四国遍路の旅記録  平成26年春  その1

まだ 歩いています・・

もうそろそろ歩き納めかな・・と自分でも思っておりましたし、家族、親戚筋にもいろいろあったりして、半分は諦めかけていましたが、どっこい、しぶとく歩きましたよ。
宇和島から今治まで。
例によって88ヶ所の札所をまわる通常の遍路道以外の寄り道もしました。
でも、今回は少し遠慮勝ちで、歯長峠から法華津峠、旧宇和島街道の一部、それから笠置(かさぎ)峠越えくらいでしょうか。
万歩計の歩数は60000歩を超えていましたから、40kくらい歩いた日もあったようなのですが・・。
それで、元々不調な右足を庇って歩いた所為もあってか、左足が動かなくなり、最終行程で予定していた高縄寺行きは諦めました。
どうにか今治の55番南光坊まで辿り着きました。「ズルしたろー」、まあ、まあ、それはその日の日記で白状します。
4巡目ともなれば、書くこともまた写真もダブリが多くなっていると思います。同じことを以前とは違うように書いた所もあろうかと思います。私はあまり頓着していません。気が付かれましたら、ご容赦ください。
それから・・標石の記録や昔話の採り入れなど、私好みのマニアックな内容に偏ったところも多いと思います。どうぞ随意読み飛ばしをお願いします。読み飛ばしていたら終りまでいっちゃった・・ということになりそうな気もしますが。
徳右衛門標石と茂兵衛標石については、確認したもの殆ど総てを載せました。私の覚えのためですから、これも無視してください。ただ、私としては、石に刻まれたものを具さに見ることを重ねてゆくと、時代を越えて、お二人の性格が垣間見えるような気がしたことがありました。

参考資料としては、いつもの 真念「四国遍路道指南」(以下「道指南」と略記)や「四国遍礼名所図会」(以下「名所図会」と略記)の他に、愛媛県生涯学習センターのデータベース「えひめの記憶 伊予の遍路道(平成13年度)」 それから、ご夫婦で愛媛県内の旧街道を草木を掻き分け探索された「四国の古道・里山を歩く」という貴重な記録があります。
更に、善通寺のMさんの膨大なHP「空海の里」は別格として、まーきみさんのブログ「気功的整体師の奮戦記」、あわてん坊将軍さんのブログ「間口は広いが奥行きは無し」の地域に密着した聞き取り調査など、やはり貴重なものです。こういったことは、遍路姿での急ぎ旅では、聞きとることはまず無理ですから・・日記のなかではその都度ことわっていませんが、引かせていただきました。
これらはネット上で見ることができるので、大変便利でありがたいものです。

・・では、足を引きずって行ってきます・・


 宇和町下松葉の桜 



 宇和島から歯長峠を越えて法華津峠へ

早朝の宇和島。満開の桜に誘われるように、和霊神社の前を通ります。
巨大な石の鳥居、豪壮な社殿には驚かされます。和霊神社は、宇和島藩家老山家公頼を祀った神社。伊達政宗の長男、秀宗の宇和島移封に従い、山家公頼は家老として藩政を支え成果を挙げますが、藩士の讒言を信じた秀宗の命により殺害される。後、無実が明らかとなり1653年、公頼を祀る神社を創建・・ 謂わば、江戸時代版天神さまなのですね。
名所図会(寛政12年、(1801)写本)には、札所寺の図に並んで和霊社の図が堂々と掲げられています。藩の後押しの絶大さを感じます。

和霊神社

過去、三巡目までは、天然記念物のイブキで有名な伊吹八幡神社(町名も伊吹町)に近い山裾の道を通って龍光寺に向ったような記憶があります。今回も、と思っていましたが、和霊神社に寄ったため道が分からなくなり、通りがかりの人に尋ねます。
「ワシもそっちの方向行くからついてきて・・」
これがいけませんでした。国道から県道57号に入るルートを進んで行くのです。八幡神社のイブキも、それから道連橋の袂にあるという徳右衛門標石も見落としてしまいました。
いえいえ、案内人を責めているのではありません。古い道標などを見てまわる遍路の方が変わり者ですから。実際、新しい遍路シールもこのルートに貼られているようでした。


