四国遍路の旅記録  平成25年秋  その10

野井坂を越えて宇和島まで


岩松川畔の朝


街の明かり


地蔵

 家
車のライト

岩松川の畔の朝の風景は素晴らしいものでした。
雲が地面の近くまで棚引いてきて、川原の葦や家や道路や地蔵まで、この地上にあるもの全てを包んでいました。遠くの山端は薄い紅。
街の淋しい明りを見、明け行く道の車のヘッドライトに会えば、なぜか涙が出そうになります。
(道を歩く人から、山端が薄く染まって見える山は、津島の小・中・高等学校の校歌にも歌われ、親しまれている譲が葉森(ゆずりがはもり)だと教えていただきました。こんな風景を美しいだなんて、旅人の勝手な感傷かもしれません。でも、出会った人も「今日のおやまはほんまにきれいじゃー・・」って。)
 
満願寺にお参りし、颪部(おろしべ)まで歩きます。(「颪」とは山から吹き下ろす寒風、また「颪部」とは崖や急斜面の意といいます。ここの地形をそのまま表した地名なのでしょうか・・)
岩松川の傍の商店の先にあるという、満願寺への道と、寺にあるという中国の善導大師の「船板名号」を案内する標石を訪ねます。
やっと出会えた朝の散歩の人に聞きますが、さっぱり通じません。
ふと、山際の少し高い所に標石風の立派な石。上の部分に地蔵が彫られた安政6年のものですが、よく読めぬ文面から憶測すると、新道開設の記念碑であるらしい。
さらに、あちこち探しまわった末、これであろう・・という石に出会います。
三角形の自然石。下半が土の中に埋まっていて、辛うじて読めるのは「みぎへん・・ ひだり まん・・・めうが・・」くらいまで。(資料に拠ると「みぎへんろみち ひだりまんぐあんじ ぜんどうだいし 三めうがう」と刻されているという。)

満願寺の船板名号の話が出てきたところで、四国遍路における念仏信仰の歴史について追記をさせていただきます。

(追記)船板名号と念仏信仰について
道標が案内する満願寺に存在する「船板名号」の版木には、中国の善導大師が日本に渡航の際、時化(しけ)を静めるため船板に「南無阿弥陀仏」と書いた版木であるとの伝承があると言います。(「愛媛の記憶」)
また、江戸時代初期に成ったといわれる説経節「苅萱(かるかや)」には、空海入唐の際宇佐八幡に参詣すると六字の名号が現れたのでこれを船板に彫りつけたことから「船板名号」であるとし、唐で善導大師に出会ったとの記述があると・・
善導大師(613~681)は中国浄土教の僧で空海とは年代が重ならないし、わが国に来たという記録もないようです。
これらの伝承や記録は、あるいは、福岡の善導寺(浄土宗)の縁起にあるという善導大師像が宋より伝えられた際の事跡が脚色されたものとも考えられます。
しかし、さてさて、その背後にあるものは何でしょう。
満願寺は現在、臨済宗の寺ですが、この寺以外で空海筆銘の六字名号の版木や版本が所在する四国の寺は、40番観自在寺(真言宗)、51番石手寺(真言宗)、78番郷照寺(時宗)、81番白峯寺、讃岐天福寺(真言宗)、52番太山寺(真言宗)などを数えるといいます。また71番弥谷寺には船石名号が存在します。
四国の念仏信仰は、伊予河野氏の出で時宗の開祖となる一遍、そして二祖真教の影響が大きいと言われるのは当然のことですが、南北朝、室町時代に至り、高野山においても時宗系高野聖の存在が大きくなったといわれます。当時の四国辺路の信仰基盤は、これら時宗系高野聖の力により、弘法大師信仰と念仏信仰が混淆したものから、江戸時代に入り念仏信仰から光明真言信仰に移り、弘法大師一尊化が確立されたという経緯を辿ったとされます。
極めて興味ある有力な論考と思われますのでここに追記しておきます。
(以上、武田和昭「四国へんろの歴史」2016.11 を参考(一部引用)にさせていただきました。H29.7)


