロープが渡してあります。峠の下りが崩落して通行止めになっていることのアッピールと思われます。
「通れる」という情報もありますし、ちょっと考えましたが、トンネルの入り口に繋がる林道に入ることにしました。
峠への上り道
トンネルの入り口の休憩所では、東京から来た「カープ女子」にもお会いできました。
トンネルを抜け県道を下ります。
急坂の鎖場の前にはしっかり「通行止」の標示。
県道の途中から地道に入ります。基本的には良い道なのですが、道土の流失を防ぐため石畳風に丸石を敷いた箇所があり、これが今の靴には合わず極めて歩き難いのです。
地道の出口には、明治36年の道標「(手印)へんろみち」。これも印象に残る標石です。
地道の下り
地道出口の標石
溜池を右に見て、県道までは出ず右折し西谷橋に至る道が旧道ですが、すぐ近くの松山自動車道の工事で大部分はコンクリートで固められ、道の雰囲気は失われました。県道を通るべきかもしれません。
旧道
仏木寺。
この寺辺りからの道の様子、道標などについては、すでにこれまでの日記に何度か書いてきました。毎回撮り忘れる家畜堂の写真は載せておきましょうか。
仏木寺
仏木寺家畜堂
龍光寺に向かう県道もその先の畑も、この季節コスモスで満ちていました。遍路もその花に誘われて、県道を歩きたくなるのですが、以前の日記(4巡目、平成26年春 その1)にもちょっと書きましたが、旧道は仏木寺を出てすぐ左に入る山際の道です。
この道の途中、消防倉庫横の広場には常夜燈があり、観音菩薩や古い遍路墓なども見られます。ここは沖戸駄馬と呼ばれた所で、馬の繋ぎ場でもありました。
少々回り道になっても、旧道好きはこういう道を通りたくなるのです。
沖戸駄馬
龍光寺
龍光寺から見た三間の街
龍光寺から宇和島へ。この道についても既に多くのことを書いてきたように思います。
道の近くに松山自動車道が開通して、時に右の上の方から顔を出します。何やら落ち着かぬ道行とはなりました。
(10月21日)
(付録)石垣の里、外泊へ
雨の一日、今日は遍路はお休みにして、愛南町の南、もう島かと思うほどにくびれた半島(西海半島)の先の方にある、石垣の里として知られる「外泊」を訪ねることにしました。
愛南町の中心から外泊に行くバスの便は粗く、半島のくびれたところにある船越までバスで、その先の4kほどは歩いて往復します。
船越から外泊の辺りにかけて、平床鼻、女呂岬、道越鼻という岬があってその間が深い入江で、入江の奥に内泊、中泊、外泊という港町があるのです。
船越から内泊の間の道傍に多くの軍人の墓、その隣に「鯨塚」(飛楊鯨塚)を見ました。女呂岬には門柱だけが残った西浦中学校跡がありました。そこにはこの地の人々の過去の心の一端が存在するのかもしれません。
入江の沖にはハマチの養殖筏が浮かび、港の水産会社の作業場では活気のある声と音が聞こえてきます。それに励まされ、歩いて外泊に着きました。
降り止まぬ雨のなか、後に敷かれたであろう路面の鉄平石が硬い底の靴には相性が悪く、滑る、滑る。擬木の手摺にすがってどうにか地区全域を歩くことができました。
中泊の歴史について、資料から抜き出し拾って少々書き写しておきましょう。
江戸時代の末期、中泊の人口が増加し、各家の二男以下の分家移住が提案される。それに応じた人々が中泊に隣接する入江の谷を埋め、水路を確保して居住地を造成したという。その地は外泊と名付けられた。全部の入居が完了したのは明治12年であったといわれる。
この地は岩盤の上で、急斜面に屋敷地を造成するため石を積み上げ、また台風や冬の風から家を守るため塀としても石を積み上げた。
集落の主産業は漁業であり、女性は家事を守り漁労の様子が見えるよう海側に「遠見の窓」といわれる窪みが設けられた。
最近は、石垣や歩道が整備され観光にも力が入り、食事やみやげ物の店「だんだん館」や民宿も充実してきたといわれます。
平成22年調査で人口95人、37世帯。明治中期から昭和40年頃まで維持してきた人口の約半分であるという。
(10月22日)
四国遍路の旅記録 平成28年秋 その1
この秋はどうも体調が晴れず、加齢も加わり、私の歩き遍路は終わりとしようか・・などと思い惑うておりましたが、何とも寂しくて、短い区切りの旅に出かけることにしました。