 清水大師堂と徳右衛門標石
 

県道57号を行くと光満(みつま)中組、左側の一段高い所に清水大師堂があります。
その前には、徳右衛門標石「是よりいなりへ一里二丁」。
名所図会には「・・山路とふり三ツ間村、清水大師堂右手ニ有リ・・」と記すように、当時は右手の山腹にあり、そこは名の如く涸れることのない湧水地の傍であったようです。
光満新屋敷の三差路に茂兵衛標石。229度目、明治42年9月があります。この標石は左右の両手指しです。右は道順ですが、左は三間町是能へ行く道を指しているように思えます。
地図を見ると、確かにほぼ同距離で龍光寺に行けそうです。
やがて窓峠(まどのとう)。
峠には、七度栗の伝説が伝わる大師堂があります。
窓峠の少し手前、左に入る古道があったようです。この度は現在の窓峠は通らず、その道に入ります。
入口には「旧遍路道、多福院から四十一番龍光寺へ」の標示。
山道を上ると直ぐにぽっかりと現れる切り通し。その先は三間の平野が覗えます。
右手に、務清山多福院と書かれたお堂。(このお堂が窓峠大師堂とも呼ばれる。)近くには、務田村権蔵奉納の地蔵や墓と思われる立派な地蔵、元禄15年(1692)と読める遍路墓など多くの古の思いが宿っているようでした。
山を下り、北方向へ直進。務田橋を渡り、利近池の手前で右折、JAの前で、龍光寺へ真っ直ぐ向う今の遍路道に合流します。


 窓峠付近の旧道の切り通し

 多福院前の地蔵  

龍光寺参道の鳥居の左側に、茂兵衛標石、263度目、大正5年7月。「四十一番い奈り 四十板奥の院」を示します。また、寺の石段の中段に徳右衛門標石。他の徳右衛門標石とは異なり、大師像の代わりに手印が彫られ「四十一番稲荷山、従是佛木寺二十五丁。文化五辰の年号もあります。
四十一番龍光寺。
古い道標がそうであるように、昔は「いなり」と呼ばれた札所。
名所図会には「本社稲荷大明神 観音堂本尊十一面観音 本社の東・・大師堂 本社より石だん下り東方にあり」と記され、神仏分離を経た今も観音堂が本堂に代わった以外、堂宇構成も神仏習合の姿をそのまま残していると思われます。
これは、大師が稲荷神を稲荷山の山頂から麓に遷して、東寺の鎮守としたと言われることに象徴されるように、真言密教の全国拡大に稲荷信仰との特別な関係があったということと関連がありそうに思えます。それは、龍光寺のご詠歌「此神は三国流布の密教を守り給わんちかいとぞきく」にあからさまに表われているように思われます。

 龍光寺参道        

            
  龍光寺坂、菜の花の道

仏木寺に向う道は、龍光寺の墓地に入り、西に山を越える道となります。
この山道の周囲には、宝暦13、安永7、天明4、文化5など江戸中後期の年号が刻まれた多くの遍路墓が見られます。山道の下りは、菜の花の道でした。県道へ。
今は県道をそのまま進む遍路が多いようですが、成妙小学校の先を右折するのが旧道。
中程の小さな広場、常夜灯があり観音さんが祀られ、周囲には遍路墓らしき石が集められ、昔の道を偲ばせます。
四十二番仏木寺。
地元では昔から「牛の大日さま」と呼ばれてきた寺。本堂の隣には家畜堂があります。
四国霊場では珍しい茅葺屋根の鐘楼。葺き替えが終わったばかりで、明るい色に輝いていました。そういえば、山門も古色という記憶があるのですが、新しい山門に改築されていました。

(追記)「仏木寺の家畜堂について」
前記のように、この寺は「牛の大日さま」と呼ばれ、寺には珍しい家畜堂を持ち、古くから牛馬を祀っています。
武田明は一つの伝説を伝えています。 
「大師がこの地を通りかかると、牛を引いた老人にあった。みちびかれて楠の下を通ると上から宝珠が落ちてきた。その宝珠は大師が唐にいた時に三鈷と共に東に向って投げた宝珠であった。大師はその楠で大日如来を刻み仏木寺を建てた。本尊大日如来は牛馬の本尊で牛の病平癒のために絵馬をあげると言う。」(この説話とほぼ同様なものは寺の縁起として伝えられるとともに、「四国遍礼霊場記」にも収められています。)(武田明「巡礼の民俗」より)             (令和5年10月追記)