 颪部の標石

颪部から岩松川を渡って、寺の下から野井口に行きます。
この道も、篠山へ参った遍路が通った旧い道のようです。(篠山から野井に行くに、満願寺を経るのは遠回りになる。前記の標石に「みぎへん(ろみち)」と示された道。)
野井坂への道に入ります。
実は、野井坂周辺については、「「四国へんろ道文化」世界遺産化の会発行、宇和島市津島町野井自治会協力により、綿密な調査に基づいた資料(パンフレット)が作られています。この度、柏のOさんより頂戴することができました。以下、これを参考にさせていただきます。(文中「資料A」と表記します。)


野井口の石神、大師堂と徳右衛門標石

野井口には、石神を祀るお堂と大師堂があり、その前に徳右衛門標石「これよりいなりへ五里」があります。
「道指南」には「野井村、くハん音堂有。此村伊左衛門・・遍路に足半をほどこし、志ふかき人宿かす 過て地蔵堂有」と記す。この観音堂は村入口の瑞応寺(伝来の観音像を祀る古寺で、今は大師堂のみ残る)、そして、地蔵堂は村の奥に現存するお堂を指すとされる。(資料A) また、文中の「足半(あしなか)」とは踵の無い半分の長さの草履のこと。「道指南」の序にも「草鞋は札所ごとに手水なき事有て手を汚すゆへに・・惣じて足半にてつとむべしといひつたえたり。・・」と道中の履物として推奨しているもの。(草鞋は両手を使って脱ぐので手を汚すことになる、と注意している。)
集落を過ぎて500mほど、県道の右手に4つの遍路墓があります。これらは文政13年(1824)、天明4年(1784)、寛政11年(1799)のもの。(資料A)
県道が右へヘアピンカーブする手前、右手に観音堂があります。ここから左へ川を渡り旧道に入ります。そこより先が、平成23年のへんろ道復旧事業により整備された道です。
まず、川を右岸から左岸に渡る橋。流れ橋(橋端を岸に括り付け、出水時の流失を防ぎ、復旧も容易)が架っています。(資料A)
この橋は、協力会前代表故宮崎建樹さんを偲んで、「宮崎橋」と名付けられています。(資料A) 橋を渡ったところに、石仏と遍路墓。中央が復元作業時川中から発見された舟形大師像(明治26年)、左側、明和4年(1771)の地蔵石仏。そして右側の墓は「周防八代油良、(戒名) いよやおはた」と刻される。(八代は屋代島でしょう) 周防大島の寺の過去帳を調査した結果、周防大島油良の女性で享和4年(1804)に亡くなった遍路と判明する。(資料A)

宮崎橋

河畔の石仏と墓

県道を越えて山道への入口は、立派なコンクリート製の上り口。(俗称、何故か「コイケダ坂」と)
ここより山道。
1ヶ所、振り返れば野井の谷が眺望できる場所があります。丸太のベンチが置かれています。道整備者のご配慮を感じます。九十九折れを繰り返し、切り通しの峠を越えて広い茶屋跡へ。そしてまた九十九折れを繰り返し、山道の出口へ。山道の入口から出口まで、私の遅足で1時間というところでしょうか。新設された宇和島道路の下をくぐり、側道を柿の木へ。

野井の谷を振り返る

 峠の切り通し

私は、1昨年、復元事業が実施された後、初めてこの道を通させていただきました。(それ以前には、道を通らず山を越えたことがあります。(3巡目、第4回その1 H22.4.
6))
復元工事の御苦労を思うと感謝の言葉もありません。歩き易い、安全な道を選び、また開くという趣旨も良く分かります。ただ、この場だけですが、私の率直な感想を書くことをお赦しください。
峠の手前にあるという文化年間や明治末の石仏も見ませんでした。復元された道は旧道より、少し東に寄っているのではないでしょうか。それに九十九折れの道がやや多すぎるような気がします。昔の道はもっと直登の多い道のはず・・(これは私の思い込み)
旧道好きの私にとっては、ややストレスの残る道でした。こんなこと言って、ほんとにすいません。