結局、内子からほぼ逆打ち方向で伊予の南端辺りまで歩きました。
拘りの場所を中心に飛び飛びに日記に留めておくことにします。
内子から大洲そして金山出石寺へ
1日目は内子から大洲までの短い行程。
この区間は順打ち方向ですが、4巡目にも歩いています。(平成26年春 その2)できるだけ重複記述は避けましょう。ただ、私の勝手な拘りの「旧道」については、その春の想い出を引きずって一部重複することになるでしょう。お許しください。
立派な町家や屋敷、それに内子座が残る八日市・護国地区はこの日も賑わっていました。これらの街並みは、木蝋の製造が始まった江戸中期以降のことで、それまでの内子(内の子村)の中心はその発祥地でもある廿日市地区にあったといわれます。
目が吊り上がってちょっと怖い感じの地蔵が立つ駄馬池の堤に座って、その廿日市の街を眺めます。
左手に思案堂。そのお堂と周囲の多くの石造物については、以前の日記ですでに記しました。
廿日市の街を眺めて・・
思案堂と地蔵
思案堂前の道標
運動公園となっている広場を通って黒内坊へ通じる道は、あまりにも鄙びた様がそれを疑わせるのですが、(大洲街道とも呼ばれる)昔からの主道であり、遍路道でもあります。
春は春で素晴らしく、秋はまた感動を覚えるほどの道傍の風景です。蕎麦の花も乱れていました。黒内坊に近い所で一基の古い地蔵を見ます。
黒内坊への道
黒内坊への道
蕎麦の花
道傍の地蔵
黒内坊の国道との合流点に徳右衛門標石があります。(この標石についても既に記したことですが、「左へんろちかみち」は設置後、国道が開通した時点で追刻されたものと思われます。)
内坊
新谷に向かいます。この街の前後、拘りの旧道について執拗に。
現在の遍路道(協力会指定)は、新谷の手前で国道(56号)から分かれ県道230号に入ります。旧道は別添地図の細赤点線で示す通り。
肱川の支流矢落川を二度渡り、国道南の田圃の中。それから歩行者用の小さな赤い鉄橋を渡り新谷の中心へ。これが「四国遍礼名所図会(1800)」に「高柳橋、町はなれ土ばし也」と記された橋。
この辺り、想い出深い春の写真とともに載せておきましょう。
田圃の中、旧道の名残り
高柳橋を渡る旧道
(平成26年春)
帝京大学第5高校の前の立派な地蔵。台座には「大恩禅寺 発願主 天宙和尚」「維時 寛政十二龍集庚申五月中澣」と後刻とみられる刻字。
地蔵の前コスモスに囲まれて、徳右衛門標石「これより菅生山へ十リ」、自然石の標石「右 遍んろみち」、嘉永銘の手水鉢などがあります。二つの標石はともに以前は高柳橋に袂に置かれていたといいます。
寛政12年地蔵周辺
徳右衛門標石
新谷の中心街を出た旧道は、現在の稲田橋の南100mほどで川を渡り、最近開通した松山自動車道と矢落川の間を通リ十夜ケ橋に至っていたようです。
川を渡った所に昭和43年設置の中江藤樹の頌徳碑、常夜燈。その右に地蔵、「左 へんろ〇 こんひ〇」刻された道標。
新谷の街
中江藤樹頌徳碑周辺
地蔵と道標
国道56号を行けばすぐに十夜ケ橋永徳寺。
橋の下ではお大師さんが二人も寝ておられるのですが、上に二つ重ねの橋、交通の巷。川は鯉と鳩がバチャバチャ、バタバタ・・、おちおち寝てもおられないご様子。
お大師さんのお写真に、これまで日記に載せてこなかった大師堂前の徳右衛門標石「是より菅生山迄拾弐里」も加えておきましょう。
十夜ケ橋の下
永徳寺大師堂
永徳寺前の徳右衛門標石
大洲の町中の遍路道は、協力会へんろ地図に依れば、国道56号とされていますが、東大洲で一度鉄道を越えて旧道に入り、若宮下の子安観音堂を訪ねます。
お堂の傍には菅生山、明石山を案内する茂兵衛標石もあります。(この標石の刻字、明石山という札所は存在しない、右側面には三角寺奥の院の刻字が浅く残っていたり・・あるいは再利用の未完成標石かもと思わせる不思議なもの)
子安観音堂と茂兵衛標石
向かいのお宅の方にお願いして鍵を開けて戴き拝します。
左は地蔵菩薩と思われます。やや様式化した簡潔な像容で、左手与願印右手には何かを持っていたようにも。
右の像が子安観音と呼ばれる。この像は堂上部にある絵画とともに一部で「かくれキリシタン」に係わりがあるといわれる。