 仏木寺の鐘楼

山門前の左側に茂兵衛標石、100度目、明治21年5月。「左 佛木寺伽藍/左 吉田高野山教会所/明石寺迠三里」。「吹風も清し蓮乃花の寺 臼杵陶庵」の添句付です。(明石寺への距離は後刻とも言われます。)
この標石は、元々寺の西300mほどの西谷橋の袂にあったそうで、合わなくなったため手印が削られています。なお、標石にある吉田高野山教会所とは、吉田町裡町の長福寺を指し、四十番観自在寺から海路で吉田町長福寺を経て四十二番、四十一番に至る巡拝ルートの名残りを示すものと言われます。

追記「吉田への道、十本松峠道について」

現在は仏木寺門前にある茂兵衛道標に案内する高野山教会所とは、旧宇和島街道に面する吉田町裡(うら)町の長福寺を指します。(長福寺は浄土宗ですが木造八十八体仏を有する大師信仰の残る寺)
吉田町は江戸期の始め、伊達宗純が三万石を分知され吉田藩を創立した地。宇和島と卯之町を結ぶ陸路の中心は、江戸期を通じて吉田町を通る旧宇和島街道でした。吉田町はその立地より、後に鉄道、バスの交通網が整備されるまで、江戸期から明治・大正期のあいだ、水運の基港として発展してきました。
吉田藩の内陸の穀倉地帯であった三間と吉田町を繋ぐ道として、江戸期の始め延宝年間に開かれたのが「十本松峠道」(標高280m)でした。狭い山道ながら、江戸・明治期を通じて人馬の通行が盛んで、三間の人は「吉田街道」と呼んだと言われます。峠には大正期まで茶屋があり、また、峠近くでは年二三回、牛角力の大寄せ大会が開かれ賑わったと伝えられています。
峠道の三間側の入口は三間町是能、龍光寺の西方、杣道を改修して人馬道とする工事に尽力した諸田仁右衛門の供養塔の直ぐ先。今は通る人もなく静まっているそうです。(地図も追加しました。立間付近」 「務田付近
ひとつ加えて・・龍光寺からこの峠道に行く道の途中には、あの宝暦3(1753)年の建築、旧庄屋毛利家屋敷があります。村の人々が熱心に保存活動されているようです。古民家ファンには欠かせぬ所かも・・      (令和5年6月追記)




 歯長峠山道の始まり

車居池の右側を通り、歯長峠への山道に入ります。
この山道入口までの道は、新しい自動車道が出来たため、やや分かりずらいものになっています標識を見落とさないよう注意が必要でしょう。
山道から車道に出た後、休憩所の先の「これより200m急坂」の鎖の手摺の道は有名ですが、それまでの山道も結構きつい上りです。
晴天の歯長峠は心も晴れるようです。標高500m、風も爽やか。

さて、ここから寄り道の始まりです。
四国の道を通って高森山を越えて法華津(ほけつ)峠へ。そこから旧宇和島街道を通って卯之町に行こうというのです。
特に、法華津峠から見る海の風景、そして昔から多くの人が歩いた旧宇和島街道の道は、以前から私の憧れが強いものでした。
下川(ひとうかわ)への遍路道は、ここから一気に下る道ですが、高森山への道の最初は送電鉄塔の下から始まる緩やかな林道風の尾根道。
なだらかな山を一つ越えて少し下り、高森山の上りにかかると、道筋はいくつかありそうですが、部分的に舗装された林道と山道とを繰り返し複雑な道を辿りました。
幾度か前進、後退を繰り返す場面もありますが、基本的には尾根に沿って、高森山に達します。
頂上の休憩所からは、樹木の間で法華津湾が眩しい・・
荒れた山道を下り、法華津峠展望所へ。ここからの展望は思いに違わぬ感動的なものでした。
手前に法華津湾、その向こうには戸島、日振島など宇和海に浮かぶ島々。左手は宇和島の権現山でしょうか。空は限りなく広く・・


法華津峠から・・   正面は明浜町俵津あたりか


法華津峠の歌碑

展望所には海を背にして一つの歌碑があります。
「やま路こえて一人ゆけど 主の声にすがれる身はやすけし 清雄」
これは讃美歌の歌詞の一節。
この讃美歌のこと、作詩者の西村清雄(すがお)のこと、遍路ブログとしては既に「楽しく遍路」さんの感動的な紹介があり、二番煎じですが、私の遍路旅の想い出として敢えて記しておきます。
  