柿の木庚申堂

 祝森の子安地蔵堂

柿の木の庚申堂で、中道と松尾峠を越えてきた灘道とが合流します。
この庚申堂は、元々天和元年(1651)の建立と伝える古いもので、その謂れ。
「祝森に孝行な兄弟がいて、弘法大師が兄に地蔵、弟に青面金剛を刻み与えたと言い伝える。この青面金剛を祀るため庚申堂が建てられた・・(資料A)(青面金剛(しょうめんこんごう)は、元々帝釈天の使者だが、日本では中国の道教や道祖神と習合して、庚申さま、庚申塚などとしても祀られる不思議な神。)

(追記)庚申堂近くの道標について
ここで庚申堂の近くにある一つの道標について追記しておきましょう。

この道標、江戸末期の嘉永5年(1852)のものですが、道案内が広範で詳細であること、特に道後温泉への案内を含むことなどで貴重な道標であると言われます。一時、庚申堂東隣の柿本邸の庭にあると言われましたが、その後宇和島道路の工事と近隣住宅の改築により現在の所在は不明です。私は何度か探したことがありましたが見つけることはできませんでした。資料によりその刻字文面を記しておきます。
「梵字(大師像)嘉永五子年施主 柿ノ木大助 是より御城下御番所迄一里半/(右面)四十壱番いなり様江四里二丁 道後湯の町江四拾里 同寸ぐみち二十五里/(左面)是より篠山権現様迄五里半 是より右お徒き通観自在寺迄八里」(柿ノ木大助は柿本家の先祖、お徒き(おつき)とは月山神社への道をいうとのこと。)(h31.1追記)
 
旧道に沿って行くと、常夜橙の先に、「道指南」に「いわゐのもり村 地蔵堂」とある子安地蔵堂があります。ここには、上記の庚申堂のところで紹介した「謂れ」で兄に与えられたという地蔵が祀られているといいます。(資料A)
ここからの旧道は、現国道を左右していたようで、保田では右の山裾を通っていたようです。
保田で、国道がやや左に曲がる所を直進すると住宅地のなか、川の前のガードレールで行き止り。
うろうろしていると、近所の男性が出てきて、旧道に案内してくださる。
薬師谷川の河畔に地蔵、大師像、2基の遍路墓が並んでおり、中央の大師像の台座に「天下泰平 国土安穏、此道御城下迄三十一丁、寛政九年丁巳三月」と刻まれます。
昔はこの先の川を飛石伝いに渡ったと言われます。

保田の石造物と渡河点

保田の石造物

いよいよ宇和島の街。
中沢町二丁目の三差路に、茂兵衛標石、(229度目、明治42年9月)があります。
「(手指し)四十番奥の院へ二十丁余 寺の下に宿あり (手指し)和霊神社 四十一番い奈りへうちぬ希 観自在寺迄十里」と詳しい。
崖にへばり付くような狭い場所にある金勢神社、それに真目木大師堂にお参りして、立派な宇和島城を見ながら龍光院へ。
真目木大師にある案内板に拠ると「九島(くしま)鯨谷の願成寺は、離れ島にあるため巡拝に不便なため、寛永8年、元結掛に大師堂を移し、元結掛願成寺といった。明治になって龍光院に合併された・・」とあります。
「名所図会」に「願成寺 町入口右手に有、元結掛大師堂同寺に有り・・」とはこのこと。

 馬目木大師堂 

澄禅は、宇和島のことを「・・西ノ方入江ノ舟津ナリ。此真中ニ廻一里斗ノ城有。樹木生茂リタル中ニ天守以下ノ殿閣ドモ見ヘタリ。侍屋敷・町家ユゝシキ様也。祈願所ニ地蔵院、龍光院トテ両寺在り。此宇和島ハ昔ヨリ万事豊ニテ自由成所ナリ。殊ニ魚類多シ。鰯と云魚ハ当所の名物也・・」
と、珍しく多弁に高揚した気分で書き連ねているようです。
今も昔も、うまいもののあるよき所であるのでしょう。