江戸後期以降、子供を抱いた観音像が日本各地に生まれます。立像も見られますが、この像のように如意輪観音像と同様に右足を立膝して座る半跏座の姿勢で右手をほおに置き、左手に子を抱く像容は他にも見られます。
この像が後にマリア観音と呼ばれるように、キリシタンに密かに礼拝されてきた時があったのか・・私には判断できる訳もありませんが、立派なお堂の中で地蔵菩薩と並ぶと、それは尊い男女の像のようにも思われ、何処からか清楚で高貴な雰囲気を醸しだしているように感じられるのでした。
お堂上部に掲げられた絵画は、中央下に子供を抱く鉢巻を着けた女性、その上に雲に乗り後光を放つ(菩薩というより)僧形。後部の襖には漢詩、虞美人草の一部が描かれている・・キリシタンとの係わりを感じとることはできませんが、丹念に描かれた絵のように見受けました。
仏像といい絵画といい大事に守り来られたものとの貴重な出会いでした。
地蔵菩薩と子安観音
堂内の絵画
2日目は金山出石寺への往復です。
この寺は8年ぶりのお参りとなります。以前は瀬田道を辿りましたが、今回は地蔵道で。それにはちょっと理由があります。地蔵道の途中、梶ヤ(屋)谷にあるというキリシタン所縁の地を見ておきたいということ。
私はこの地について以前から大いに関心を持っておりましたが、今年の春「楽しく遍路」さんが再訪され、9月、詳細な報告をされたことに後押しされたこと。楽しく遍路さんの後追いをさせていただきます。
大洲より県道234号で平野町平地に向かいます。
平地の道分岐に大きな標石があります。「平地大安寺、乳薬師佛」を案内するもの、大正5年春の建立。(この標石には、大安寺への距離八丁の他、多くのことが刻まれていますが、これは前記の楽しく遍路さんのブログに詳しい。刻字の詳細は「遍路道標・愛媛」大洲市平野町平地の標石をご覧ください。)
標石の道向かいは、宇和島藩平地番所跡です。
平地の分岐と乳薬師の標石
大元神社とその参道の素晴らしい情景を左に見ると、右手上に乳薬師大安寺への上り坂が現れます。
その先が地蔵道遍路道の分岐ですが、この度は500mほど先、土居集会所の所から直接梶ヤ谷に上る道を採りました。昭和8年3月に開通した林道梶屋谷線です。舗装された急坂、上ると数軒の家があるようで、人の姿も1人、2人。
大元神社の参道
大安寺の上り口
地蔵道の分岐
梶屋谷林道の入口
梶ヤ谷
遍路道へ
地道に入り、地蔵堂からの遍路道を合流、梶ヤ谷の最奥の高みに「キリシタン大名一条兼定仮寓の地」と書かれた案内板。
集落を見下ろす小さな平地に、明治初期建立の「南無妙法蓮華経」の題目塔、ヤマモモの大樹、菊池氏の墓地跡と伝わる場所に江戸中後期の年号を見る多くの墓石、妙見菩薩を祀るお堂、そして平地の東方の石板の覆屋の中の小祠・・
妙見菩薩堂は昭和30年の再建で、破風の部分に二つの矢筈十字の透かし彫。近付けば堂の中より大きな音がする。思い余って扉を開けさせていただく。堂はヤモリの巣。
内部には石造の妙見菩薩像、台座に赤く塗られた矢筈十字が彫られています。
(妙見菩薩は北極星(北辰)を神格化して祀るもので、菩薩の名を有するが仏教的には天部に属する神(仏))矢筈十字紋は大阪府能勢町の日蓮宗能勢妙見山の寺紋(能勢は戦国時代、キリスト教との係わりが深い地とされる。)
この妙見菩薩は、左手の人差し指と中指を伸ばし、右手に剣を持つ(剣は失われている)像容で、正に能勢形像と呼ばれるもの。
石板の覆屋の中のセメント製の小祠は、その屋根の一部にドーム形の形象と十字架の基部を思わせる飾りを有する。
ある書によれば、ここは往昔「切支丹畑」と呼ばれた場所で、昭和に妙見堂が再建された場所は昔の教会址であるとの伝えがあるといいます。
前記の案内板(この記述内容には誤りが多いと指摘されるものですが)にある一条兼定の大まかな履歴を辿ってみましょう。
土佐一条家の四代、事実上最後の当主となる兼定は、1574年(31才)内紛により豊後臼杵に追放される。翌年、キリスト教に入信。大友氏の支援により土佐に進撃するが長宗我部氏に四万十川の戦いで大敗。土佐一条氏は滅亡する。その10年後、隠棲先の宇和海戸島で卒去・・と伝わる悲劇の多い人。
おそらく、キリスト教に入信、土佐の四万十川で大敗した後、この梶ヤ谷の地に仮寓した事実があったと思われます。そのことがこの地にキリスト教に係わる伝えを残すことになったと思われるのです。