西村清雄は、明治4年松山藩士の長男として生まれ、成人してキリスト教に入信。帰郷して宣教師ジャンドン女史の指導により伝道活動を行います。明治36年、宇和島からの帰り道、宇和島街道の難所と言われた法華津峠で夜を迎え(鳥坂峠の夕暮れの道であったとも)、歩きながらゴールデン・ヒルの曲に一句一句作った詩がこの「山路こえて」になったと言われます。この歌は、当時の讃美歌集の404番として採用され、多くの人に愛されることになります。
・・あの小林多喜二の母が多喜二の死の日まで愛唱していたのもこの歌であったと言います。(三浦綾子の「母」に記されます。)
とても感動的な讃美歌です。YouTube等でお聞きになることをお勧めします。


YouTube讃美歌404番 
 (この曲、何度も聞いていると、私にはオーソドックスな合唱曲よりもやや軽やかなペギー葉山の歌の方が好ましく
思えるようになりました。リンクします。)

歌碑は昭和28年、松山市永木町(後に北久米町に移る)の城南高校校庭に建設、西村清雄出席のもとに除幕されたと。昭和30年この風光を愛でてか、法華津峠にも歌碑が建てられました。 

歌碑に刻まれた以降の詩も載せておきましょう。遍路の心にも通ずる何かを感じないわけにはいきません。

     山路こえて ひとりゆけど 主の声にすがれる身はやすけし
     松のあらし 谷のながれ みつかいの歌も かくやありなん
     峯の雪と こころきよく 雲なき空と むねは澄みぬ
     みちはけわしく ゆくてとおし こころざすかたに いつか着くらん
     されど主よ われいのらじ 旅路のおわりの ちかかれとは
     日もくれれば 石のまくら かりねの夢にも み国しのばん



 法華津峠を下る(林道)


 法華津峠を下る(石畳)

展望所の北300mほどが法華津峠。
この辺り、旧宇和島街道の上ですが、卯之町から吉田へ曲がりに曲がりを重ねる旧国道の一部でもあります。
すぐに旧国道を左に分け、拡幅され平らで、杉林に囲まれた見事な林道となります。この道を2kほど行くと、テレビアンテナ施設に行き当たり、下り道は見つかりません。
少し戻って送電鉄塔の下で地図を見て、下る場所を考えておりました。
幸運でした。草木の陰に「法華津峠展望所」の標示。下り方向からは発見することは不可能であったでしょう。
ここからが昔の宇和島街道がそのまま残っていると思われる道。
狭い道ですが、石畳も所々に残っています。
1.5kほどで山道の出口。卯之町は直ぐです。いい道との出会いでした。

国道56号と重なった道の左側、山裾に歯長寺(しちょうじ)があります。
昔は歯長峠の山中にあり、戦国時代の末、兵火にかかり現在地に再建されたという寺です。
寺に寄って43番明石寺に向います。
参道口の鳥居右側に茂兵衛標石、256度目、大正3年8月、「明石寺へ三丁余」。また、山門の左側に徳右衛門標石「これより菅生山まで二拾壱里」があります。
明石寺の本堂の立派なこと、改めて見入る思いです。堂横の椿も美しい。

 明石寺

 明石寺

 明石寺(山門)

 明石寺山門の徳右衛門標石

山道を通って卯之町へ。
少し夕闇が寄せる落ち着いた古い街並をゆっくり見て過ぎ、上松葉の宿まで。途中、満慶寺の参道入口に、徳右衛門標石「これよりすがう山二十里」を見ました。
古い墓の上に重なる桜も満開。(冒頭の写真も)

卯之町の桜


 卯之町

 卯之町の家                                                 
                                                   (3月27日)