終りに、龍光院の参道石段の中ほどに、茂兵衛標石、190度目、明治35年7月、西参道口に、219度目、明治41年11月。いずれも「いなり」を案内、があること書き添えておきましょう。

 龍光院

この秋遍路の後半の旅。何だか道草が多かったような・・6日もかけて殆ど進まなかったような・・石造物ばっかり見て歩いたような・・
この辺で区切りとしましょうか。

野井坂付近の地図
 祝森付近の地図  宇和島付近の地図を追加しておきます。

                                                (11月16日)

(追記)付録 伊予の生活の道古道(1)宇和島から南への道

この数年の間、土佐国境から宇和島まで更に中予や東予へ、いくつかの古くからの遍路道を辿って歩いてきました。
札所と札所を繋ぐ遍路道に対して、町や村々をつなぐ街道などの道、それは商業活動や生活のためというよりも政治的目的が強かったという指摘もありますが、ここではこれを敢えて「生活の道」と呼んでおきましょう。
遍路の道筋は多くの所で生活の道とも重なっていると想像できるのですが、多いに気になるのは生活の道の古道の在処です。古道と言っても江戸時代に入る前に開かれ消えていった道については、今や追いかけることはできないでしょう。私の興味の内にあるのは、江戸時代に生活の道として使われていた道です。江戸時代の文献を追って、その時代の生活の道の在処を確認してみたいと思います。

宇和島藩は宝永三年(1706)「大成郡録」を編集します。同書収容の「領境辨往録」には、宇和島からの主要道の道筋が示されています。(これらの大要はは愛媛県史 民俗上(昭和58年)に収録されており、一部を引用しながら記しておくことにします。)
ここでは、宇和島から南土佐国境へ向けての主要道を採り上げます。(なお、朱書(赤字)で
記した距離の数値はそれ以前の朱書以降の距離を表しています。従ってこの距離を加算してゆくと累計距離が示されます。)
①「僧都村通小山村迄
「一、御城下より来村(寄松付近)まで 道法拾四町 来村より祝森まで 同一里 此間中川弐ヶ所  一、祝森村より野井村迄 同壱里 此間中川壱ヶ所、弐拾町程上り下り坂也 野井坂 一、野井村より岩淵村迄 同弐拾壱町 此間川弐ヶ所、内壱ヶ所大川壱ヶ所中川、弐拾四町竿道 
一、岩淵村より秀松村(増穂付近)迄 道法弐拾町 
一、秀松村より僧都村迄 同三里半 此間中川弐ヶ所、三里程上り下り坂也、中野々平小かんとう 一、僧都村より緑村まで同弐里 此間中川壱ヶ所、壱里半程上り下り坂也、大かんとう 一、緑村より広見村迄同壱里 此間川弐ヶ所、内壱ヶ所中川、八町程上り坂下り坂也、赤坂 一、広見村より小山村迄 同弐拾五町 此間壱町程小坂也、舟越坂  一、小山村より土州境傍示杭迄 同弐拾壱町 此間道法上り坂也、松尾坂 道法合拾壱里拾壱町    竿道二〆拾壱里拾四町」 
これは、宇和島、野井坂、岩淵、中道、広見を経て松尾坂に至る道で、現在の遍路道(最近復活した中道経由の道)ともほぼ一致しています。(括弧内は現在の地名をあてました)
②「正木村迄
「一、御城下より来村迄道法拾四町 一、来村より祝森村迄 同壱里 此間中川弐ヶ所 一、祝森村より野井村迄 道法壱里 此間中川壱ヶ所、弐拾町程上り下り坂也、野井坂 一、野井坂より山財村迄 同壱里 此間大川三ヶ所、三拾町竿道 一、山財村より御内村迄 同壱里弐拾弐町  弐里竿道 道法合九里 竿道二〆九里八町」
これは、宇和島、野井坂、山財、御内を経て正木に至る道で御内以降の表記が曖昧ですが篠山越えの現在の遍路道ともほぼ一致する道です。
③「柏村通外海浦迄
「一、御城下より来村まて 道法拾四町 一、来村より祝森村迄 同壱里 此間中川弐ヶ所 一、祝森村より高田村迄 同壱里半 此間小川三ヶ所、壱里程上り下り坂也、松尾坂 此間大川壱ヶ所 一、高田村より岩松村迄 拾八町 此間大川壱ヶ所 一、岩松村より芳原村迄 道法拾町 一、芳原村より下畑地村迄 同拾三町此間中川壱ヶ所 一、下畑地村より上畑地村迄 同拾八町 此間中川壱ケ所 一、上畑地村より柏村まて 同弐里拾七町 此間壱里半程上り下り坂也、柏坂 一、柏村より摺木村(御荘菊川付近)迄 同壱里 此間小川壱ケ所 一、摺木村より長洲村(御荘平山付近)迄 同壱里 此間小川壱ケ所 一、長洲村より平城村迄同拾八町 一、平城村より城辺村迄 同拾三町 此間大川壱ケ所 一、城辺村より外海浦(深浦)迄 同拾八町 此間道法四町程上り下り坂也 道法合拾里拾三町 但僧都村道ハ九里半」
これは、宇和島、松尾坂、岩松、柏坂、平城、城辺を経る道で、現在の柏坂越えの遍路道ともほぼ一致します。ただし終点は外海浦で以降海路による道に繋がっています。