何やら、悲しみと安らぎが入り混じって沁み込んでいるような、そんな梶ヤ谷の地に思えてくるのです。
(追記)「平地梶屋谷出土と伝わるキリスト像」
この地(平地 梶屋谷)とキリスト教との関わりの証しとなるより有力な遺物が伝わっています。それは宇和島藩を経て藩医であった谷家に伝わる青銅製の精巧な十字架上のキリスト像です。その箱書きには「安政年中宇和嶋領保内郷平地村通称切支丹畑ヨリ里人掘出セル物也 此ノ畑ハ当時教会堂如キ物ノ有シ所也シナラン 明治十年十月東京伊達家邸中ニ於テ割愛ヲ受ク 谷世範」とある。(この像は宣教師が招来したものと見られ、茨城県水戸の徳川ミュージアムにも全く同型のものが伝わる。)
日蓮宗の題目塔
ヤマモモの大木
妙見菩薩堂
妙見菩薩
覆屋の中の小祠
・・長居をしました。金山出石寺を目指します。
草繁茂の道を少し行くと43丁地蔵に出会えます。光背に「是ヨリ四十三丁」「梶屋谷若連中」と彫られます。
作業道を越えると、添付の地図ではほぼ直線ですが、実際は分岐の多い道。道標示、へんろ札とNHKケーブル埋設標示柱が頼りです。
道標示は、ときわ旅館の主人のもの、へんろ札は協力会、M氏、D氏のものが混在しています。
舗装林道に出ます。35丁地蔵、32丁地蔵を見て舗装車道高山道に上がります。梶ヤ谷からここまで2.2kほどでしょう。
遍路道へ
43丁地蔵
林道を越えて
35丁地蔵
32丁地蔵
高山道にあがる
高山道を700mほど行くと、上須戒と日土を結ぶ県道248号と交差。ここより寺まで2.5kの地道。
地道に入った所に廿二丁地蔵。15丁、5丁などの地蔵、「右をゝづ 左かみすがい」の道標も集められています。
左下から瀬田道が上がってきます。(帰路は入り込まぬよう注意が必要)7丁、6丁、3丁と多くの地蔵に出会います。
新四国仏の28番、29番を見て、奉納地蔵の列が視界を圧倒してお大師さんの大きな後姿が現れれば、出石寺です。
県道を越えて
廿二丁地蔵、道標
猪のヌタ場
7丁地蔵
新四国29番
一願地蔵
大師の後姿
金山出石寺
江戸時代の初め、片目の中興十世秀厳和尚の供養仏一眼地蔵は、人々の心の中で一つの願いごとを叶える一願地蔵となり、願掛けの奉納地蔵が参道を埋めるようになったと伝わります。
金山出石寺は団体のバス遍路で賑わっていました。歩き遍路は高山道で出会った2人(一人は昨日十夜ケ橋で会った人)だけでした。
帰りは高山道を下りました。(ここでは勝手に高山道と呼びましたが、高山を経由して阿蔵の深井または八幡神社の前に下る道で一般には「大洲ルート」または「阿蔵ルート」と呼ばれるようです。)
退屈な舗装道歩きの道。杉、檜の針葉樹林が圧倒する中で1ケ所、目の覚めるように美しい照葉樹林がありました。そこで休憩です。
高山道の丁石は地蔵ではなく、天女のような観音さまであるようです。
高山から大洲の街が見えてきて、阿蔵に下ります。八幡神社の下へ下る地道は竹林が繁茂して歩行は困難のようです。
照葉樹林
天女の丁石
大洲の街
(追記) 大洲から出石寺への参拝道については、添付の地図にも示しましたが(札掛(札掛大師堂)から野佐来、黒木を経て平野に至るルートもこれに含めてよいでしょう。)他の参拝道についてもちょっと触れておきましょう。
一つは八幡浜口から上る道、いま一つは長浜口から上る道。八幡浜ルートは、八幡浜から名坂峠を越え喜木川、野地川沿いに進み、山神坊(さじぼう)、防泰野を経て寺に至る道と思われます。また長浜ルートは、下須戒から柿の久保、鼻欠山の中腹を通り刈屋峠、豊茂、尻高峰を経て寺に至る道と思われます。
出石寺詣では海の人々の出石寺の灯の航路安全へのお礼参りに始まったとも言われますが、大正、昭和の時代には、周防大島(屋代島)や忠海など広島県沿海部より講を組織して、海路で長浜に入り多くの人が参拝したと言われます。もちろん四国内や九州東部の講も数多くあって、九州からの参拝者の多くは八幡浜口を利用したことでしょう。
遍路道地図「新谷付近」
遍路道地図「十夜ケ橋付近」
遍路道地図「金山出石寺付近」
遍路道地図「大洲付近」 (10月19日、20日)
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