 光満付近の地図  務田付近の地図 歯長峠付近の地図 卯之町付近の地図を追加しておきます。


(追記) 伊予の生活の道古道(2)宇和島から北への道

さて、江戸時代において、宇和島から北に向かう主要道の様子はどうだったのでしょうか。
宇和島藩編集の「大成郡録」(宝永三年(1706))に含まれる「領境辨往録」には次のように記されています。
・「法花津峰通東多田村迄
「一、御城下より高串村迄 道法壱里 此間川三ヶ所、内壱ヶ所大川 弐ヶ所中川 一、高串村より皆田村迄 同三里拾八町 此間道法壱里半程上り下り坂也、法花津峰 一、皆田村より松葉町迄 同拾八町 此間大川壱ヶ所 一、松葉町より下松葉村迄 同拾壱町 此間小川壱ヶ所 一、下松葉村より上松葉村迄道法六町 此間小川壱ヶ所 一、上松葉村より坂戸村迄 同拾町 坂戸村より賀茂村迄 同六町 賀茂村より東多田村迄 同三拾壱町 道法合七里(皆田より東多田まではすべて宇和町の字名として残る)」
この表記は宇和島から藩境東多田までの道筋ですが、高串村から皆田村(宇和町皆田)の間が略されているので、三間、歯長峠越えの道なのかあるいは吉田、法華津峠越えの道なのか迷うところですが、高串が三間への経路であるところから前者とするのが一般的解釈のようです。(吉田から宇和島までは高串ではなく黒の瀬、大浦を経る道が主でした。)
いずれにしても、宇和島から宇和へは二つの経路があって、後者の吉田を経る道が宇和島道(後の宇和島街道)と呼ばれる道で主要道であったと思われます。
宇和より先はどうでしょうか。「領境辨往録」に「笠木通三崎浦迄」と表記された道。これは下松葉村(宇和町下松葉)より分岐して笠木(笠置峠)を越えて(または大江村より分岐して鳥越を経る枝道を通り)八幡浜浦、さらに三崎浦(佐田岬半島の伊方町三崎)への道です。
八幡浜を出て夜昼峠を越える八幡浜道、東多田から鳥坂を越える道は大洲で併さります。大洲藩の地、大洲、新谷、内ノ子。ここより遍路道は久万の大宝寺に向かいますが、生活の道の主要道は中山、佐礼谷、犬寄峠、黒田、松前、余戸を経て松山藩の中心松山に入る大洲道(後の大洲街道)です。八幡浜道と大洲道を併せて十九里三十五丁と言われます。(なお、
朱書(赤字)で記した距離の数値はそれ以前の朱書以降の距離を表しています。従ってこの距離を加算してゆくと累計距離が示されます。)

                                            (平成30年8月追記)


(追記)宇和島藩参勤交代の道

四国の内でも最遠の宇和島藩が参勤交代に用いた道筋については、大いに興味をそそられることです。追記しておきましょう。
宇和島藩は慶長20年(1615)伊達秀宗が板嶋丸串城(宇和島城)に入った時をもって始まったとされるのが一般ですが、それ以前の慶長13年(1608)富田信高が伊勢津藩より移封されており、これを始まりとする見方もあります。
それはともかく、藩が参勤交代に用いた道は大雑把には、「陸路」と「海路」の二つがあったと言えるようです。陸路は「追記1」で示した「法花津峰東多田村迄」に「笠木道三崎浦迄」を併せた道に重なるものです。ただし、吉田付近は同じ伊達氏とは言え吉田藩であり、他藩の地を避ける配慮も働いたものとも推測できる。
そして、より重視されるのは海路の方。城下を出た御座船は奥南(おくな)運河を通り・・(干潮時には船を担いで運河を渡ることもあったとか・・)その先、時化に遭ったときの寄港地として、下泊(三瓶(みかめ)町)、上泊(八幡浜市川上町)が設けられていた。この泊地、防波堤と島々に囲まれ、北に開いた天然の良港で、頻繁な台風の南風(マジ)を防ぐに最適であったという。泊地に寄らぬ場合は、城下を朝発ち、夕方には塩成(伊方町)に着いたようです。
塩成は砂浜で、時化の時は上陸が困難であったため、その時は八幡浜に近い川永田で下船、陸路、九町、二見を経て三机に入ったという。
塩成からは僅かな陸路で三机港に入り宿をとる。
長大な佐田岬半島、その先端の潮流は早く船の難所として知られていた。三机港は、その航路を避けるために開かれたといってもよいでしょう。(伊達氏の前の富田信高は、慶長15年、塩成、三机間の堀切工事に着手したが失敗したという。)
天候や潮流を選んで三机港を出た船は、伊予灘、青島、弓削(尾道付近)、白石(北木島の北)、牛窓などを経て室津(現相生市)に至った。そこから山陽道、東海道で江戸に入ったのです。長い道程ではあります。                                

 
宇和島藩参勤交代の道(クリックすると拡大します)                (令和4年6月追記)                                                    

 

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コメント
 
 
 
Unknown (楽しく遍路)
2014-04-25 22:56:07
枯雑草さんの素敵な写真、素敵なコメントにまた出会うことができ、うれしいです。
「昔の宇和島街道がそのまま残っていると思われる道」、さすがですね、私は見つけられませんでした。「幸運」を呼ぶのも実力です。
「山路をこえて」、私もYouTubeで何回も聞きました。
笠置峠、ご報告を楽しみに待ちます。時間は掛かるかもしれませんが、いつか後追いさせていただきます。
 
 
 