以上のように、宇和島より南は生活の道と遍路道は見事に重なっていた、と言うより遍路もまた生活の道を歩いて巡っていたといえるのではないでしょうか。①の中道を経る道は幕府巡見使が通ったため巡見使道とも呼ばれ、官道としての色彩が強くまた、②の篠山越えの道はその厳しさより敬遠され、もっぱら③の柏坂越えの道(灘道)が遍路道として採用されていったと思われます。
                                             
さらに追記しておきましょう。上記追記中の③の終点が外海浦(深浦)となっているのは意のあるところと思われます。
外海浦は天然の良港で、藩政時代、海運が盛んで番所も置かれていました。明治以降の遍路においても、厳しい山越えの道を避けて船便がよく利用されたようです。
大正7年、高群逸枝は深浦から宿毛港(片島)まで船便を用いていますし、また宇和島への船の利用も誘われています。昭和7年、漫画家の宮尾しげをは宿毛港から深浦に舟を利用したと記しています。明治以降では船場として深浦の他に「平成25年秋その9」で示した茂兵衛道標に刻されるように貝塚港も利用されたようです。 

                                   (令和3年6月 改記)

 

 

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コメント
 
 
 
野井坂 (やすし)
2013-12-22 22:13:44
歩き始めの日に篠山を越えるという暴挙に出たせいで足を痛め復元された野井坂越の遍路道を楽しむ余裕がありませんでしたが、逆打ちで
道がわからずずっと県道を歩いた1回目、強行突破で何とか峠を越えた2回目を思い出すと復元にお力を注いで頂いた皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。多くの人に利用して頂いて再び廃道にならないよう祈っています。
次回は来年でしょうか?遍路道のどこかでお目にかかれるのを楽しみにしております。
 
 
 
やすしさん (枯雑草)
2013-12-23 16:23:05
こんにちは。
おっしゃる通りです。私も旧道の復元に努力された方々への感謝の気持ちは大いに感じておる積りです。ただ、古い道には石仏や道標など昔の人が残したものが必ずあります。こういうものを見ながら歩きたいという気持ちも抑え難いのです。お許しください・・
来春も歩ければ歩きたいと思っています。どこかで、やすしさんとお会いできますよう、期待させていただきます。
 
 
 
道指南シリーズ (たけのしん)
2017-08-16 19:20:57
宇和島市の入り口の寄松にも毘沙門天様のお堂が書かれていますが、これも今の所は不明です。
 
 
 
たけのしんさん (枯雑草)
2017-08-17 09:20:33
これも後の記録はないようですね。
宇和島と毘沙門天、縁が深いのでどこかに移されたのかもしれませんね。
 
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