楽しく遍路さん。 (枯雑草)
2014-04-26 19:34:51
こんにちは。
いろいろな所、後追いをさせていただいて
おります。ただ、私のは「ただ、歩く・・」
だけですが。
この法華津峠、宇和島街道は「四国の古道、里山
を歩く」を見て、前から歩きたかった所でした。
また、いろいろな場所、ご指導ください。
もうあまり歩けないかもしれませんが・・
 
 
 
又々…歩きたい (大井田 泉)
2014-04-27 14:55:57
平成19年4月3日出発。34年間勤めた公務員生活、早期退職し、勢いで一人歩き遍路に出ました。早期退職は一年前位から考えており、退職したら、遍路に出ようと考えておりました。3ヶ月前よりシューズ・リュック・案内本等買え揃い、少しずつウォーキングして慣らし、備えました。ても出発する日が近づくに従って不安感が益し、当日は勢いでわが家を出ました。娘達には、見送りは要らないと前夜に言い、早朝皆が未だ寝てる間に出発しました。元に戻りますが、何だか最近、又、お遍路の事が気になりだし、図書館に行ってお遍路に関する書物を借りて読んでおります。ますは初心者からに戻ってと、貴書の本が目に入り、読ませて頂きました。懐かしく…、尚一層のお四国に想いを馳せております。一巡目は歩き通しで45日かかりました。二巡目は区切りで再挑戦しようかと、心に秘めております。私も今年62才。挑戦するには、今でしょ…☆と。
 
 
 
大井田 泉さん。 (枯雑草)
2014-04-27 20:29:53
こんにちは。
一度四国をまわられた人の多くは、また歩きたい・・と思われるようですね。
62歳ですか、まだ、まだお若い。事情がゆるせば、是非実現してください。
私は、四国を歩き始めて9年になります(それでまだ4巡目の途中)が、歩く人の気持ちもそれを受け入れる四国の人の気持ちも変わってきたな・・と感じることがあります。もっとも、自分自身の変化の方が大きいかもしれませんが・・
貴書?、私は遍路の本を書いたことはありません。何か感違いをされておられるのでは?
 
 
 
G・W いかがお過ごしですか? (桃 ぶどう)
2014-04-29 13:53:48
いつも楽しく、文面も写真も新鮮さに驚きながら見せて頂いています。

>もうあまり歩けないかもしれませんが・・

年々体力は落ちていきますが、まだまだ十分ですよお体大切に、またのUP、四国入りをお待ちしています^^
 
 
 
桃 ぶどうさん (枯雑草)
2014-04-29 21:19:08
こんにちは。
コメントありがとうございます。
ワシは、暇ーな自営業なので、GWもRWも
変わりないのです。
体力もダメだけど頭の方がもっとダメでね。
困ったものです。
桃さんは、いよいよ結願の旅でしょうか?
お仲間の皆さんの歓迎も予想されますね・・
どうぞ、気をつけてお参りください。
 
 
 
訪問遅くなりました (だぼ)
2014-05-02 09:13:00
さすが枯雑草さんですね

同じ場所を先日歩きましたが、とても枯雑草さんのような紹介は出来ません

写真も素晴らしい、海の写真は何かテクニックがあるのでしょう

見た目で感動して写真を撮っても私のカメラでは奥行きがなく薄っぺらにしか写りません
枯雑草さんのような写真を撮りたいとも思いますが、機材も技術もないですね

今後も楽しみにしています

この夏は89番に行かれますか?
 
 
 
だぼさん。 (枯雑草)
2014-05-02 19:05:59
コメント、ありがとうございます。
いえ、いえ私のは、ちょっと変なブログです。
だぼさんのブログはすっかり人気ブログに
なりましたね。すごいですよ。
遍路の時は、安価で最小のコンデジしか持ちません。
ピンボケも続出です。ただ、映像ソフトでちょっといじっていますが。
89番ですか。うーんまだ?です。

 
 
 
なりゑ村 観音堂 大師堂 (たけのしん)
2017-08-15 09:34:59
これも、真念さんの「道指南」には成家にあるようですが、それらしき場所も探しても分からず。
四国の道は長命水を、左に曲がるんですね。これは地図見るまで気づきませんでした。
 
 
 
たけのしんさん (枯雑草)
2017-08-15 19:10:40
ひょっとしたら、h28秋その2でも書いた、今は観音石像がある沖戸駄馬(昔はお堂があったと伝わる)がその地ではないかな・・と思いますが。
 
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